2015年6月29日月曜日

トゥモローランド(2015)

~世界~ 

〇はじめに 
 あ~、だめだ。一気にアテナ役のラフィー・キャシディのファンになったわ。いつか「ターミネーター」でサマー・グローと共演してくれ~。 
 橋本環奈好きなら好きになるだろうな~ 
・・・と調べてみたら、結構言われてるのね。似てます。 

〇想起する作品 
 「ターミネーター」

〇こんな話 
 世界を~、変えたいかぁ~!!??

〇アイデア 
 想像(創造)力が幅を利かした時代があった。未来は現在よりも確実に良くなっていると思い込んでいた。全ての分野においてだ。空飛ぶ車、歩く歩道、全てが今よりも円滑に廻っている未来世界。交通渋滞なんだそれ。透明高速と思っていた時期がありましたよ。材料を入れるだけで、料理が出てくる魔法の箱だって。小さなピザがチンするだけで、何倍もの大きさに。朝起きたら勝手に朝食を作ってくれている・・・。もう究極故障って何?みたいな感じですよ。なんでも便利になっている。可能性は無限大だ。 
 しかしそれがだんだんと凝り固まったイメージをするようになってきた。デザインの工夫なり施してはいるだろうが、根本的なところで同じ物が多くなってきている。このジャンルはこのカタチが定番といった具合に。それが悪と言っているわけではない。具体的な目標が定まっている喜ぶべき技術の進歩と言っていいのだろう。しかし、どこか、何かイメージしていた未来と違う。それは時代が変わったのか、人間が変わったのか。そんな色に染まった心をこの作品は改めさせてくれる・・・まではいかないかな・・・。

 フランク・ウォーカーとケイシー・ニュートンとで空を飛ぶ技術の前提が違っている(目的と手段というところがまず違うんだけど、それはすぐ後で)。片やジェットパックという有人飛行、片や遠隔操作(リモコン)によるドローン(無人探査機)。そんな2人が立ち向かう。そしてバスタブ緊急脱出は新旧の技術と夢が融合した様なのだろう。
 ただ空を飛ぶこと(科学技術)に夢を描いていたフランクという少年。しかし現実を突き付けられ、ある種諦めに至っている。そして現実を受け入れられず、言わば逃避するための目的と手段において現実の科学技術を用いているケイシー。少年時代から大人への経過・段階を描いているんでしょ。さらにもう一つの段階があって、未来の象徴であるアンドロイドのアテナ。人間の関与することの無い自立型の技術。それぞれの時代から来ているからそのままなんだけど、フランク、ケイシー、アテナは過去、現在、未来のそれぞれの象徴であり、最後アテナが消滅することは何を意味するのか。
・・・ひたすらにケイシーが未来変えられる云々叫んでるからな。



〇世界 
 地球の破滅が解決すべき問題となるわけだが、ここに実はトリックがある。それは 
「地球の破滅 ⇒ 人類の破滅」 
と結びつけられていることだ。いや正確にはアプローチの仕方が逆だ。 
「人類の破滅 ⇒ 地球の破滅」 
と捉えている。ここで言う地球の破滅とは、地球が人類あるいは生命が生息できない環境になる、という意味だ。 地球自体が無くなるわけではない。しかし同義に扱おうとしている。正確には完全に一致しないが共通点は存在する、としておこう。そこがついつい気になってしまう自分がいた。我ながらいやらしいと思う。しかしそれすらも掌なわけだ。

 最後に我々にメッセージを託してくる。世界とは何なのかと。あなたたち自身で作っていくんでしょと。そもそもあなたたち自身でしょと。 最初から誰かしらに向けたメッセージ映像であったわけだが、最後の最後でジョージ・クルーニーが我々に語りかけてくるような場面があり、そこでつい感極まってしまった。
 それと関係した最初と最後のシンデレラ城とバッジの件もしっかり見といてほしいな。

〇最後に
 何でもできる、何にでもなれる気がしていた時代があった。それがいつのまにか選択肢を狭めはじめ、いつしか何かに挑む前に失敗やリスクに頭が回り、最悪行動に至らないことが増えた。行動に移したとして、常に対策や逃げ道を確保している始末。それが現実なんだと世間は言う(いや、自分が勝手にそう思いこんでいるだけか)。
「だから、何だ!!」
・・・・さぁ、帰ろう↓↓ 現実に・・・

ストレイヤーズ・クロニクル(2015)

~アゲハ~ 

〇はじめに 
 足のつかない50メートルプールを優に往復できる者が、泳ぐことを目的にお子様用のプールに入れられたらどのように感じるだろうか。 

〇想起する作品
 「CØDE:BREAKER

〇こんな話 
 子どもと大人、変態と進化をテーマとし、人間を生物学的観点から徹底的に議論しようとした作品。
・・・であることをこの作品のあり方として願っていた。

〇能力 
 最初に登場人物が誰も出てきていないのに能力者の概要や経緯から入った時点で嫌な予感はしていた。その通りになってしまった。 
 

 ひたすらにキャラが立たない。能力の区別でそれをしようとしたのか、そもそも能力の提示がお粗末。なぜ最初から一般人に苦戦しているのか。故に昴兄と慕う連中の気が知れない。強さの指標を示せず安心感がまるで得られないのである。それなのに、能力者相手になると終始有利に事を進める始末。意味がわからない。それ故に特訓の前後における変化も感じられない。そんな中能力の飛躍で彼が長期的な予知をする場面が存在するのだが、まるでピンと来ない(「NEXT-ネクスト-」(2007)を見てください)。能力の代償である破綻も大きな意味を持たせられていない。 

 昴の能力の曖昧さ。これを社会における若者の立ち位置と関連付けていると擁護できるのかもしれない。しかし問おう。現代社会を投影しているような演出がいったいどこにあったのかと。現実に直面した際の対処方法として描かれた弟の引きこもりか、それとも自ら選択をしないという他力本願か、それとも復讐という責任転嫁か。特訓における某動画投稿サイトか。そもそも彼らと社会の繋がりが・・・。いくらなんでも下手すぎるだろ。 

 そして何より驚いたのが特訓シーンでの主題歌。びっくりである。おそらく飽きさせないための苦肉の策だったのではないだろうかと勘繰ってみる。リンゴが余ってるとも掛けてたんでしょ、どうせ。いつまで日本のアクションは迷走しているのよ。なんでコマンドサンボなのよ。日本発祥の武道で良いやない。カウンターで倍返しより、相手の力をそのまま返す合気道とかで良いやない。能力の強さの指標になるやない。どんな力なのかを人を殺すことだけでなく表現できるやない。守る力でもあったわけでしょ?? ちゃうんかい?? 

