~悪の大小~
〇はじめに
「50/50 フィフティ・フィフティ」という映画が一番わかりやすいと思うのだが、アナ・ケンドリックのあの相手との距離感を測りかねていたり、間の悪さに対する戸惑いや取り繕い方ってのが抜群に活かされた作品だ。ベン・アフレックだけでも十分だったが、彼女のおかげでより洗練されたものとなった。よく彼女を引っ張ってきた。もう私にとってはこれに尽きる。
〇想起する作品
「PARKER/パーカー」(2013)
「ガリレオ」
〇こんな話
正義を完遂する。
〇悪の大小
なるべく相手に気付いて欲しい、悟ってほしいとするコミュニケーションをとるクリスチャン・ウルフ。自分から積極的にアプローチすることなく、相手から答えを引き出す、判断を促そうとする。それに対して、父親をはじめとした半ば強制的に脅迫めいた言動で相手に選択させる(他の選択肢を与えない)者たちが描かれている。他人と相対したときのやり取りにおける対比がそれはそれはすばらしかった。
クリスチャン・ウルフの行動の変化もわかりやすく丁寧だった。アナケンとのファーストコンタクト。彼は彼女を起こそうとドアを大きな音を立てて部屋に入る。何度も大きな音を立ててドアを閉じる。それに対し別れの際は彼女を起こさないようにと音を立てないように静かに部屋から出ていく。
最初のパズルの場面。パズルとはカタチ合わせではあるが、通常(とされるもの)はカタチだけでは判別が困難なため、絵柄をヒントにカタチを合わせようとアプローチする。しかし彼は絵の方ではなく何も書いていない裏面でパズルを完成させようとする。
その際彼はわめきだしてしまう。1ピース足りなかったわけだが、それに気付き落ちていたピースを差し出す女の子が描き出されている。彼らにしか気付けない世界があるのだと。私が普通や通常であるかどうかは別として、誰が決めたかは知らないが大多数が占めるからと自然と常識化された枠に属する人間が気付いてあげられない世界があるのではないかと。この繋がりの描き方に、この場面と後に明らかになる真実でついつい涙してしまった。
悪に大小はあるのか。正義(大義)を全うするために時に不正や違法といった手段が有効な場合が存在する(かもしれない)。さらにそれがバレないとなったら。小さい悪と大きな正義とどちらが優先されるべきであろうか。未来で救済される大多数の人間か、今犠牲となる少数の人間か、どちらを優先するのか、切り捨てるのか。
ウルフ(たち)はその小さな悪に対しても自らの正義を完遂する、見逃さない。としているわけだが、この議論が起こり得るのはその事件や犯罪の全容が暴けてこそであり、まずそこに気付ける(気付くことができる)、掘り起こせるとした彼らを描けてこそなのである。これを普通とされるモノとは別視点として表出させたのはうまかった。
〇最後に
気づかないところで見逃される悪というものを表出させる手段としてうまいアプローチを思いついたものだ。上からのモノ言いだがうまかった。
ではでは・・・
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