2015年1月7日水曜日

ザ・シューター 極大射程(2007)

ザ・シューター[DVD]


〇想起する作品 
「イレイザー」(1996)
「ジャッカル」 (1997)
「バンテージ・ポイント」 (2008)
「アウトロー」(2012)

〇こんな話 
 元狙撃種の主人公。腕はピカイチ。退役してからは隠居生活を送っていたが、ある時大統領の暗殺計画を企ててくれと依頼される。それは事前に仕入れられた暗殺計画を阻止するためのものだった。その計画を可能にする腕を持つ者は限られ、同等の力を持つ者のアドバイスが欲しいと。 
・・・まあハメられるわけです。大統領暗殺(実際に殺されたのは大司教)の濡れ衣を着せられた男の逃避行のはじまりはじまり。


〇挽きたて工房 
 新人捜査官ではあるがFBIの秀才、ダイヤの原石がいる。経験不足を豊富な知識と探求心(正義心)を持ってカバーする。彼の存在が陰謀論の追求と黒幕への繋がり、さらには主人公の引き立てという二つの役を買って出る。遂にはプロから実戦への手ほどきを受ける。主人公の実力だけでなく、彼の成長も見どころだ。

〇法外 
 法を司る者が、法により裁くことができない悪を、法とは別の何かしらの手段で罰するということを容認する発言がある。 
 法に則った強さを見せる発言と、それだけでは制御しきれない、排除しきれない悪の存在。さらにはその司法長官を馬鹿にする発言も。そんな場面を経て悪を裁く様子を見せられると、悪を裁くのに必要悪が説かれるのも納得してしまう。 

〇換算 
 劇中の台詞に対しての吹替え・字幕における距離の換算の仕方が気になったので少し取り上げたい。彼らはヤード法を採用しており、字幕と吹替えはメートル法を採用している。ある程度抜き出してみたので比較してみる。 

注、1ヤード=0.9144メートル


表 距離比較



 台詞における距離の刻みは「5(ヤード)」であることがわかる。吹替えもその間隔(5メートル)を採用している。ここで取り上げたいのは字幕の方である。「1(メートル)」刻みなのである。実戦においてスナイパーとスポッターという二人一組で活動する。距離以外にも、風向き、角度、その他様々な要素を考慮しなければいけないと主人公は言う。戦場においては咄嗟の判断が要求される。銃撃戦の中であれば尚更だ。問題はそんな中、どんな表現を用いるのかということだ。繰り返すが正確かつ的確な情報や判断が強いられることは言うまでもないだろう。しかし狙撃をする上で、何百メートルを通す上で、「1(メートル)」刻みでの表現ができるのだろうか。必要であろうか。その単位での思考を考えてみてほしい。「1」刻みなのか「5」刻みなのかで、考えうる思考が増減しないだろうか。より修正する要素が生まれ、迷いが生まれはしないだろうか。

 例えばですよ、折角数字が関連しているので少し算数の問題を出してみよう。
[問 99×99]
という問題があったとして、あなたはどのような答えを出すだろう。正確に一の位まで答えを出しますか。それともアバウトですか。
何が言いたいのかというと、状況により必要とされる答えの正確度が異なってくるでしょうと。100×100(=10000)以下というくらいの精度でいいのか、9801という正確な値が必要なのかと。買い物でこの状況があるかはわからないが、99円の物を99個買うとして、所持金が1万円以上なのか、9800円ちょっとしかないのとでは要求される思考や精度が異なってくるでしょうと。ちょっと頭を悩ますか、暗算できないと混乱するのか。
・・・で、この映画のそれぞれの場面ではどうなのよと。


〇最後に
 この作品より前に上げてしまったが、この作品を観た後に「ローン・サバイバー」を是非。

2015年1月5日月曜日

ファインド・アウト(2012)

ファインド・アウト[DVD]


~信用~ 

〇こんな話 
 過去に誘拐されて生還した女性。過去を乗り越え?妹と生活をしていたところ、妹が失踪する。彼女は過去に自分を誘拐した犯人が戻ってきたとし、警察に駆け込むも相手にされない。実は彼女には精神的な病歴があったのだ。そして過去の彼女の誘拐に関する証拠が何1つ発見されていなかったのだ。彼女は独自に調査を開始する。果たして真実は・・・。 