 そしてそれぞれの能力故のものが無いのもいただけない。一番に際立ってしまったのが、高速で動ける能力者が脚を撃たれるところである。ここが不可解で仕方がなかった。銃を構えている相手にはあり得ない対応をする(いや私なんて対応したことなんてないんですけど)。しかしすぐに解消されることとなる。ただ能力者4人で一緒に走る画を撮りたかったがためだ。ナメすぎである。 

 最後は命を燃やすってことなのか。そんな件がどこにあったのか。そしてライターの件はどこだったのか、覚えていないのだが・・・。短命ならではのある種諦めや達観的な思考が欲しくあった。全員が全員生きたいというところで完結してしまっている。たばこを吸っている者がいたって良かったじゃないか。なぜわざわざ命を削るのかと。どうせ死ぬなら生を全うしたいと、エゴに生きても良いじゃないか。

・・・こんなことは些細な問題である。キリが無いのでもっと重要なところを抉っていきたい。次の項へ。

〇主題 
 この作品はおそらく主題を完全に履き違えて製作している。


――アゲハとは??―― 

 はじめにアゲハ蝶の羽化を観せたのはなぜだったのか。そしてこの時点で進化と蝶の変異(変態)を同義に扱っていたのはなぜだったのか。 

 「変態」と「進化」の違いを決定づけるためではなかったのか。それを通じて大人と子どもの対立を描こうとしたのではなかったのか。生きたいと叫ばせたのは、生殖を強調したのは、何のためだったのか。

 環境テロリストの扱いもぞんざい過ぎる。システムの維持や変更を行うものが政治と位置づけていたが、システムへの介入としてテロ行為もひとつの手段であろう? 原発問題がテキトウすぎるのも気になった。どうせならここでこれからの世代を意識させようとしているのだから、学のウィルスと対比させれば良かったのに。そして何より爆弾はリモコン操作ではなく時限式にすべきだった。彼の主張や覚悟の甘さが際立ってしまう。この無知さ、そして行動力が若者であるということだったのかもしれない。じゃあ対比させる大人をもっとしっかり描こうよ。若者が社会において自らを立たせ、生きていこうとする覚悟がテーマであったであろうに。政治とテロ、大人と若者の対立のチャンスが・・・・。

 そもそも大人と子どもの対立を描く上で生きる目的が根本的に異なってくるのは周知の事実であろう。大人は子どもを産みそして育てる者、そして子どもは育てられる者という前提。大人は次の世代に想いを託す、受け継がせる。子どもはそこから自律に向かってあがくのであろう。それゆえのアゲハという象徴。蝶は世代を超えることなく「幼虫⇒サナギ⇒成虫」と姿を変えていく。この変異の仕方を「変態」と言う。小学校で習うことだ。そして劇中でひたすらに言われる「進化」とは世代を超えて変化が行われるものだ。この違いを子どもと大人に当てはめて衝突させることに意味があったのに、なぜか最後蝶が飛び立つ様を強調して終わる。理解に苦しむ。子どももまた大人になっていくのですよ・・・?? そのつながりは・・・?? なんもかんも放棄してしまっている気がする。

〇破綻 
 1つ拡大解釈をしてみる。破綻という言葉がある現象に使われていた。能力の制限をもたらすための人間のストレス耐久度。これがおそらく最大のメッセージだったのではなかろうかと。終始粗が目立つこの作品。気になる人はイライラしたり、気持ち悪くなるかもしれない。しかしこれこそが我々と能力者たちとをつなげる部分だったのではなかろうかと。細かいことを気にするなよと。多めに見ろと。長生きしないぜと。 
・・・じゃあこんなの作るなと言いたい。 

〇余談(能力について)
 破綻するのは超聴力が一番早いようなストレスの演出だった気がする。
 高速で動ける者は消えるよりも残像を残して欲しかった。残像拳って夢だと思うのだが。

 
〇最後に 
 「1つ聞く。まさかこれが全力か??」

2015年6月25日木曜日

ビフォア・ドーン(2012)

ビフォア・ドーン[DVD]


~変わらぬ愛~ 

〇こんな話 
 ギクシャクしていた夫婦。妻がひょんなことからゾンビになってしまい、夫がどうのこうのする話。 

〇永遠の愛 
 愛していた妻がゾンビになっても変わらぬ愛を保てますか、もてますか、とそんな感じなのでしょうか? 仮に愛せなかったらそれは愛では無かったと・・・そんなとこでいいですか? 愛とはなんだろうか?  
 この作品で描かれているのは夫婦愛なのだが、私が思うに別に愛することと相手の全てを受け入れることとは同義である必要はない。つまり、ゾンビになってしまった妻まで愛することはないということ。完全なるあきらめになるのだけどね。
 なぜなら、人は日々変化していくからだ。そこに不変の愛を持ち込むのはあまりに難しい、というか不可能。個人差はあれど、時間の経過や環境によって価値観は変わるし、生物学的にも人の身体には代謝があるため、日々体の中は入れ替わり立ち替わり・・・見た目的にも中身的にも一時として厳密に同じ人間はいない。常に(その)人間は変化を続けている。そんなものをなぜ変わらず愛することができるのか。変わっていくものを柔軟に受け入れていくことが愛なのか。愛ゆえに受け入れていくことができ、番いとなるのか。

 結婚という文化の重要性の違いでこの作品の見方は変わってくるのか。

 時間というものが解明されていない現在、時間に縛られ生きる我々では永遠に解けない謎なのかもしれない。しかし有限だからこそかけがえなく・儚く感じ大切にしようと、そして育まれるものがあるというのも事実。 ・・・ふむふむ・・・zzz

〇最後に 
 こういうテーマの映画は好きだ。ひたすら考えられるから。おもしろいかは別として。

2015年6月24日水曜日

アルマゲドン2014(2014)

アルマゲドン2014[DVD]


~隕石さんよ~、そんなもんか? 止まって見えるぜ!~

〇はじめに  
 こういうのを待ってた。 

〇こんな話  
 隕石が地球に衝突する。各国同時に核ミサイルをぶつけて軌道を逸らそうよとお偉いさんたち。そんな時一人の男が異を唱える。地球を動かした方がはやいっすよ。 

〇対策 
 構造プレートの継ぎ目で核爆発を起こし、地震を誘発することでマグニチュード18以上のエネルギーを発生させ地球を動かすんだとか。つまり隕石を地球全体で避けてしまおうということですね。 
 何とすばらしい対応策だ。マグニチュード12で地球は割れると言われているんですよ。なのに18て。地球の移動どころじゃねえだろと。オラ、ワクワクしてきたぞ。

 本来であれば、いや本来もクソもないんだけど。隕石の衝突により地球滅亡か、対応策で地球滅亡かの選択になるわけだが、これはとんでも映画。確実に現象に対抗した方が影響は小さい。最高悪影響は無い。人類の絶滅か、半数を生き永らえさせるかと議論に落ち着くわけだが、そんなこと無かったかのように最後核爆発を眺めながらイチャイチャしている始末。マグニチュード18の影響を受けない場所があるんだ。人がいるんだ。こんな余裕を持って鑑賞する作品だ。
 そもそも丁度避けられるところから突っ込んでいくべきなのか。地球のどこにぶつかるかによって避ける方向も変わってくるわけで。わざわざ大きな回避動作をするのか、最小限の動きで避けるのかと。ギリギリでかわせるのがベストであるには違いないが。軌道逸れるはずがぶつかりに行っちゃったとかも可能性があるわけで。まぁ理論上は地球が形状を保って回避することは不可能で、バラバラになった地球を横目に、いや蹴散らしながら隕石が通過していくと。
 仮に地球を動かせたとして、公転軌道や自転には影響は無いのかと。回避方向の制御はどうやってんだよと。・・・そんなこと気にする映画じゃねえんだよ。人類が絶滅するかしないかの瀬戸際に悠長なこと言ってんじゃねえよと。隕石通過したら考えれば良いんだよ。神に祈れば良いんだよ。

〇深読み
 人類はいつだって地球を壊せる。壊せるほどの力を有している。しかしそれをしないのはなぜなのか。各国がそれぞれ抑止力になっており、均衡を保っているのだと。

