~証明~
〇はじめに
もっと感動ものとして、くどくできたと思う。しかし敢えてそうはしなかったのだろう。彼らに共感するというより、我々を彼らの観測者・目撃者として位置づけたかったのではなかろうかと。そして彼女を忘れてしまう彼を主体に描いたというのも、また奥が深いのでは・・・
おそらく今日の社会(今も昔も)において窮屈に生きている人は、自分が見られたい、認められたいと思って生活していることだろう。しかし逆の立場にも立ってみなければダメなのだと。目線を変えなければ、というようなことが織部あずさの口から語られる。世界から忘れ去られようとする彼女からだ。今までの常識とされる(自分だけの)世界に囚われるなと。時折彼女の口から気になる言葉が散りばめられる。ここが魅力的だ。
彼女の、期待と不安のあの顔が堪らない。あの笑顔を見せられたら・・・。
そしてあの悲しげな、さみしげな表情が、笑顔が映えるだけに心を打つ。
こんな話前にもどっかで観たし、聞いた、いや読んだのか??記憶がある。このデジャヴ感。でも何なのか思い出せない。←要はこれと同じ現象でしょう。
〇こんな話
誰からも忘れられる存在となってしまった織部あずさ。しかし唯一彼女を忘れない存在が現れる。はてさて・・・。
〇忘れる
ある老夫婦。妻に自分を忘れられた夫が言う。二人で過ごした時間は残るんだと。どちらかが忘れたとしても、どちらかが覚えている。そしてどちらも忘れたとしても、二人に関与した誰かしらが覚えていると。そんなところではなかろうか。この老夫婦にしてみれば、織部あずさがその観測者であり、そこがまた何とも皮肉である。そして認知症である老婆が、彼女に旦那さんへどうぞと一対の金魚の折り紙をプレゼントするところがまた何ともやるせない。
結局忘れてしまうなら、二人の行動に意味があったのかと。我々が観ていたではないかと。おそらくこれなんではないのか、言いたいことは。結局彼らのことを忘れてしまう者もいるだろうが、この作品を生涯の一本にする人がいなくはないだろう。そして忘れてしまう人たちのこともこの作品はおそらく擁護している。
最初にぶつかった場面を想い返す。自転車で彼女と衝突しかけた。いやぶつかってたか。過去にタカシが誕生日にプレゼントしたペンダントを観せる場面ではあるのだが、それよりも気になるのは、彼が転倒したことで痛みを感じていることだ。彼が彼女を覚えているというのは、愛し合う者だからという特別感からという解釈もできるのだが、ここでは少しひねくれよう。実は彼女と彼を結びつけていたのはこの痛みだったのではなかろうかと。別の場面でこの衝突事故によるものではないのだが、絆創膏を執拗に映し出していたのもこれ関連だったのではなかろうかと。彼女を忘れないように絆創膏をはがさないと注意書きがあるものの、絆創膏は傷が癒えればはがすのは当たり前の物。彼女という記憶と、傷が癒えることによりだんだんと薄れていく痛みとが結びついていたのだ。では、その痛みとは何なのか。
記憶は五感と強く結びつく。音や匂いで何かしらの記憶が呼び起こされたことが無いだろうか。とある音楽や歌を聴いときが一般的か。そして痛みは物理的にも精神的にも強く記憶に刻み込まれる。あまりここで議論する気はないが、体罰という指導法が確立しているくらいだ。痛みに伴う記憶とは良かれ悪しかれ即効性があり、根深く刻みこまれることこの上ない。しかしその記憶は、刻みこまれるきっかけであった痛みによる恐怖でしかなかったりする。その痛みを二度と味わうまいと、制限された行動をとる。自らの意志ではなく、仕方なくだ。いったいなぜそのような制限が設けられているのかという真の理由に辿りつく者は少数であろう。それは指導者も例外ではない。本来の理由そっちのけで、痛みを避けること、与えることが理由になってしまう。自らの常識として残るものはあるかもしれないが、多くの者はそこに理由は伴っていないのだ。
この思考だと、
「主人公 ― 痛み(恐怖) ― あずさ」
と結びついている。最後の二人の姿を想い起こす。タカシはあずさという名前しか覚えていなかった。必死にあずさという名前を繰り返し、忘れないようにと努力していたのにも関わらずだ。そして思い出した時には遅かった。
痛みを経験しないように、彼女と仲良くする。そして好きになる。
痛みを避け、遠ざけ、痛みは消えていく。それとともに彼女という記憶も消えていく。
