2016年1月24日日曜日

人生の約束(2016)

~間~

〇はじめに
 予告から高橋ひかる(新人)に注目していた。どこかで見たことあると。あ~全日本国民的美少女コンテストのグランプリ獲った子ね。フランスパンってのは何かのメタファーなんか? あの人の代わりに礼を言いますと凛としたところでもう惹かれました。

 同コンテストで審査員特別賞獲った髙村優香さんもね、頑張ってほしいね。期待。とある時代から勝手に応援しているんでね。


〇こんな話
 つながるお話。



〇もっと間を・・・
 他人にこの映画を説こうと試みる上で点数という前提を持ち出すのならば30点くらいだろう。しかしこの作品、私は大好きだ。

 そもそも悲しきかな、歴史や伝統、先祖を重んじる環境に私は生きていない。なぜ町内であそこまでに団結するのか。一所懸命になれるのかが理解できないのだ。高層ビルが立ち並ぶ東京の画が映し出される。集合住宅に住んでいるとして、どれだけ隣人と関わりを持っているだろうか。セキュリティ面も重要視されているご時世で、顔すら知らない人も多いのではなかろうか。仕事で他人との関わりは多くあるもかもしれない。しかしプライベートではどうだろうか・・・


 全体を通して、特に前半部分なのだが、カメラ割、場面転換がチラチラチラチラする。画に集中できない。入ってこない。入り込めない。時折挿み込まれる東京と新湊の街並の比較だったり、その2つの町を結ぶ新幹線や自動車の画が挿入されることで、こう描いた意図は段々と汲み取れてくる

 今日、街と街との交通網は整備され、数時間で各地を結んでいる。情報化社会、高速化の波ってな言い方で良いだろうか・・・ 情報はいくらでも落ちている、手に入る。しかしそれを取捨選択できているか。全てを捉えることは果たして可能だろうか。そんな世界にどうやって我々は存在し得るのか・・・ 大きくしすぎたかな。

 人を見ない社会とも言えるのだろう。竹ノ内豊演じる中原社長は陰る部下たちの顔を伺わない。業績に囚われている。それ故の架空取引による粉飾決算。他人との関わりの空洞化ってな意味合いなのだろう。表面的な中身の伴わないコミュニケーション。プライベートにおいて、仕事において、それは広がっている。見えない、とするか。見る余裕が無いとも。

 しかしそこにも希望は見える。ネットを介して塩谷航平が書いたとされる文章が町を駆け巡るのだ。他人を見えにくくしている世界において、それの一役を担っているものが人々の関心を惹きつけもする。繋げもする。そんな矛盾、カオスを抱えているとも。


 後半における和解、打ち解け合い、再生、復興・・・


 前半との対比で、ここでもっともっとも~っと「間」をもたらしてくれてよかった。もっと、もっとゆっくりと時間を流して欲しかった。カメラの切り替えが早いんだ。もっと眺めていたくなるように、いや見飽きてくどいぐらいにしてほしかった・・・

 社長にYESとしか答えられない社員たちにはじまり、この作品は人の顔、表情が映し出されていく。普段見ていない、見えていない、見ようとしていないであろうそれを映し出すのも意図してだろう。後半のそれは何とも言えない。塩谷航平の顔が一切描かれないのもこれとの対比だろう。だからこそ、後半はもっと「間」をもたらしてほしかったんだ。そこが残念で仕方がない。もっと想いをめぐらせることができたはずなんだ。劇場で観るには何とも目が疲れる、落ち着かない。
 あとそれを踏まえても西田敏行には最後背中で語ってほしかった(ボソ)。

 全体的に作品と鑑賞者との距離感という意味での「間」にももっと気を使ってほしかった。


 曳山とつながり、それぞれの持ち場でそれぞれの役職をこなして、道を駆け抜けていく。曲がるにしても全員が全員同じ方向を見ている、向いているわけではないんだ。他人と他人とはそうやって関わり、世界を、社会を築いている。築いてきた。それを、忘れてはいけない。尊重せねばなるまい。


〇最後に
 他人を見ない、他人が見えないというのは、自らを見てくれという強い承認欲求の反動であるというのが個人的な見解。自らの存在の不確かさを埋めるために、他人から認められたいという欲求でしか解消できない。そして究極的に他者を卑下することで自分の優位性を保とうとしはじめる。足の引っ張り合いという負のスパイラルに陥る。その原因はいったいどこにあるのか・・・

 
 ではでは・・・


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