〇余談  
 DVDのラベルは隕石をかわせなかった場合なのかな。 

〇最後に
 最高におもしろかった。科学に不可能は無いんだ。科学こそ夢の塊なんだ。割り切っていきまっしょい。

2015年6月21日日曜日

フローズン(2009)

フローズン[DVD]


~提案~

〇こんな話 
 訳あってリフトに取り残されて「どうしよ?、どうしよ?」ってなる映画。 
・・・訳っていっても主人公たちの自業自得感は否めないし、リフトの作業員たちの過失感も否めない。否めないというか完全に過失なんですけど・・・。 

〇解決策 
 劇中リフトからの脱出をいろいろと試みるのだが、案の定うまくいかないったらいかない。 そこで私が解決策を提案しようと思う。ま、私が実際にこの局面に陥った場合実行するかしないか、と、可能か不可能かは別としまして。 
 スキーの板、スノーボード、ストックとをどうにかこうにかして「コ」の字型のものをつくり、ケーブルにそれをかけて滑っていってはどうだろうか? こんなん↓↓↓

スキー板やスノボードの裏面って滑りやすくつくってあるし、ワックスとか塗っていればなおさら滑るじゃないですか(これをやったら作品として滑りますか)。劇中のケーブルの角度ならいける気がする。なんかの番組で検証して欲しいな(笑)。 


〇最後に  
 突っ込みどころは多くあるのかもしれないが、こういうシチュエーションスリラーは自分がもしこんな状況に陥ったらどうするのだろう、と考えながら観るところに楽しみがあるので、いろいろ我慢しましょう。ま、現実的に見るならば、解決策云々より予防策を考える方が先決なんですけどね。一番は雪山には行かないと。突きつめれば報告・連絡・相談はしっかり行っていきましょうという教訓映画です。

2015年6月17日水曜日

予告犯(2015)

~それだけ~ 

〇はじめに 
 小松菜奈かわいい。毎日通いたい。いや、。雨の日しか行かない。傘なんて差していかない。ま、びしょ濡れで帰りますけどね。
・・・エピローグ的要素で、雨の日に傘差さないで傘返しに行って、タオル渡されるとかやってほしかったな~。

〇想起する作品
 「ブラックサイト」(2008)

〇こんな話 
 m9「昨日の朝飯を教えてやる」 
 ・・・「何食べたっけ??」 

 最近流行った事件やワードが散りばめられているので、非常に入りやすいと思う。これが今という時代ですよと。


〇戸田恵梨香 
 刑事の役どころが戸田恵梨香ありきになっている気がする。戸田恵梨香が強すぎる。キャラ的にツンツンツンデレツンデレデレな感じなのだが、劇中で彼女にもっと突っ込んで、掘って良かった。このギャップが足らないのである。故にゲイツとの対比も薄く感じてしまうのである。ある衝撃を与えようとしているのは感じたが(給食費未納、友達いない、男と女、エリートと落ちこぼれ)。
 あと早口苦手そうですよね。舌の回らない感じが若干エリート要素の足を引っ張っている気もする。 
 
 彼女に、ケツにアナルバイブを突っ込まれたどうのと発言させることで、女ではなく刑事であることを強調させる。しかし、ゲイツを執拗に追いかける、何かしらの執念を演出するのに女と汚水を結びつけさせようとするのである。ここが何とも中途半端に感じてしまう(特にコンプレックスは描かれてなかったよな・・・)。 
――― 
 あ~ここはこの場面での2人の越えられない壁だったり、立ち位置や状況だったりのところなのか。後に彼女は彼の辿った道を追いかけることになる。それとともに見えてくる彼の人間像と、彼を全く見ていない周囲の人間たち(環境)に気付いていくわけで。この画は二人に対しての背景が意味を持っているのか。  
――― 
 どうせなら、性玩具の名前をもっと連呼させてもよかった。プレイ内容を事細かに言わせても良かった。いやそこはストレートにものを言う感じを示すところだからこれで良かったのか。職歴における差別に対する男女差別を持ち出しても良かった気もするが、そうすると盛り込みすぎになるのか。彼女の優秀さを示し、今のポジションにいることを公安の同期を持ち出すことで演出としては事足りているのか。
 
 いや、でも堪んないっすわ。薄っすら陰る感じの貌うまいですよね。


〇生放送 
 もっと生放送はふざけて良かった。例えばバイトテロへの制裁。ただの天ぷらではなく、ゴキブリ団子やゴキブリメンチとかにしても良かった。そしてアナル拡張もだ。尿道云々までやっちまえばよかった。

 
 警察という1つの正義の象徴と、正論を吐きネット上で評価される1つの正義の対立は割と早く訪れ、その衝突がメインになっていくのかと思いきや、予告犯側の背景に尺を持っていかれる。これにより美談が響くのは良い。しかしそこにもっと何かしらの疑問符を浮かべさせても良かった。 

 社会的な迫害を受けた人物が、その迫害をしている者たちすら救済するカタチになるわけだが、そこは観ていて何ともすがすがしい。エリートである公安の捜査能力のひけらかし、エリート思考でしか、その価値観でしかものを測れない、捜査できない者たちが馬鹿に見えてくるのだが、意味があったのだと汲み取る。たったそれだけのためという理由かもしれない。しかし見つけられる能力を持ちながら、そうでもしないと動かない力があるのは事実。同僚の刑事が、1人の政治家が狙われるだけでこれだけの人間が動くのかと言う。どこの馬の骨ともわからんヒョロ1人には動かねえよというお話になるわけで。 あるべき場所に必要なものが無い。適材適所を誰が見極め、誰が供給するのか。そんな完結したシステムなどこの世には無い。そもそもあるべきではない。過不足があるからこそ経済は、社会は廻るわけで・・・・まぁいいや。  

 で、何が言いたいかって~と、犯人側が裁定者となり、とある罪に関して裁いていくことに関する疑問を、犯人自らで自分たちを罰するという彼らの償いというか覚悟というか、それにて補填してるのはうまいのだが、結局は自分勝手という見方をされてしまう。お騒がせしましたと、謝って済むなら警察はいらねえんだよと。小さな幸せのために、あらゆるところに被害をもたらしているという、損得勘定が先行するというか。人が生きる上で必ず抱いているであろう、自分と相手を比較し勝手に抱く妬みや僻み。 その辺がゲイツが言う自尊心の話に、彼の意図とは別のところでつながるわけで。それは次の項で・・・


〇自尊心
 ゲイツの自尊心に関する演説には何とも心を打たれた。しかしだ、この自尊心は何も(自称)弱者だけに適用されるものでは決してないことを見失っては困る。
 

 ゲイツと社長の場面で少し考えてみたい。

 あの場面、ゲイツは客観的に見て誰もが指示するであろう正論を吐いている。ここですでに私は偏った見方をしてしまっているのかもしれないが、それに対して社長が放ったのは、わからないことがあったら自分で聴こうよと。責任転嫁である。これはまだ良いか。

 問題はその前か。責任転嫁の仕方。彼は派遣社員と社長という上下関係を利用して、ゲイツ一人を悪としたのである。自分が正しいという、その場の雰囲気を作り上げたのである。立場を利用することは何ら悪ではない。社長が悪だったのは、立場を利用して論点(ここでは善悪の基準)をずらしたことにある。いや、議論すらしようとしなかったことである。