〇信用 
 話す相手によって嘘を織り交ぜ、さらには情報収集したものを繋ぎ合わせ、あたかも自分が見たかのような状況で、自分がその状況に置かれているかのように話を進める。真相を突き止めたいが故であろうが、ここから我々鑑賞者の彼女に対する信用は失われはじめる。次から次へといろんな状況に身を置き、相手から情報を引き出すが、それは全て彼女が創作した話だ。
 彼女は少女誘拐事件がある度に警察へ連絡もしていた。しかし彼女自身の誘拐事件同様証拠は見つからず、彼女に虚言癖があるとまで思われており、警察は捜査・捜索に踊りでない。逆に彼女が追われてしまう。 

 最初にも描写されるのだが、彼女は誘拐事件の真相や証拠を掴もうとひたすらに独りで探索をしている。その努力がやっとこの作品で実ったのだが、そこに重点を置くと、その行為や忠告を無下に扱った者たちが何とも馬鹿に見えてくる。何と警察は無能かと。なぜ彼女を信用しないのかと思う方も多数いることだろう。しかし考えてみてほしい。ある人から話を聞き、常にその話の確証を得られないとしたら、その者の言うことをこれからも信用するだろうかと。確かめるのにやれることはやりきったと思い込んでいたらそれは尚更だろう。劇中ではたまたま彼女の言うことが正しかったことが証明される事件が描かれただけだ。それまでの彼女の情報は、いずれも事実確認ができずに、空振りに終わっていたものばかりだった。しかし以前の彼女の虚言癖ともとれる行動は警察の話の中でしか出てこない。そして警察が彼女にあきれている様子を見せることでそれを演出するのだが、気持ちは彼女への疑いよりも擁護する方に傾いてしまう。故に警察が無能に見える。警察視点で見たら、また違った見え方ができたことだろう。証拠出されたら終わりですがね。まぁ、最後の終わり方からして、警察無能演出をしたかったことは明らかでしょう。
 結果論なんですよ。結果が出なきゃわからないじゃないですか。その情報が、その人物が信用に足るものなのかどうなのかというのは。その信用をつくりだすのは、その人物や情報の出してきた結果が正しかったか、間違っていたかの過程の繰り返しなんですよ。
・常に正しかった → 全幅の信頼を寄せる
・常に間違っていた → 絶対に信じない
・正しいより → ?
・間違いより → ?
・五分五分 → 疑ってかかる必要がある
・・・などなど。

 最後は助けを求めたパワーズ刑事に事件のあらましを直接言うのではなく、署に誘拐事件の確たる証拠を提出するという。大ダメージですよね。たった一人の女性に劣る警察組織。彼女の誘拐事件の捜索にヘリやら警察犬やら総動員だったとか豪語してますからね。彼女の最大限の皮肉(復讐かな?)です。なんだかんだ警察を擁護するような発言をしましたがね、まぁ、スカッとしましたよ。

〇最後に
 世間的に、警察と一人の女性とでどちらに信用があるのかと。それぞれの背景や社会情勢やらが関わってくることでその天秤はどちらにも傾くだろう。そこをうまくついたのか、ただの警察への皮肉だったのかはわからないが、なかなかにおもしろい作品だったと思う。

2015年1月3日土曜日

ポンペイ(2014)

ポンペイ[DVD]


~この男ら、火山より熱い~ 

〇はじめに 
 「グラディエーター」を観とくと、剣闘士云々入りやすいのではないでしょうか。ローマの絶対性とか・・・。ありきで作られている気がしなくもない。 

〇想起する作品 
「ボルケーノ」 (1997)
「グラディエーター」 (2000)

〇こんな話 
 人間界(不平等)  VS  自然界(平等)
・・・のお話。

 本題に入る前に敢えて言わせてもらおう。こいつら暇だな、と。自然(火山)という脅威を前にして、個人の私怨や感情で一戦交えるとは、大した度胸だ。んなことよりはよ逃げーや。生き残ってからで良くないかその争いごと。いや、今片付けねばならないんだ!!男には戦わねばならない時がある。それが今だ!!