彼女を忘れてはいけないということは覚えていたが、なぜ忘れてはいけないのかという理由が伴っていなかった。名前だけが手掛かりになっていた。故に彼女を忘れてしまうことになる。
・・・う~む、しっくり来ない。人を好きになるのに理由が必要かと。これを付け加えるか。彼女を好きになるきっかけであった痛みを忘れてしまったと・・・。記念日を覚えていないカップルや夫婦の末路は如何にってなところか。・・・ようわからんくなってきった。
いや、痛みが彼女を結びつけているのではなく、彼女とは痛みそのものだったのかもしれない。誰も好んで痛みなど経験したくはない。避けて通ることだろう。そして忘れてしまうこともまた痛みである。それに立ち向かっていく彼女を愛する者の存在。そこに希望があるのか。
時の流れを感じさせる描写として、野球部の活動も描かれている。三年生云々と監督がノックを行うときに叫んでいるのが、次の画では新人戦云々になっている。三年生の存在が無くなっているのだ。主ではなくなっていると言った方が良いか。時間こそが思い出を、思い出として残すものであるが、逆に無きものにもする。忘れてしまう。
〇存在証明
この最初に二人が出会った場所において、織部あずさがタカシにこの場所がわかるかと問う場面がある。タカシは首をかしげる、そして我々もおそらく???が浮かぶことだろう。しかし、その場所が引きで映し出されることで、納得する。昼と夜の違いはあれど、ここは二人が最初に出会った場所だと。ここで察することになる。記憶することの重要度、優先順位、記憶の仕方、結びつかせ方は各々異なると。記憶の重要さは人により異なる。
記憶・記録媒体にカメラや、パソコンを見せる。その記録は断片的なものである。全てを記録はできない。できたとして、それを見返す、思い返すには同等かそれ以上の時間を要することになる。何より人間の身体こそが記録媒体であることを忘れてはならない。人間は入ってくる情報を制限しており、時とともに必要な情報を選別していく。取捨選択していく。いったい幼稚園や保育園に始まり、小学、中学、高校と、どれだけの人物を覚えているだろうか。誰だっけ?という人の方が多いことだろう。それと彼女が忘れられていくという現象は同じと言っており、理由は明かされず(理由は無い)、彼女の口から語られるに限られる。その程度のものなのだ。忘れるという現象は。彼女の言葉を一言一句記憶できない、記憶する必要が無いのと同じ。彼女の語る忘れられる理由は、普段の彼女の発する言葉の価値と何ら差は無い。ただ何かをきっかけにして誰かがどこかで特別に記憶しているかもしれないという違いがあるだけ。
あなたはすれ違った人を全て覚えているか。言葉を交わした人を覚えているか。そもそも覚えている必要が無いのだ。人間は個を守るために集団を形成する。そのために必要な情報を正確に迅速に取り出せる機能が重要視されるようになった。そして今日の高速化・光速化する社会においてそれは顕著である。ここに苦労やストレスを感じてしまうのである。人と人との関係性が希有になりつつあると騒がれているだろう。他人を待てなくなっているのだ。そして待ってくれないのである。その流れに乗り遅れるなと、そもそも乗る必要があるのか。
しかし人間という集団において、自分の存在を証明、定義及び定着させているのは、他人なのである。自分が何者なのかという証明。名前や年齢、性別、家族、友人、恋人、学歴、職業、役職、住所・・・などなど。身分証明書は?となるかもしれないが、その証明書は誰かに自分を証明するものではないのか、と言えばご理解いただけるだろうか。
世界、社会、集団の中において自分の居場所はどこなのか?と。そんな迷いや悩みを抱えている人は多くいるのではなかろうか。そんな感情を世の中の汚い(だけではないが)部分をひたすらに排除して、ピュアな二人に焦点を当てて、忘れられるというテーマで考えてみました、というのがこの作品なのではないだろうか。自分の存在は何なのか。何のために存在するのか。一度見つめ直してみてはいかがだろうか・・・
〇最後に
二人の表情につきる作品だと思う。織部あずさの、期待と不安で彼を伺う貌。安堵、喜びの笑顔。自分が忘れられていく物悲しげな顔。そしてそれを引き出していくタカシの微妙に変化する態度。すばらしかった。
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