 ではなぜ彼がそのような行動をとったのか。いやとらざるを得なかったのか。彼にもまた自尊心があったからだ。どうやって築いたかは知らないが、社長にまで登り詰めた(起業したのかは知らんが)彼なりの自尊心があったからだ。自らの自尊心を守るために、ゲイツの自尊心を奪い取るしか方法がなかった。知らなかったのである。そして周囲の者もまた自らの自尊心を守るために社長に迎合し、ゲイツを傷つけることになった。彼らも必死だったのだ。今のポジションにしがみついていたのだ。その中の1人がゲイツと同じ道を辿ろうとしている様が描かれていたことが「何か」の問題提起だろう。そして集団や雰囲気、空気を重んじる日本は特にこの現象が顕著なのだろう。


・・・とこのような議論をしてみるとわかるのだが、自尊心に関して大きさの概念が介入してくる。プライドと言い換えた方が良いか。で、予告犯たちの動機となる部分につながるわけであるが、これもまた大きい小さいと、劇中では「それだけ」ってな単語が顔を出すわけで。

 共感できないという言葉が目に付いた。この話は何も共感云々で議論すべき内容ではないことに気付いていただきたい。じゃあ感動させようとするなよって意見が出てくるだろうが・・・。

 そもそも賛否が分かれない事象など存在しない。捉えている、理解している情報の違いに起因するわけだが。意見の衝突はどちらかが倒れることでしか立つことは無い。そして正しかろうが、間違っていようが、なぜだか大きい方の意見が勝つ。そんな様をいくらでも見てきたはずだ。さらにそこに言論弾圧や言論統制(いやそういうシステムに敢えてしてるんだけど)。そこが何とも不思議なのである。この現象を思考させるために警察と予告犯という二つの正義の衝突を描き出したのである。まぁ共感云々を持ち出しちゃうと、その思考すべき現象に当てはまっちゃうんですよ。現象の中にに入ってしまうわけで。いや外なんてないんですけど。もう面倒くさいな。
・・・てな感じに勝手に納得している。まぁ共感した者の戯言に過ぎないんですがね。


 まとまらんかった。

 要は、「それだけ」というところを如何に許容できるかがこの物語の鍵だ。世の中の不公平をどれだけ受け入れているか。どう感じているか。そもそもそんなことを考えてすらいないか。観終わってモヤモヤを抱えない人はいないのではないか。むしろそのモヤモヤがなぜなのかと考えさせることが狙いなのだろう。
 

〇余談 
 予告編に使われていた曲が無かった。予告犯の二面性を描く上で、あの音楽の変化は絶妙だったように思うがな~。サントラに入っているのだろうか? 

 m9「昨日の朝飯を教えてやる」
 ⇒ これおもんないかな~?。パロったんだけどな~。まだ起こっておらずこれから確
    定させる予告と、実際に起こったことなのに不明確な朝飯。 


〇最後に
 マジで止めてくれ、荒川良々。涙が出たよ。取り調べや寿司の件大好きだよ。
 
 

神は死んだのか(2014)

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~NO MORE 悩み無用!~ 

〇はじめに 
*哲学も宗教にも無知な自分が少し粋がります。そして宗教を全否定しているわけではありません。悪しからず。  

 神はいるしいないんだよ。そこを踏まえて議論していかないと。 
そもそもひとえに神を否定肯定しようとしてる時点で議論としてナンセンス。様々な論点からアプローチをしているように観せているだけ。なぜなら作品全体で神はいますというメッセージを漂わせているから。馬鹿だろ。最初から教授を悪者として描いている時点で、主人公が勝つであろうことは見えていて、偏った描き方をしている。なぜ逆転劇として描いたのか。そしてなぜか議論に呼応して起きる怪現象。最終的に辿りつく神の有無ではなく人格否定(そこまでは言ってないか)。屁理屈の応酬。へ~、神ね~。 
 私みたいなひねくれた人間がこの作品を観ると、神は差別しますと言っているようにしか思えなくなる。それならもちろん信仰者たちもねって話になるわけで。神と人の関係ってのは、結局は派閥なんすよ。宗教(間)戦争なんていくらでも起きてるわけで。それって人間が小さいころからいくらでもやってる集団意識と照らし合わせることができて、自分の所属する集団以外は敵視する傾向にあるという・・・。仮に唯一絶対神なるものがいたとしても、その信仰している人間は全員違うでしょと。もう矛盾してるんですは。あなたがたが信仰している神は全て一緒ですかと。あ~、どうぞ反論してくださいな(小声)。 

〇想起する作品 
 「ザ・マスター」(2012) 
 「ラスト・ワールド」(2013) 
 

〇こんな話 
 ざっくり言えば、エスティーエーピー細胞があるかないかの議論と同じ。
・・・いや議論になってないからな~。信じましょうって話。

〇信仰 
 宗教というカタチでこの信仰というものを見つめてみると何とも嫌悪感を示すものだが、ただカタチを変えてこれと同じようなことは皆やっている。しかしそれを考慮してもこの作品は頂けない。偏りすぎている。そっくりそのまま返してやりたい言葉がある。 
この作品は、 
 「答えありきの論法である」 
 「証明すべき結論を前提としている」 
つまり、神はいますよという結論を前提として、キリスト教徒を善人として描き、自称無神論者どもを悪人として描いている。そしてそれを聴く聴衆は有神論者って何?と聴いてる輩がいるように単なる馬鹿(盲目)として。教授の主張を否定するのに用いられる言葉の数々が、なぜか彼には適応されないのも付け足そう。


---これ以降屁理屈をこねくり回します---

 
 神が善悪・道徳的な基準となるならば、自分の判断が間違っているって概念が無くなるんじゃないのか。自分の判断は全て神が示した道なのだからと。
 例えばだ、 
神はいると訴える者を無神論者が殺したとして、それは悪なのかと。神がいるとする者たちは悪とするのだろう。しかし極論無神論者は道徳的である必要がないと言う。ならばこれの見え方が変わってこないかと。キリスト教徒が無神論者に殺されることを選んだと。つまり誰が誰を殺すというのが、いや死が、殺す側の意思によりもたらされるものではなく、死する者の意思なのではないかと。故に殺人という罪は存在しないことになるんじゃないのか。
 これを主人公と教授に当てはめてみよう。
クリスチャンが無神論者に神を否定される
⇒ クリスチャンが無神論者に神を否定されることを選んだ
⇒ クリスチャンが無神論者に神を否定されることを望んでいる

つまり彼が神を否定されることを望んだにも関わらず、教授を全力で非難しているのである。これが何を意味するのか。神は自らの存在を証明するためにわざわざ敵を作りだしているのである。無神論者は元々有神論者であることが多いと教授も指摘していることから考えるに、神は信仰者すら差別するのである。自分の存在を認めてくれというエゴからだ。神は、神がいるのかいないのかという議論が展開される限り、存在が不明確なものになるのである。シュレーディンガーの猫的な? で、これを曲解すると

⇒ クリスチャンが無神論者に神を否定されることを望み、それを論破することで布
   教活動を活発化させるという欲を満たす

ってな感じになる。要は繰り返し。宗教も同じくマンネリ化する。そのためのこの宗教布教映画だそうな。宗教というものに疎い人はこの作品を観ても気分を害するだけだろう。
 


・存在しないものを憎めるのか否か
 はぁ~、存在ってのはどのように定義されるんですか。悪魔の証明の話はしてましたけど。実体を持つか否かですか。誰かが信じていればいいんですか。仮に実体を持つ者の場合、憎むべき対象を赦したとしたらそれはどうなんですか。憎むべき対象は存在しなくなったと言うんですか。それは彼の過去を全否定していることになりませんか。赦すに至った道(憎むに至った道)がなぜ築かれたのかという動機となる部分が無くなったら、その対象にはいったい何の意味があるのですか。
・・・罪を赦すんじゃない、人を赦すんだってことで解決する??



