~死の探求は、生の探求でもある~
〇こんな話
死ぬことや、死後の世界に興味を抱いている医学生たちが、臨死体験によってもたらされたものにより、今まで気にも留めていなかった過去を見つめなおし、清算しようとする(清算というとちょっと違うかも)、お話になってしまうのかな。 記憶の奥底に埋まっていた罪の意識で幻覚が見えるようになり、結果的に自分で自分を罰するようになる。自分はその罪に対してこうあるべきなんだ、という思い込みがそうさせるのだろう。いや結局はただの自己満足なだけかもしれない。罪は償えたとしても消えることはないのだから。
〇差異
人類は言葉・言語の発達により、他人の気持ちを100%理解できなくなった。しかし、だからこそ人と人とのコミュニケーションが必要であり、可能となっているとも言える。
こんな経験ないだろうか。考えていること、頭の中ではうまくまとまっていたことが、いざ書き出してみるとうまく書けない、いざ言葉に発してみようとするとうまく話せない、といったことだ。確実に頭の中にある考え、書き出したもの、話したものの三者には確実に誤差が生じる。さらにはそれを他人がどう感じるかってところでまた誤差が生じるために、他人に伝わるころにはあなたの頭から出たものは、究極別ものになっているかもしれない。そんな誤差が存在するから、その誤差を埋めようと・無くそうと、人は歩み寄ろうとするのである。しかしそれが常に歩み寄ろうと働きかけるとも限らない。離れるという選択も為されてしまう。そこがまた難しいところなのだが、ここでは自分と他人との間には必ず誤差が生じ、例え違う意見を有している者同士でも、ある程度の妥協や打開策により歩み寄りをみせるということをご理解いただきたい。
思っていることがそのまま相手に伝わればいいのに、と思うことがしばしば無いだろうか。この感動を、喜びを、共に分かち合いたい。この怒りを、この憎しみを、そのまま相手にぶつけてやりたいなどと。テレパシーのようなものが意思伝達手段として発達していればそれが可能となったであろう。考えていることがそのまま相手に伝わる。これほど便利な意思伝達手段はないだろう。
しかしだ、仮にテレパシーのような力が発達していたら、おそらく人と人とは歩み寄ろうとはしなかったのではないだろうか。そのまま相手の考えていることがわかるのである、伝わるのである。もうその時点で関係が終わってしまうではないか。もう他に何もする必要が無い。それぞれが持つ意思の是非で互いの関係性が決まってしまう。こいつとは分かり合える、分かり合えないというのが即決できる。待て待て、違う者同士が共通項を見つけようと歩み寄りを見せることが、(歴史的に見た?)人類の強みであるはずだ。それを失って我々はどこへ向かおうというのか・・・。
・・・というのがおそらく根幹にあって、基本的に過去の主人公たちのいじめなども問題になってくるのだが、その時の当事者たちの気持ちなんてものは時が経ってしまえば正確には誰も知り得ない。いじめた方は忘れても、いじめられた方は忘れないというけれどそれは正確ではない。記憶なんてものは時間が経てば経つほど自分の都合のいいように改竄されるし、その度合いは小さくも大きくもいくらでも変化する。何もいじめを一括りにするわけではないし、いじめの加害者側を擁護するわけではない。感じている事は人それぞれで、何か被害に遭ったのであればその被害者が感じている事、それが真実(主観的事実)となるのは確かだ。歳月を経てそれが如何様に変化しようともだ。それは変わることはない。
しかしそれは両者に適用されるわけで、一方的な関係性では無い。いじめという相互関係において歩み寄りや、関係の途絶を選択できなかった。いじめる事、いじめられる事の継続を両者が選択したということは、それが両者の関係性の限界だったわけだ。その限界が悲劇的な結果を生むこともある。その結果の被害者がどちらかはわからない。いじめの過程を見れば、いじめの加害者が悪だ、や、同情の余地は無い、などとなるかもしれない。
しかしそもそもだ、その考えに至ってしまうのは人間同士の関係性を、そのいじめと言う相互関係における両者間だけに限定してしまっていることにある。全くの赤の他人、地理的な問題を考えればそこへの介入はほぼ不可能である。そこが言語を選択した弱さでもあるわけだが、周辺の人物であれば介入の余地はいくらでもあったわけだ(実際当事者になった際に介入する動機があるかは別として)。限られた関係性で事態が完結するに越したことはない。大きく言ってしまえば、何のきっかけが国際問題に発展するともわからない。
現在に至るまでに築かれている偏見や差別。それの解消も夢物語では決してないだろうが、実際問題不可能であろう。ここまで世界が複雑化したのは、言葉を選択したことによる意思伝達における誤差、人間の表と裏、本音と建前によるものであることは誰しも知っていて、しかしそれを解消しようにもさらにそこに勘違いが発生することで、また新たな問題を生むことにつながっている。
・・・要はだ、人間関係において問われている課題は、直面する問題の解消にわざわざ不特定多数の他者を介入させることで被害を大きくするリスクを負うか、当事者間だけで解決を図り想定し得る最小限の被害に留めるかということになる。
〇最後に
だめだ、何を言いたかったのかがさっぱりになってしまった。
うぅっ、頭が・・・・悪い・・・・
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