~ブランド~
〇はじめに
エマ・ワトソンありきの作品で、さすがエマ・ワトソンだとは思うのだが、これはエマ・ワトソンであるべきだったのかは疑問。綺麗すぎやしないかね。オーラ出ちゃってるじゃないですか。もっと素朴であ~きれいかな~はは~んくらいの子なんじゃないのかな・・・
〇こんな話
オニオンリングが食べたくなってくる。
〇ブランド
パーティや人の集まる場にて常にスマホを携帯し何かとイジっている。そして事あるごとにカメラをぱしゃりと。SNSに憑りつかれた若者の承認欲求を見事に描き出していると感じる。親の七光りでコンプレックスも相当だったのだろう。何かと伴うしがらみ、後ろ盾が彼らには付きまとう。
次から次へと著名人の自宅に侵入し、ショッピングだと他人の物を掻っ攫っていく。ブランドがどうのと話されているが、そもそもブランドというのも高価なモノであるからというよりは、誰かしら有名人が身に着けているという後ろ盾ありきのもので。その後ろ盾ありきで高価というのもあるのだが。物的価値というよりは、誰かと同じでありたい、逆に違いを見せつけたい、悪く言えば人を下に見たい、誰かの上に立ちたいというところが大きい。これを1つエマ・ワトソンが指導者になりたいどうのこうのとほざいていた。
泥棒に気付かない、正確には盗まれたモノがわからないから泥棒に気付かないというのも皮肉なんだよな。自分の持ち物を把握していること、これは究極物を大切に扱うというところと関連してくるわけで。何で二着あるんだろ?ってなところもこれだったのかな。持ってることを忘れてもう一着買っちゃったと。
以前ほんとかどうかは定かではないが、一度着た服をもう一回着る!?服って使い捨てでしょみたいな話がTVでされていたな。こういうところなんですよね。持ち物ってのは持ってるからではなく、使用しているからではなく、それを買ったという事実に意味があるようになっている。
例えば本。私は本を読むということ以外に、作家ごとにシリーズごとに棚に並べるのが好きなわけだが、今やタブレットでそれは事足りてしまう。そもそも本を読む人は、こういう奴は読んでないだろというのは別にして・・・ 買うことに関しては同じであるわけだが違いはというと、今まではどこまで読んだのかしおりや巻数といった指標で本の厚みを可視化していたわけである。区切りがあったわけである。それが見えなくなってきている。
盗みに入る家。これもただの箱だというお話にもなっているのだろうか。
そして彼らを繋ぎとめていたもの。自己保身に奔り、友人とされていた者たちを裏切る証言をする。リンジーは何か言っていたかと自らの罪の意識ではなく関心が余所にある様も描かれていた。
おそらくこれの究極系は親に対する子の存在というところに行き着くのではなかろうか。
子どもという存在。なぜ親は子を産んだのか、欲したのか。
子どもを産む、育てる、引き取る環境があるということを示せるからではないのだろうかと。
そして何がすげえってこの自らの罪さえ宣伝に利用するという事よ。エマ・ワトソンの最後のドヤ顔が憎たらしくも可愛すぎて、ん~もう・・・としかならない。
良くも悪くも注目を浴びる。それが人気があるということになる。炎上商法が流行っているのがそれだ。数字がモノを言うのである。この開き直りは理解できない。
〇最後に
びゅーてぃふぉ~
ではでは・・・
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