・死して神に会えるどうのこうの。 
 現実世界として我々が今生きている(としている)世界。いや生という状態としよう。生と死した状態とで、神は存在しているとしているんでしょ。それなのになぜ死した者が誰よりも先に神に会えるのかと。そこに神は死んでいないとする議論。冷やかしなの。??? 死んだ者はどっかに行くんでしょ。そこに神がいるんでしょ。死んだ者と神とは同じ状態なんでねえのけ?
・・・そもそも生と死の概念が違うんだっけか。魂的な話になるんだっけ?今の身体はただの器とかとか?
・・・じゃあさじゃあさじゃあさ、何で生きている内に神を信じなきゃいけないの?? 死んでから信じるとか言って、罪犯し放題はダメなの。そもそも無神論者にとっては罪なんてないんじゃないの(曲解か)。
・・・あとさあとさあとさ、神への祈りってやっぱり回数が大事なの。何でメールで祈りが伝わるの?? この回数の概念って、犯した罪より、一回だけ赦しを多く得れば良いって話にならないの?? そもそも祈りに大きさってあるの?? それって差別に繋がるよね。宗教って不思議だね~。


 最後無神論者殺すのも頂けない。いや、有神論者になったのか。神様ちょっろってならんのかいな。まぁこれは教授がひたすらに叫んでいた「神は死んだ」ってのと掛かってるんですよね。彼は講義においては私が神だと言っている。これを皮肉ってるのが胸糞悪い。そうだ、神は死んだんだ。
・・・この構図を新たな無神論者を生むことにつなげりゃ良いのに。これで繋がってるとするのか・・・



〇余談
 ひとつ褒めようと思ったことがある。主人公が紙媒体の本を情報収集の手段として用いていることだ。図書館を利用していることだ。
・・・と関心していたのだが、これってよく考えると聖書と掛けてるんすよね。とある記者だかは全開でPC使ってるし、クリスチャンである主人公もラインはやってるし。でも聖書は紙媒体で、み~んな持ってるお。・・・と。

〇最後に  
 なんだろう? 彼が語り始めた時からかな~、イライラする。 
 そもそも神って何よ?って話なわけで。はいはい、イエスイエス。これ日本でしかウケナイか。日本ですら・・・。 

 


2015年6月16日火曜日

チャッピー(2015)

字幕翻訳:松浦美奈


~観心~ 

〇はじめに 
 テンション(笑)

〇想起する作品 
 「ロボ・コップ」 
 「トランセンデンス」(2014)

〇こんな話 
 チャッピーが成長していきます。

〇観 
 人が、環境が、人を育てる。 

 正義と悪の概念の構築に対して、自らの生と死に関する議論を持ち出す。ここが何ともおもしろかった。
 チャッピーの正義と悪の基準を創造者(メイカー)との約束としている。 人間とは何とも複雑な思考をしているもので、それをある基準を創り出すことによって簡易化している。価値観や倫理観といったものだ。それはどのように築かれるのかというのを、チャッピーの成長を追うことによって映し出してくる。 
――― 最初にある程度の常識くらいプログラムしておけよ、というレビューを見かけたが、そのプログラムが難しいのである。なぜ人はその行動をするのかという、判断の根拠(理由・動機、いや基準か)となる部分をどのようにプログラムするのかというのが問題で。善悪の振り分けによって傾向が作られていくのを、チャッピーの成長とともに感じていくべきで。まぁ最後意識が解明されたというところが、これと相反する考えだったりするのだが・・・。しかしこの作品の意識の定義は、チャッピーの成長と人間の成長を照らし合わせることによって、最後何かしらの答えに辿りついてねという・・・ ―――
 情報の比較判断ってところが問題であって。この処理を人間は自然とやっているが故に、さらに言えば、その比較すべき基準の構築(基準自体)がまた異なっているわけで、そんなこんなでチャッピーという人工知能の捉え方が変わってくると言いますか。

〇信(心) 
 劇中3種類の創造主(いや、関係性か)が描かれている。
 1つはチャッピーを創り出した人物。メイカーと呼ばれ、チャッピーの1つの基準となっている。
 1つは直接的には描かれず、その創造主を信仰する者たちが描かれる。十字を切る姿だ。
 そして最後に母という存在だ。唯一人間を産み出すことのできる存在。いや、産みの親と育ての親ってな感じだろうか。
 
「創造主(ディオン)とチャッピー」 「神と人」 「母と子」
 これらを照らし合わせようとしたのは何だったのか。生と死という概念があってこその、信仰という概念。生に感謝(ん~、愛かな??)という意識は、死という生の終わりがあるからこそ成立しうるもので、意識というものが解明され、意識(人格)の複製が可能となるようなニュアンスも含む、永遠の命を得ることが可能となったら、この関係性はどうなるのだろうか。崩壊するのか、いやむしろ完成するのか。

〇最後に
 我々はこの作品に何を見出すのだろうか??

ロスト・フロア(2013)

ロスト・フロア[DVD]


~直面~

〇想起する作品
 「トカレフ」(2014)

〇こんな話
 7階に住む家族。とある朝、お父さんはエレベーターで、子ども2人は階段で1階に向かったそうな。そしたらそしたらあらびっくり。子どもたちがいなくなってしまったそうな。はてさて・・・。

〇相対
 夫の電話でのやり取りが目立つ。これが如何に建物内で事を済ませるかという下心に感じてしまう。

 この電話の応対との対比で、聞き込みや乗り込みにおける顔と顔とを突き合わせて話す場面を展開している。電話では仕事で重大な案件があるにも関わらず、展開している事情をひた隠しにしようとしている(まぁ割とすぐに白状しますけど)。お互いに状況が見えていないのである。おそらくはここら辺から、人と人とは直に相対しないと何もわかりません、解決しませんってなことを言いたいのではないだろうかと勝手に勘繰ってみる。逆に関係をかき乱しもするわけだが。
 そしてラジオやテレビから入ってくる情報で勝手に妄想する姿も描かれている。情報はあらゆる場所から入ってくるにも関わらず、結局はそれも全体のほんの一部。でも全てをわかったかのような意識にもなってしまうという。その構図をただマンション内で探し回り、妄想を膨らましてしまう彼で意識させたかったのではなかろうか。まぁ結局内輪ネタであるわけだが。メガネが無いとか言ってひたすらに騒いだは良いが、頭の上に乗っかってたわと。起こらなくていい事がひたすらに起こったわけで。

 単に子どものためなら何でもやるって話だったのか。父と母でその差があったりなかったり??

