2015年4月30日木曜日

神様はバリにいる(2014)


~縁~ 

〇はじめに 
 邦画における人間ドラマはやはり一級品だな。しかしこれだから日本はダメなんだ。これに味を占め、鑑賞者の感性のツボをおさえたと調子に乗り、別ジャンルの作品にドラマ部分をぶち込んでくる。そしてその人間ドラマに追随しない演出や映像を観せられたところで・・・となってしまう。さらに海外産のアクション映画に魅せられた者たちはこういった映画を物足りなく感じると言う。こりゃ邦画は伸びないわなと。日本人が邦画を応援してやらないでどうするんだ。まぁそんな私も邦画に対して特に魅力を感じていない者の一人だが・・・。以上偏見による戯言でした。 

〇想起する作品 
「LIFE!」(2013) 
日本でこの作品を作るとこうなるんだろうなと。 

〇こんな話
 アニキと一緒に・・・


〇めぐりあわせ 
 儲かる、勝ち組になる、成功するために。といったようなタイトルの本が、広告やら書店やらでよく目にするようになった。自己啓発ってやつだ。こういう行動や考えを持っていればあなたも絶対に幸せになれるといったような内容だ。しかしそれを読んだところで残るのはこうすればいいという行動の部分だけだ。なぜそうすべきなのかという原因、理由に関しての理解が伴っていない。方法しかわかっていないのだ。そしてそんな者たちは、すぐさま答えに飛びつこうとする。ざっくり言えばマニュアル人間だ。あるパターンにのみしか反応・対応できない。応用が利かない。基となるべき経験による裏付けや指標が無いからだ。

 この思考を創り出している原因は何なのか。学歴社会であろう(ことをこの作品では結びつけていたように思う)。学歴がものを言う。尾野真千子演じる彼女てるちゃんがそうだった。ひたすらに勉強勉強で優等生と言うエリート街道をひたすらに突っ走り、起業にまでこぎつけ、同業社がやっていないことに飛びつき、その業界の最先端を走っていたはずだった。しかし結果が出ず、業績は伸び悩み、借金もし、従業員も去って行った。それはなぜなのか。方法しか学んでこなかったからだ。経験により創り出された、臨機応変に対応できるような基軸のある独自の術ではなかった。そして人を観ていなかった。方程式に組み込むべき変数である人を、定数としてはめ込んでしまった。そして自らも定数だった。答えを最初から決めてしまっていたのだ。アニキに出会ってからも頻りに答えを求めていた。しかしアニキと行動を共にするにつれて、それは変わっていくこととなる。
 まぁエリート街道突っ走った自尊やうぬぼれが強い人間であるというのが、そもそもの原因なんですがね。自己啓発本も結局は成功した事例を載せているだけですし、方法云々を議論することもまた論点が違っていたりするわけだが・・・  

 結局は茶番劇なんですよ。そう感じるであろう人たち向けに、アニキという存在について我々の1つの疑問や意見が述べられている場面が存在する。彼の行動は「成り金の自己満である」「綺麗事だ」などなど。彼の活動は、傍から観たり、人伝に聴いたりした場合には誤解されるような行動である。側で手伝っていた人物たちもそのように感じていたりもし、現地人をないがしろにしていたとアニキが反省する場面も見られる。 

 縁という言葉が使われていた。アニキは人と人との関わり、めぐりあわせの中にこそ希望や夢があると思っている。そしてめぐりめぐって自分に還ってくるものがあると。さらにそれをまた他者にひたすらに恩返しをすると。その縁やめぐりあわせといった演出が何度かあった。主人公が最初にアニキに掛けられた言葉を、アニキが落ち込んでいる時にそっくりそのまま返すのである。そしてこれを成功する(した)というプラスの面だけを描いているわけではないところが面白い。てるちゃんはアニキと共に行動した経験により培われた価値観を本にすると言うのである。てるちゃんはアニキに出会うまでにどんな人生を歩んできたのか。どんな本を手に取ってきたのか。思い出していただく。そう、実はこれはまた同じように彼女のような存在を作り上げるという縁にもなっているのだ。 


〇余談
 裸の男を前にして、びしょびしょに濡れる尾野真千子・・・・すばらしかった。

〇最後に(注、私的見解です)
 日本人に日本語で言われることにやはり意味がある。
私は洋画主体で映画を鑑賞しているし、邦画に対して否定的な意見を多く持ってはいる。しかし日本のドラマはやはり一級品だと言いたい。洋画でいくらでも感動はしてきた。しかし外国語をネイティブに扱えない私にとっては、それは翻訳者や吹替者を通したものでしかない。感動に言語という壁や理解なんてものは必要ないのかもしれない。しかしその国の文化や人間の気質を知っているからこその表現に対して、解釈や理解に誤差が生まれてしまっているのは言うまでもない。そういった点ではやはり国産に限るのである。
 性根が腐った人間なんていくらでもいる。自己中で主観でしかものを判断できない、そして自分こそが正しいと勘違いをしているキチガイ連中だ。洋画における感動は、そういう連中に対して、「なんでこんな馬鹿な奴が生きていけるんだ?」といった否定的な意見しか持たせてくれなかった。しかしそんな奴らどうでもいい、自分が変わらなければって気にさせられる作品はやはり邦画による感動なのだ。おそらく、もしかしたら理解しあえるかもしれない、という希望を持たせてしまうのだろう、洋画と日本人という異国文化の交流は。この作品も異国人同士の交流を描いてはいるものの、言葉を日本語で、日本語の発音で綴られているために違った印象を受けるのだろう。
 誰とでも分かり合おうなんて、無理なもんは無理なんですよ。こちらの常識を、全く異なる価値観を持つ者に対して理解させる。逆もそうです、異なる相手の主張を理解する。そのためにはほんの少しでも共通項を探る、そして築いていく必要があるわけで、その共通項をまるで持たない、いや持てないひたすらに頑固で馬鹿な人間は数多くいるわけで。そんな者たちと無理に理解し合う必要なんてないんですよ。ほっとけばいいんです。そしてこちらが変わればいいんです。この変わるという行為を妥協するとは感じてほしくはない。割り切るぐらいが良いか。彼らの行動原理を理解するのではなく、同じ人間ではあるもののトんだ奴らもいたもんだという存在を認識してあげる程度。偏見だが、彼らは究極の構ってちゃんなんですよ。自分の存在を他者に認識してもらうための方法に悪戦苦闘している孤独な者たちなのです。わざわざこちらが振り回されてやる必要はありません。
 生きていく上で絶対にどこかしらで関わりを持たなければいけない者たちであるわけだが、これからのそのストレスや憤りを、割り切るといった気の持ち用で軽減できればと思う。
周りにおかしな奴がいる方、職業柄モンスターと関わらざるをえない方、是非この作品を観ていただきたい。

 そもそも邦画だと洋画並みにエグく表現できないという縛りがあり、宗教的な価値観も薄い。そんな作り自体に違いのある両者を比較していいのかという観点を排除し、こじつけに奔ってしまった。そして途中から愚痴になってしまった。
・・・猛省・・・。

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