~偏見~
〇はじめに
この作品はどこまでを見つめるものなのだろうか。ショーとは何なのか・・・
〇想起する作品
「ブリッジ・オブ・スパイ」がチラつく。
〇こんな話
アイヒマン裁判を映した者たち。
〇偏見
アイヒマン実験、ミルグラム実験として、ごく普通の人間でも残虐行為をするのかどうなのかといった心理実験は存在するが、果たして裁判自体の研究は行われているのだろうか。
レオはアイヒマンに対し、なぜ毎日被害者の証言を見聞きできるのかと困惑し怒りを露わにする。
ここで1つ気になったんだ。防弾ガラスにアイヒマンは囲われていた。この防弾ガラスが彼の心理にはたらきかける作用は無かったのかと。
あのガラスは何のためにあったのか。被害者であるユダヤ人の裁判関係者に囲まれ且つ大勢の傍聴人がいる中で、防弾ガラスはいったいどのように機能するのか。
彼を守っているのである。彼にはもしかしたら守られているという実感があったのではないのか。それに伴う証言の影響は考慮されなかったのだろうか。
偽名を使い逃亡生活を送っていたことですでに彼には罪の意識があったのでは?ということは考慮されたのか。
人間と相対するのに、たったガラス1枚あるだけで心の持ち様は変わるのではなかろうか。証人との間を隔てるものの存在。極端な話画面の向こう側の世界である。我々がTVを観るのと同じだ。我々とは住んでいる世界が違う。我々にとってのリアルではないわけである。この作品とて例外ではない。
余裕があったら参照していただければと思うが、人が殺される様を「アメリカン・スナイパー」ではスコープ越しに、「ドローン・オブ・ウォー」では画面越しに行われる。人が人を殺しているという実感が、直接的でない分麻痺してくるのである。
問題となってくる悪の凡庸さ。彼は命令を下しただけで直接手を下してはいない。上にやれと言われたからやっただけだと。私に責任は無い、と彼の口から放たれるわけであるが、これは彼が言ったのではなく、言わせてしまっていたのではなかろうか。
この辺りの心理分析を専門家に詳しく聞いてみたい。
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話は少し逸れるが、まず彼に名を名乗らせていた。「私の名は、アドルフ・アイヒマン」だと。これは1つに人間としての尊厳であろう。与えられる権利だろう。人権だ。裁判にかけられることもまた1つだ。そんな中明らかになる身元不明の子供たち。少年には少女の、少女には少年の名札がかけられていたと。彼らにはそれが与えられなかった。
これに対して、レオの名前がホテルにて間違えられたりしている。それを時折訂正するわけだが、私が私であるという証明なわけだ。後にその名前を間違えるおばあさんも自分に与えられた番号の話をすることになる。今までは口を開いても嘘だと言われたと。あなたのお陰であの時聞く耳を持たなかった人たちがラジオにかじりついていると。この辺りのドラマはさすがだ。
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とある者が言う。私はアイヒマンではないと。彼のようには決してならないと。偏見の目でアイヒマン裁判が映し出されようとしているのではないかと不安を煽られる。
さらにはプロデューサーはガガーリンやキューバ危機との注目度競争を意識する。視聴者の求めているものを映し出したいと。
それに対してレオはファシストはヒトラーが自殺したところで無くならないと。どこにでも存在しうるとして、一般人ともつなげようとする。それの確証はアイヒマンに人間性が浮き出ることで得られるはずだった。しかし彼もまたアイヒマンに囚われており、彼がアイヒマンに見たいものを見出そうとしていたのである。
これをどう捉えればいいのだろうか。
その前に防弾ガラスの件を少し解消しよう。
彼らが行ってきた残虐非道な行いの数々を映し出したドキュメンタリーをアイヒマンに見せるというところでそれは語られる。アイヒマンの鎧にヒビを入れてやると。この鎧を防弾ガラスのことと関連させているのではないのかと。彼が守られているという実感は、その場において安全であると認識していることと同義であり、そんな場所において彼に罪を認めさせることこそが、一番に信頼に足る自白なのではないのかと。
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・補足
「スペシャリスト/自覚なき殺戮者」を鑑賞し、少し違う考えに至るようになった。裁判自体に違和感を感じるのである。あの防弾ガラスは彼を守る障壁ではなく、彼を見せしめるための箱だったのではなかろうかと。要は見世物小屋だ。
その辺りはハンナ・アーレントが何か指摘しているようだ。「スペシャリスト/自覚なき殺戮者」及び「ハンナ・アーレント」のどちらかで取り上げたい。
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この作品はおそらくこの作品単体だけでは語れない。
この作品にも実はこれが言えるのではないだろうか。
この作品に関連する、ナチスを題材とした作品は多くある。そして彼らが犯した罪に関しても様々な情報が出回っている。しかしそれらはどのようにして伝えられたのだろうか。何を通して、誰を、どんな意思を介して我々の元に辿り着いたものなのだろうか。
1つに偏見である。
最初の車の中でのプロデューサーがスピーチの練習をするシーン。何度か言い直したりしている。これはどう話せば、どういった話し方が人に影響を与えるのかといった印象操作である。日本ではあまり浸透していないかもしれないが、一時期アメリカ大統領選かなんかで話題にならなかっただろうか。スピーチにおける話し方や身振り手振りまでひたすらに指導され練習すると。
またプロデューサーではあるのだが、脅迫電話・脅迫状が届いたことで彼は疑心暗鬼になっていた。晒された状況下では、身元が確認できるまでは誰も彼もが怪しく見えるのである。見慣れない者は自分を狙いに来た者ではないのかと。警察バッヂを確認することで安堵していた。逆にその状況下に無ければ疑わなかっただろう。
思考や印象操作など容易いのである。そんな事象がいくらでも身の回りにはある。見方見え方なんていくらでも変わってくるのである。
そして先ほどの三者の裁判に関する捉え方の違い。
これらを含め、この作品にて一番肝心なのは、裁判映像もまた編集されているということだろう。何番のカメラを映せとタイミングを指示する姿が幾度となく映し出されている。途中で指示者が変わったりもしている。
真実(事実)を映し出すとされるそれもまた、何かしらの意図を以て映し出されたものであるということだ。
とある事象と我々とを繋ぐ間には様々なものが介する。それを我々はどう判断し、どう受け止めていくのか。
何よりも衝撃的だったことがある。このアイヒマン裁判は1961年だ。1945年に戦争は終わったこととなっているが。今よりもまだ記憶に新しいだろう。
しかしレオの息子は裁判を目にし彼に問う。これは本当の事?と。
誰もナチスによる被害を真実として受け止めなかった件と関連するのだろうが、すでに歴史が、戦争の記憶が薄れ始めているという危機感を煽る表現に思えてならない。
だからこそのこういった作品の意義なんだ。
そしてこの作品もまた真に受けてはならない。悪の凡庸さ、である。
〇最後に
もしかしたらこの作品を称賛している人間よりも、否定的に捉えている人の方が確信をついているのかもしれない。
ではでは・・・
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