〇最後に
 パッとしないですね。トリック云々ではなく、親子の関係を描くことに重点を置いている、そんな作品。

2015年6月15日月曜日

パズル(2014)

パズル[DVD]


~ピース~ 

〇はじめに 
 とりあえず設定(キャラ)と事件(行動)とで一貫性が無さ過ぎる。ゲームの用意周到具合、実行力をそこまでする必要があるのかというくらいに観せつけてくるにも関わらず、最後なぜ肉弾戦になるのか・・・。犯人側がサイコパスとすれば何ら問題は無いのだろう。我々が勝手に決め付けている常識というものが通用しないのだから。

〇こんな話 
 型にはまりたくない、はまらない、はまることのできない者たちの物語。

〇パズル
 はじめ、いじめだと思いきや、無駄なクラスの統率感の演出。これはうまかったように思う。あのうざさたときたら・・・。主人公が最後のパズルのピースをはめることで完成すると観せる、一見上手くいっている集団の関係性。集団を良く見せるために、個人の意思を抑圧というか強制(矯正か)する。型にはめるというところで、パズルという意味なのだろう。まぁもうちょっと裏側が描かれても良かったかなとも。日常パートが欲しくあった。
・・・いや、「平和」とパズルの「ピース」を掛けたのか。皆が平和という「ピース」にはまれば、逆か、1人1人がそもそも「平和(ピース)」であると?? 皆で平和を築きましょうと。「One for All, All for One」みたいな感じか。

〇痛み 
 グロテスク(というよりバイオレンスな表現による痛々しさ)な表現が映えているのは誉めるべきところなのだろう。これは身体的な部分での痛みだ。しかしだ、これと対比させる上で夏帆が演じる少女の心の、精神的な痛みをもっと映えさせるべきではなかったのだろうか。自殺未遂、血に対する何かしらのトラウマ、復讐シーンでそれは十分なのか。まぁ下心なのだが、グロに対するエロの要素が薄すぎやしないだろうか。彼女の恨み辛みによる復讐、それが暴力によって行われ、身体的な痛々しさをまざまざと見せつけてくる。ここがあまりピンと来ない(十分だった方々はすみません)。グロテスクな部分が何か勿体無く感じる。ん~、わからん。 

〇??? 
 とりあえず、解き放たれたイグアナの件がわからん。完全飼育されていた、いやイグアナという力が抑えられていたととるのか。それと血まみれで狂喜乱舞する中村梓の対面。???

〇最後に
 母と息子(主人公)の関係と、主人公と中村梓の関係の衝突みたいなのが描かれそうで、中途半端で。ここもよくわからんかったな。世界を壊すみたいなキャッチコピーだそうだから、関係してるんだろうな。学校、クラス、親子、友人、恋人(男と女?)・・・世界がキーワードってな感じかな。
・・・ではでは。

2015年6月13日土曜日

イニシエーション・ラヴ(2015)

~ 一択 ~ 

〇はじめに 
 「Side-A」を観ているのが辛い。あの二人の世界を笑えない。世界に二人だけしかいないような関係に引いてしまう。いやそれが狙いだったことはわかる。それがオチにつながる、騙そうとする演出であるからだ(そんな時代だったのか? まぁ今でもいますよね、公共の場でイチャイチャしてるのが)。しかし何ともイタイタしい。故に途中から完全に心が木村文乃にシフトしてしまう。これもたっくん視点での二股をリアルタイムであると強調する上でわざとであるのもわかっている。しかしだ、それが最後の究極の疑問につながってしまうのである。

 「なぜ前田敦子の元へ走ったのか?」

と。それが恋だと、そういう男だったと言われてしまえばそれまでなのだろうが。何ともしっくり来ないのである。


〇二股 
 これは人の見方によりけりなのだろうが、繭子がウザ女のままで終わって正解なのだろうか。悪女にならなければならなかったのではなかろうか。最初からウザい。美弥子への移行をスムーズにするためなのだろう。これは見事にハマっていた。

 まぁたっくん視点で二股掛けてボロが出る様を関連付けてたのはうまかったのかな。取り繕い方や対策において、男と女の差を見せることで、いや、相手方が気付くか気付かないの方か。どちらの点でも嘘をつくのは女の方がうまいということか。男は単細胞と。 


〇結果にコミット 
 どうせなら期間を2カ月にすれば良かった。あれ、何カ月だったっけ? 
 
 いや~、容姿の変化を、痩せる動機を描いてはいるものの無理があるだろう。髪型、コンタクト、バッシュ、そして決め手の女から痩せてときたもんだ。いや十分なんだろうけど、ここを笑かしてどうっていうのは通じない人多いんでねえの。いやいやわざとなのか。笑いをとって、その記憶を刷り込ましておくのか。


〇最後に 
 何ともスッキリしない。何がって? 最後繭子のもとに向かったことさ(まだまだ引きずりますよ)。美弥子でいいじゃん。でいいじゃんって言い方はあれだが。恋愛は〇〇じゃない的な話で片付けたくない。誰もが思わないものなのか。繭子が馬鹿にしか見えない。痛い子にしか見えない。そして気付くだろう。こんな馬鹿な奴がいるはずないと。計算されているキャラクターなのだと。そしたら絶対に裏があるとわかるだろうが。まぁ現実においては見えてこないでしょうが・・・。明らかに美弥子>繭子に映るじゃないか。それが男視点におけるリアルタイムでの二股の進行を疑いの余地のないものにするのは何度も言うがわかっている。

・・・おそらくオチがね、男がそれ以上に馬鹿ですよと言われている感じがしてしまってるのだと思う。はいはいイニシエーション・ラブでしたと片付けてしまえばそれで収まるのだろうが。最後の笑顔、めちゃんこむかつきますよね(笑)。前田敦子さすがだね・・・。


 いやアニメ・・・の中の萌え文化が流行り、そういうキャラクターを目にし過ぎている時代を生きているからなのか。おそらくこれがネックだ。この作品は年代によって観え方が変わってくるのだろう。萌え文化に浸った若い世代はどう見えるのか。劇中の時代を生きていた人たちはどう観えるのか。どうしても私はこの2人のキャラに目が行ってしまった。その時代ならではのヒントが散りばめられていると言われても何らピンと来ないからである。そんな年代を越えて散りばめられているヒントもあるにはあるが、ヒントに気付けるか気付けないかで、やはり観方・楽しみ方は変わってくるだろう。


 カセットテープに掛けて、A面B面で分けて描いたのだろう。これを是非ともですね、平成という時代で、A面B面C面D面と入り乱れて描いてみてほしい。前田敦子をアップでひたすらに映し出すのを、相手方の男に目を向けさせないためだと勘繰っていたのに。男がいつのまにかすり替わっているとかできそうなもんだけどな。顔を映さないで、後ろ姿だけとか。

 最後にはじめて衝突するより、どっかでダブルブッキングでもしてほしかったな~。いやそこは女の腕の見せ所なのか。いやむしろその見せどころで、ダブルブッキングを乗り切るとかやっても・・・。

 最後の5分で騙されるとか何とか。「Side-A」が辛くてですね。最初の何分かは知りませんが、そこで疲れました。

メイズ・ランナー(2014)

字幕翻訳:若林桃子


~秩序~

〇はじめに 
 最近流行りの3部作シリーズ「ハンガー・ゲーム」「ダイバージェント」と来て、この「メイズ・ランナー」。一番テンポが良いのではないだろうか。世界観の説明やドラマ部分といったサクセス要素をなぜか重要視するこの手のシリーズ。この作品は主人公の記憶喪失と、性格上好奇心旺盛という設定を利用して、まず行動してから結果を出し、新たな謎や情報を提示してくる。その展開の仕方がとても見やすかったように思う。しかしそのテンポの良さが、逆に面白味を削いでいたのも事実だろう。キャラをもっと深めても、そしてもっとランナーしてもよかった。でもそうするとまたつまらないとか言い出すんだろうな・・・。 

〇想起する作品
 「CUBE」(1997)
 「アイランド」(2005)
 「LOST」
 「プリズン・ブレイク」
 「進撃の巨人」

〇こんな話 
 迷路の中を走ります。

〇ランナー 
 迷路は十分に堪能できた(いやもっと堪能させてほしくはあったが、これくらいで十分)。しかしランナー要素があまりにも物足りなく感じてしまった。せめて裸足の奴とかいても良かったのでは。靴は履かない主義でね、的な変わった奴。短距離、中距離、長距離みたいに得意な距離で場面を使い分けるとか。床が動いても良かったよね。ルームランナーかよと。まぁ続編があるので、その辺は何か別のところに掛かっていたりしていて解消してくれるでしょう・・・多分。
 若者が「混沌とした世界=迷路」をひたすらに生きるってことなんでしょうかね。名前を思い出すことが通過儀礼的な意味合いで映し出されていましたし、主人公の集団における立場の確立を追っていくのがストーリーなわけで・・・。アイデンティティ的な・・・??


