~行動原理~
〇はじめに
アダムとイヴの間にカインとアベルが生まれ、二人は人類史上初の殺人の加害者と被害者だそうな。
〇想起する作品
「ターミネーター」シリーズ
「トゥモローランド」(2015)
〇こんな話
人間が作ったエシュロンが人間を排除しようとし、それを人間が防ごうとするお話。
〇行動原理
アリストテレス日はく、
「実行する力の源は、実行しない力の源でもある」
「What it lies in our power to do...
...it lies in our power not to do.」
可能態→現実態への移行として四原因説あるそうだが、ここを問うているのだろうとは思う。
カインとアベルということで、殺人に関しても言っているのか?
エシュロンが進化そのものであり、それの邪魔となる人間を排除しようと目論んでいたわけだが、これが彼らは常に進化(前進)するものだと定めていたとする。
これを止めようとするのが人間なわけだが、父親が何て言うんでしたっけねこういうの、まぁ要は自爆スイッチですよ、抑止力となる、最後のところで止める防波堤みたいな役割の。そんなものを作っていた。おそらくこれがマシンとの対比で人間にはできるってなことなのだろうと私は理解したわけだが・・・、どうなのだろう。進化を突き進むだけではなく、立ち止まる。時に退化、退行する、まで行くのかな?
可能態→現実態というマシンと人間の関係として・・・
エシュロンをなんで作ったかは忘れたが(言ってたかもわからんけど)、これはとある目的で人間が作ったものなわけで。これが目的因ですよね。それで父親が子であるアダムを作ったとするのが作用因。で、まぁPC、ネットの浸透は、ドローンやスマホにPCにひたすらに見せていたわけで、これが質量因や形相因なんだろう。
VHSやフロッピーディスクという時代錯誤な産物を観せたのも、アダムという最初の人間を意識させての、今日の技術の浸透具合や浸透スピードを意識させてのもなのかもしれない。
で、問題はだ。アダムが再び目覚めたことだろう。ここにまた問いがある。アダムを始めとし、奴らはプログラムを基に動いていた。彼らの行動原理である。究極的なところでこれを人間では不動の動者が存在するとして神だとアリストテレスは呼んだらしいが、その職務をアダムは全うしたわけである。エシュロンを止め、人類を守った。そこから目覚めるのである。
人間の手を離れたとするのか。アダムを自然物として位置付けるのか。究極的な行動原理に辿りついたとするのか。それはなぜそこにそのように存在しているのか。つまり、アダムはなぜ目覚めたのか? 彼を動かしているのは何なのか?
エシュロンを作ったのは人間である。エシュロンを止めたのも人間である。
人間が作ったエシュロンが人間の排除を望んだ。しかし人間はそれを拒絶しエシュロンを止めた。
いったいどちらが本当の意志なのか・・・
人類はどこへ向かうのかという問い。神という存在への問い。
この辺りに落ちつけておくか。
〇余談
人間型のマシンをマッチョやナイスバディにするのは何なんだろう。究極のヒューマニズムなのかな。とすると真に人間に近づいてるのは?ってな疑問に達するのか? 肉体美って芸術分野で勝手に作り上げられたモノではないのか? でもそれを美しいと感じるのは外からの概念形成ではなく内なる衝動によってか。
〇最後に
毎度思うのは哲学者ってアホだよなと。なぜその思考に行き着くのか・・・ はたまた世界がどのように見えてるのやら・・・
ではでは・・・
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