~解~
〇はじめに
もっとやってもよかったのではないか。もっと痛々しく、嫌悪感を抱かせるくらいに。
しかしそれだと、拷問・尋問という期間だけを切り抜いているが故に、アメリカ大正義という前提が滲み出てしまうのだろうか。木を見るが、森は見えずという状況ではこれが精一杯か。
〇想起する作品
「ゼロダークサーティ」(2012)
〇こんな話
爆弾があるのかい無いのかい!? どっちなんだい??
〇答え
-- 爆弾があったのかなかったのか --
・・・正確には4つ目の爆弾があったかなかったか。
これがオリジナル版(ショートVer)と日本劇場公開版(ロングVer)とで異なる。オリジナルの方は真偽が定かではなく、日本版ではあったと確定して終わる。この違いで何が変わるのか。
執拗なまでに拷問シーンを見せつけられ、どちらが正義であるのかということまで疑い始めるであろう者たちに、何を伝えるのか。
劇中尋問官が言う。
「俺が悪なのか」と
「こいつは俺以上にひどいことをしている」と
劇中で見せられるシーンは彼の一方的な拷問シーンだけだ。この流れには前後がある。それをどうやって判断しよう。判断できよう。
要は彼らに勝敗をつけるか否かというところに落ち着くか。勝敗が決すればどちらかが正しかったということになる。
ロングVerであればいくら非人道的であるとはいえ、尋問官が正しかったことになり、尋問中にあらゆる手段を講じるべきだったという意見が大半を占めることだろう。
ショートVerでは真偽が定かではなく、現実にはどちらかの結果が生じるにしろ、作品としてはそれは狙うところではない。いったい何が正しき選択なのかということをひたすらに考えさせることになる。
はじめに罪なき子どもの笑顔を映し出す。そして銃に嫌悪感を示すその親。捜査官たちは何を守ろうとしているのだろうか。守るために、何を犠牲にしているのだろうか。何を振りかざしているだろうか。
答えに辿りつくと人間の思考は停止しがちになる。
自らの今までの学習工程を思い起こしてみてほしい。算数、数学等の答えの決まった問題へのアプローチ。答えのアプローチの仕方が複数あったとしよう。あなたは1つの方法で答えにたどりついたとする。それ以外の方法で改めて答えを求めようとしてきただろうか。確認のために別解を求める人もいるだろう。しかし、大概は1つの方法で満足するだろう。なぜなら1つの答えに辿りついたからだ。仮に確認したとして、同じ解法を辿るのではないだろうか。そもそも複数の解法を思いつかない可能性すらある。見方が偏ると言ったことだ。そこで思考が停止してしまうのである。
他には恋愛ものやバトルものに対して、くっついたのか離れたのか、どちらが勝つのか負けるのかと。サクセス部分を億劫に感じがちではないだろうか。将来的な結末が見えているからこそ楽しめるサクセス部分。見えてこないがために、思考を放棄する。逆の人もいるかもしれない。
この作品で問題となってくる、テロリストの話が真か偽か。証拠が何もつかめない。全ての情報はテロリストから出されるもの。その情報を中心に話が進む。証言があり検証に入るという常に後手の状況。彼らの視点では判断しきれないとしても、作られた話にせよ、我々鑑賞者はこの問題に客観的にアプローチできる。そんな我々は一体何を思うのだろうか・・・
〇最後に
はじめにも書いたが、もっとやっても良かったのではないかと思えて仕方がない。レーティングの問題なのだろうか。これで十分と思えない私が異常なのだろうか・・・。
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