〇条件制御
 1つの完成されたシステムに新参者が入っていき、その中で頭角を現していく、地位を築いていく様は何とも見ていておもしろい。ここでは完成されたシステムについて少し。

 集落の形成、役割・役職の分担、統括者(はじめの1人)の存在、増えていく人員とともに供給される必要物資。そして最後の鍵である女という存在。これで1つの社会が形成・維持される要素が揃うわけで。これを劇中では秩序という言葉でまとめていた。そしてその秩序が主人公の介入により乱されたはじめたと。
 
 秩序とは一見平和な生活をする上で必要不可欠なものである。ある決まりごとを創り出し、その前提の下行動する。それぞれが制限された行動をとることで、他者への影響を最小限にする。そして社会を円滑に回すのである。
 その秩序とは劇中どうやって形成されていたのか。ひとつに夜は扉が開かないという前提である。扉は1つの周期であった(普通に昼夜で良いか)。生活リズムと言った方がわかりやすいか。要は社会を形成する上で効率化を図るための基礎となる部分。適応することで省略できるものだ。習慣化か。これにより行動を簡略化することができる。
 しかしそれが彼らに何をもたらしたのか。秩序に則っているために根本的なところで、土台となっている部分で怠っていることがあった。事が起こるまでは考える必要がなかった事項であるわけだが。多くの犠牲を生むことになってしまう。
 秩序とは平和や平穏をもたらすものの、その環境に浸っている者は平和ボケにもなってしまうと・・・

・・・まぁ何が言いたかったのかというと、なんのまとめにもならないのだが、早々に何かしらの実験だろうなとは気付きつつも、その中で主人公が活躍する様子は実験であろうことを踏まえても非常におもしろかったと。

〇最後に
 話のテンポや展開が非常に見やすかった分、世界観の掘り下げをあまりしなかったことが後々どう影響してくるのか。謎が謎を呼ぶ展開にはこれくらいで良いように感じるが、はてさて・・・。

P.S.
 進撃の巨人楽しみだな~(白目)。

2015年6月11日木曜日

エンカウンターズ-侵略-(2014)

エンカウンターズ-侵略-[DVD]


~もう、紛れ込んでる~

〇こんな話
 とあるグループが映画を撮ろうぜうぇ~いと森の中へ。何かいました、ありました。
 
 彷徨う → 怪現象 → 施設・実験室跡 → きゃあああ
・・・この手のシリーズの基本的な流れですね。もちろんPOV。

〇企画
 今回おもしろかったのは、怪現象に関する疑心暗鬼を、宇宙人によるそれと、彼らの企画であった映画製作における演出やらどっきりやらとで比較したこと。以上。

〇侵略
 宇宙人がクローンを作って我々に紛れ込み、情報収集しているそうな・・・多分。
 
 最後それを踏まえた上でサービスシーンがあるわけなのだが。あれ、オリジナルの方で映してたっけ? 後ろからだけだったよな。盗撮的なやつだけ。どうせなら、オリジナルとクローンとで、身体における違いを示しても良かったのではないか。私のはこんなに大きくないとかなんとか。
・・・そういえば、お腹を触ってたのは何かあったのか・・・??
・・・正直、途中から別の作業はじめてました。

〇最後に
 でっかいやつの造形は良かった。

 


2015年6月10日水曜日

クロース・エンカウンター 第4種接近遭遇(2014)

クロース・エンカウンター 第4種接近遭遇[DVD]

~地球の技術力を舐めるなよ!~

〇はじめに
 この手の話は十中八九ホームビデオ方式。DVDのジャケットが一番ワクワクするという。これもその1つだった。

〇こんな話
 自称トレジャーハンターたちが森で宇宙人と遭遇します。

〇時代
 ひとつおもしろかったのは、とある一人がUFOだかなんだかを見て、ありゃ軍が作ったやつだよ頑固にものを言うところだ。何でもかんでも宇宙人ネタにしない、今の(軍の)技術力の暗示というか。市販でドローンが出回ってるくらいですからね。時代を感じます。それに見飽きましたよね、UFOやら宇宙人やらの動画を。目が肥えているというか。生半可なものじゃ驚きやしませんよと。いずれ発光体だかを見て、地球人のものなのか、宇宙人のものなのかという疑心暗鬼をウリにする作品が流行るのだろうか。いや、もう流行ってるのか??

〇最後に
 ものすごく地球防衛軍をプレイしたくなった。しなかったけど。

2015年6月9日火曜日

ハンガー・ゲーム FINAL:レジスタンス(2014)

字幕翻訳:石田泰子


~カリスマ~

〇はじめに
 リアムヘムズワースが今回めちゃめちゃかっくいいな。あんた、男だよ。

〇想起する作品
 「スターシップ・トゥルーパーズ2」(2003)
 「キャプテン・アメリカ」(2011)
 「わたしは生きていける」(2013)


〇こんな話
 今こそ革命の時。燃えあがれ、私(俺)のぉ~小宇宙おおおおお!!


〇ジェニファー・ローレンス
 民衆が革命へと立ち上がっていき、だんだんと大きな力となっていく様が観ていて何とも興奮する。それもジェニファー・ローレンスの演技があってこそで、複雑な感情を映しだすのが何とも秀逸。感情に、心に訴えかけてくる。そんな彼女だからこそ革命の象徴となり、皆が付いていく。
・・・The Hanging Tree歌ってるところはやばかった。

 しかし裏事情も絡ませてくることで、一筋縄では行かないようにもなっている。プロパガンダ、カットニスが人心掌握のための広告塔へと祭り上げらるわけだ。感情に訴えかけてくるカットニスのカリスマ性が革命の鍵となる。その心の動きを体感させられて、表と裏の思惑を観せられることで、複雑な感情を抱かせられる。これが堪らない。
・・・カットニスも1人の人間であるってところも強調してるんですよね。シェルターへの避難の際、階段で蹲っている彼女がその他大勢である内の1人に助けられるという。

 終わり方も何とも秀逸だった。首相の演説を聴き、1つになっている民衆たち。確実に今の世界から変革に向かっているものの、何か違和感を抱くカタチとなっている。それを念押しするかのように、フィリップ・シーモア・ホフマン演じるプルターク・ヘヴンズビーが首相のスピーチを横で口ずさんでいたりする。そして何よりもカットニスが何のために戦ったのかという1つの真実を付きつけるカタチで、これから彼女は何を拠り所に、何のために戦うのかという疑問符を投げかけて終わるのである。
 彼らはいったいどこに向かっているのだろうか。革命を成功させたとして、その先にはいったい何が待ち受けているのだろうか。  

〇余談 
 4って書いてFORって認識されるアレは何なん?? 

