2015年4月24日金曜日

寄生獣(2014)



~価値観の衝突~ 


〇はじめに 
 原作未読者です。 

 本当におもしろかった。種VS種という難しいテーマを、ミギーの時折挿まれる核心をついた意見とかわいらしさ(ギャグ要素)で、価値観VS価値観というカタチにうまく昇華されており、劇中で説かれる価値観に対してくどさを感じない。説教っぽくないんですよ。要はこうゆう考え方もあるけどどう思いますかと。相手側にも立って考えてみない?と。  

〇想起する作品 
「今日も僕は殺される」(2007)
「デイブレイカー」(2008)
「ザ・ホスト 美しき侵略者」(2013) 
「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」(2014)
「鉄腕バーディ」 
「東京喰種」

〇衝突 
 価値観の衝突の描かれ方が何ともおもしろかった。端から人間という存在を、行動を見たらどう感じるのか、というのを最初にミギーが提示する。最初は母親という存在だった。そして剣道を殺し合いから派生した云々かんぬんと。弓道を剣道の近接系から比較してこれが遠隔での戦い方かと勝手に納得したりする。今まで当たり前すぎて、改めて定義する必要の無い情報を、いざ言葉で聴いてみるとそうだなと納得してしまう。そして体を剣に変えたり、弓に変えるのにも一応繋げてはいる。まぁ訓練要素は少し欲しかったかなと感じるものの、そんな余裕は無いぐらい侵略が強かだったと感じれば解消されるか。それに混じってるしな。 

 そして寄生生物たちを化け物や悪魔と呼称する人間。それに対してミギーは悪魔に一番近い存在は人間の方ではないかと。ガツンときたね。人間の捕食シーンは何度も描かれていた。そこに嫌悪感を示すことは間違いないだろう。しかし度々ミギーが説くのである。それは人間の価値観であると。毎日の食事、目の前の死んだ生物たちを食すことに嫌悪感を示すだろうか。同じ生きるためという理由に関わらず、誰がトンカツを食べることと、人間の捕食が同義であると割り切ることができよう。我々は無知、無関心に残酷なことをしているのである。そんな人間たちが、他の種に対してやっていることにいざ晒されると、悪と定義するのである。なぜなのか。人間の命は尊いものだからだと。人間の精神が非合理的であるが故と、短絡的に結論付けて良いものだろうかと。 

 つながりを重んじる人間と言う存在。親と子、男と女、この二者が主か。そして他にも友人、先輩後輩などなど集団を形成していく。そんな関係性のおかげで、人間は知らず知らずの内に優先順位をつけているのである。そしてそれが適用されないものたちには何の興味も示さない。
 人間の活動が他の種に対してどれだけの影響を及ぼしているかを気にしながら生活している者がいるだろうか。足元をいつも眺めながら蟻を踏まないように避けながら歩いている人がいるだろうか。スーパーの食品棚に並ぶ品物を見て、どこまで思考をめぐらすだろうか。何とも思わない、当然のことであるかのような思考。これは人間の都合の良いような思考だ。しかしそれが我々に近しい存在になるにつれて、何かと気にしだす事が増えていく。車に轢かれ道端に倒れている小動物を見て、少なからずかわいそうだと思う人はいるだろう。そしてそれが人間ならどうだろう。今や他人に関わるな、が常識となりつつある社会であるが、同じ人間と言う種が、一番に目につく、気にする対象ではなかろうか。そして自分との関係の度合いで勝手に優先順位が付けられ、生と死に関して何か特別な感情を抱くのである。それを無自覚に種と種を見比べた場合に、人間が一方的な被害者のように感じてしまうのである。無自覚故に人間同様の思考が他種には適用されないのである。そこが人間の愚かしさなのである。
 里美は道路に横たえる子犬をかわいそうとは思っても、何も行動を起こそうとしなかった。しかし母親がいなくなった新一には手料理をふるまおうとしているのである。この違いである。

 そんな思考にこの作品はうまく付け込んでくるのである。最初から他種を見てどう思いますか、というのではなく、人間とはこういう生物ですよねという提示を行ってから、人間に関する疑問点を羅列する。まぁ、その前に人間が喰われる様が描かれているわけだが、完全に敵対するような存在に対してのアプローチとして、ミギーの価値観の提示が良いアクセントとなっている。  

〇Handjob 
 鑑賞中にふと思ったのである。寄生獣という作品はHandjobに着想を得たのではないかと。自分の命が尊いが故に自分を慰めるのであろう。この映画で説かれる人間の価値観そのものではないか。そしてこの作者はおそらく右手派だったんだろうな。いやミギーに右手をとられるから左手派だったのか。ミギーのナルコレプシ設定、これは賢者タイムだろう。何をする気力もなくなる。眠くなる。結構な体力使いますからね、あれは。 
 母親なり、生殖なり、種の存続的なところがテーマとなっているのでしょう。あながち・・・・ないかな・・・

〇最後に
 完結編を観てから載せようと思っていたが、復習上映において再度観る機会を得たので、それに伴い載せる。

 2回目を観終えて、何ともおもしろくなかったのである。なぜだろう。一回目のときのような感動が何1つ無いのである。設定を置いている感じがするのだ。ただ置いているだけ。わからないなりに考えてみる。

[人間] ― [新一] ― [寄生生物]
という関係性で、唯一二者の板挟みに遭い、価値観の衝突をひたすらに行う新一という存在を中心に描かれる(詳しくは人間よりのミギーと新一、寄生生物よりの田宮良子ということになるのか)。この構図は興味をそそる。主人公の特別感は見事だ。敵対する寄生生物に目をつけられる。そしてそれを認知していく一部の人間の存在。ハイブリットになった新一はどのような決断をし、どのような結末を迎えるのか。少年漫画ならではのおもしろさか。
 母親という存在の特別感を、新一の母親、田宮良子の妊娠、娘を見分ける母親(田宮良子の母)で定義しようとしている。そして寄生生物は何のために存在するのかということを見つめることで、人間とは何なのかということにも関連させる。その上で価値観の衝突が意味を為してくるわけなのだが、そこが何とも浅はかに感じてしまうのだ。安っぽいのだ。
 ボス的な奴が人間という種を喰い殺す命令を受けてるどうのこうのと。新一が寄生生物たちを殺すことがやるべきことだと。この対立の確立が完結編に向けてつながるのだろうが、先ほどの構図で、主人公が寄生生物を倒していくだろうことは予想できてしまう。何ら主人公の決意に意味を感じないのである。価値観の衝突による哲学よりも、バトルが目立つ。殺し合いを通して、全面的な戦いを選択する決意の堅さを現そうとしているのかもしれないが、う~む物足らんぞ。
 結局はじめに鑑賞した際の私がおもしろいと言っていた部分は、ミギーのジョークともとれるような言動のみだったのだ。あれ・・・・こんなはずじゃ・・・??

 完結編は何かしらあるのだろうか・・・

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