 MOCKINGJAYって何だよ? ハンガー・ゲーム復習しておいたのに浸透してないこのワード。そういや、1と2は吹替えで観たんだったか・・・。いやいや、字幕で観たぞと。単語を目にしない限り、聴きとれんわな~。

〇最後に
 「ハンガー・ゲーム」シリーズ楽しく観ている自分ではあるが、サクセス部分に何かと力を入れる傾向があり、若干長ったらしさを感じてはいる。このファイナルも導入が何かと退屈に感じてしまうものの、それらには意味があったのだと感じさせてくれる出来になっている、と勝手に感心している。

2015年6月8日月曜日

おかあさんの木(2015)



~フィクション~ 

〇想起する作品 
 「メッセンジャー」 (2009)

〇こんな話
 おかあさんの木。

〇フィクション
 この終わり方だとただのボケた(認知症でした)おばあさんの戯言というか与太話になりますけど、それで良いんですか?? 

 おかあさんの字が読めないという設定を、おそらくは人と人との直接的なつながりとして観せたかったのだろう。字が読めないために、他人から読んでもらうことになる。夫にはじまり・・・となっていくわけだが。これがどこに掛かっていくのか。 
 この「おかあさんの木」を話していたのは誰だったのかというところがおそらく鍵だ。苗字と名前を把握してしまえばこいつだとすぐにわかるわけだが、その人物の歴史を追ってみるとわかるのだが、おかあさんとの接点はほぼ皆無。いやあるにはある。手紙を読むというのが。しかしそんな人物が「おかあさんの木」という全容を語るのである。誰かしらに聞いた話であろうことをひとつにまとめ、伝えるのである。これをどう観ればいいのだろうか。
 おかあさんという視点で、戦争がどんなものなのかと伝えたいのはわかる。戦地に赴いた者だけのものではない。銃撃戦が止めば終わるものでもない。停戦協定が結ばれれば終わるものでもないと。しかしだ、なぜそれを根本から疑わせる描き方をするのかが一向にわからない。語り部がおかあさんになった節もなかった。いや、兄弟唯一の生き残りである五郎との結婚という事実が、先ほどのおかあさんとの関係性も含め満たしており、敢えて語らないところだったのか。
 そういえば出産の際は必ず産婆を挿むのも気になった。さらには養子問題か。ご時世というのもあるだろうが・・・。
 
 まぁつまりだ、忠君愛国だか言って死した兵士たちの遺族にただの紙っぺらや土やら送って立派な死を遂げましたとして済ます意味不明な係わり合いとの対比で、非国民と罵られようが人と人との直接的な思いの籠った触れ合いを築いているおかあさんを中心とした関係性を観せることで、最後語り部に対する疑問を振り払おうとしているのではないかと、勝手に考えを膨らませてしまうのである。おかあさんの木に関する伝聞は、何ら疑う余地の無い真実であると。しかしだ、最後のアレは何なんだ・・・う~む。
・・・その割には木の下で亡くなってるおかあさんを発見したのは、やっとこさ帰ってきた五郎だしな。今まで関わってきた人たちはどこへ行ってしまったのか・・・ともなるわけで・・・
・・・おかあさんが死んだときに丁度五郎が帰ってきたわけか。戦争が無ければこんな悲劇は起こらなかったというわけか。どんなことをしても行かせなければよかったというおかあさんの台詞とも掛かるのか。そんなことが許されるご時世ではなかったというのは、劇中でも描かれているわけで。わざわざ悲しみを創り出す必要がありますかと・・・
 
〇最後に
 号泣云々で観せるこの作品。どうなのだろう・・・。

2015年6月6日土曜日

青鬼(2014)

青鬼[DVD]


~ようわからん~ 

〇はじめに 
 入山杏奈がもう少し頑張れば、もう少し観られる作品だったんだろうな~。 
 ビジュアル的には文句無しなんだけどな~。 
 白いカーディガンとても似合ってるんだけど、できればもと薄着が良かったな~。 
 スカートにしてもっとヒラヒラさせれば良いのにな~ 

〇こんな話 
 青鬼から逃げます。 

〇変則プログラム 
 なぜ時間回帰したのか。 
 
 ある廃墟にてシュンが作ったとされる青鬼というゲームが反映されるわけであるが、なぜ最後シュンとのひとときに戻ったのか。 

・時系列
 半年前 杏奈の弟死亡(確定事項) 
-----------------
 1, 青鬼プレイ(弟が呼びかけてくる) 
 2, シュンとゲームをプレイしてました GAMEOVERの文字 
―――シュン死亡(確定はしてない)――― 
 3, 廃墟へ(ここが謎となるところ) 
 4, 青鬼はじまりはじまり 
 5, なんやかんや 
 6, シュンとゲームをプレイしてました CLEARの文字(2に戻ってることになる) 
 7, NEXT STAGE? 

 シュンが死亡することで廃墟にて青鬼がはじまったとするのかと思いきや、シュンの死亡が確定する前に時間が戻ってしまう。これは・・・?? 
 
 もう一度確認しよう。結末を踏まえ確定事項は何だったのかと。唯一確定している事項、それは杏奈の弟の死だ。卓郎にいじめられていたという過去も持っている。それが原因で自殺をしたと。つまりこれはシュンの卓郎への復讐におけるシュンの世界のお話ではなく、杏奈の弟が創り上げた世界だったのではないか。
 しかしこれだとシュンと弟ナオキのつながりがまるで描かれていないことが問題となる。2人は親友だったとか、青鬼を一緒に製作した、プレイしたという事実を描き出さなければ。シュン君とナオキが似てるとナオキが言っていると意味不明なことを言う杏奈。ここでそれを満たしているのか・・・。 
 いやいや、実はこれは卓郎への恨みに取りつかれた杏奈の世界だったのかもしれない。彼女はシュンとともに青鬼をプレイしており、クリアの仕方も知っていた。世界を創り上げるには十分に要素を満たしている。そして変則プログラムにおける件の解消もできる。自分で閉じた扉を開ける、立ち向かう勇気だとかなんとか。復讐心よりも、一番近くにいながら弟を助けられなかったという後悔からの脱却、立ち直りか。 
・・・で、つまり何だったのさ。 

 シュンが卓郎の名前を創ったゲームに使っていた。これが反映される1つの要素でもあるわけか。 
・・・ここなんだろうな。杏奈が青鬼のゲームに使われている卓郎という名前を観て(杏奈の名前も使われている・・・これは最初に設定したものなのか?)、こいつ今GAMEOVERになったみたいに死ねば良いのに、ってな感じか。 
・・・いやいやいや、ゲーム内の主人公の名前が杏奈だったことから、シュンが単にゲームをプレイしていただけなのかもしれない。 

 そもそも携帯電話が鳴るのは何だったんだ? 生者と死者の区別だけだったのか・・・ 
 鬼が襲ってくる条件とかもあったっぽいけど・・・

 ・・・どうでもいいか。

〇最後に
 Ver.2.0が公開されるということで予習のために鑑賞した次第である。
・・・嘘です。Ver.2.0で出る平祐奈を劇場で堪能したかったからです。
・・・嘘です。入山杏奈さん、かわいかったです。

〇おまけ



  ↑ この感じが個人的にすごい好き。 ↓ 



















 ではでは・・・

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...