〇平等
 「権力者―貴族―使用人―奴隷 」
・・・みたいな構図や関係性が出来上がっている世界(人間界)。力は何も暴力だけではない。お金や権力といったものに依存する場合がある。真に強いものは暴力という力のある者ではない。それらを操ることができるものだと。しかしこれは人間が勝手に作り出した関係性に過ぎない。自然にとっては何の意味も為さない構図。自然に対して死は平等に訪れる。いや与えられると言った方がいいのか。しかし死に方の演出は何とも差別的だ。
 自然という脅威を前にしても権力にすがる者がいる。自分の死を受け入れずに醜くも生き残ろうと死を恐れる。何とも虚しくも愚かである。殺戮を繰り返し、望まぬかたちの死を与えてきた連中には自業自得と言えるのか。それが良い演出になっており、彼らの死は「ざまぁ~」と思うかたちになっている。そして主人公たちはというと、自らの死を受け入れ彼らの望むかたちでの死という、何か美しくも感じられるものとなっている。剣闘士としての死に関しては何か流儀や美徳を持っている者がおり、自分は自由だと拳を高々と上げて自らの死を受け入れて死ぬ。生と死とを対比して、死が生というものからの解放を意味する者と、死が単に生の終わりを告げるものとする者。死に方の対比による生への執着、ここでは権力や自らの望むものに対するひたすらな飢えを渇きを、愚かしくも醜いものだとして皮肉っているのか。今の立場を他者・弱者を蹴落とすことでしか保ってこれなかった者。あれ、それは剣闘士も同じか。望んでか仕方なくかの違いか。そしてただのエゴか生きるためかの違いもか。そんな違いが生への執着度合い、潔さにつながってくる。人間の欲望は膨らめば膨らむほどに、失った時のショックは大きい。そして失うことをひたすらに恐れ、それを取り繕うためにまた新たなものを求める。ただひたすらに自らの欲望を満たしてきた者ほど喪失感や恐怖は底知れないものとなるだろう。故に最後を迎えようとするときにそれが醜さとなって現れる。
・・・てな具合に、差別化された人間界に対して、自然によってもたらされる平等な死というのを、死に方の演出により見事差別化し、人間界における関係性というのを解消している。

 一旦人情ドラマにて盛り上がった私の熱を冷ましたいと思う。 
 ローマという絶対的な権力(といっても一部分の人たちなのだが)を、奴隷(剣闘士)という視点から見て悪と定義し、そいつらに立ち向かうために共通項を持つ者と手を組み、火山による死を前に決着をつけると。なんとも盛り上がる展開だ。鑑賞中はこの胸躍る展開に流された。観終わってふと思う。火山によりもたらされる平等な死は何を意味するのか。剣闘士という境遇故ではあるが、主人公をはじめとし彼らは見せ物として人を殺していた。それは主人公が恨んでいた家族の仇と何ら変わらないことをしていたのだ。支配する者がいなければ、彼らは剣闘士にならず無駄な殺しはしなかったかもしれない。しかしそれを話し合ってもキリがない。なぜなら彼らは「今」という時間を大事にしているからだ。それを議論するのであれば、火山を、死を前にしてその場で一戦交えることは避けるはずだからだ。自然災害の中で殺っとけば、後々言い逃れできるという下心はあったかもしれない。でも結果が結果だけにね、と。
 要は悪に対して復讐を遂げることを描ききることが、彼らの死に何か優劣がついてしまうのが少し気になる。ただそれだけ・・・

〇最後に
 男同士の友情、男女の愛情はマグマなどものともしない・・・わきゃない。いや、問題は結果じゃない。どこまで熱くなれたかだ!!火傷するなよ・・・。

2015年1月2日金曜日

サプライズ(2011)

サプライズ[DVD]


~常識VS非常識~ 

〇こんな話 
 両親の結婚記念日パーティのために別荘に集った兄弟とその連れ。そこで巻き起こる惨劇とは。 

〇想起する作品 
 「ホームアローン」(1990) 
 「スクリーム」(1996) 
 「ファニーゲーム」(1997) 
 「ハーパーズ・アイランド 惨劇の島」(2009) 

〇YOU’RE NEXT(原題)
 お金持ち設定は先に説明している。お金持ちでいい親(良い人種)はなかなかいないと主人公が発言する場面がある。その通り、親ではなく息子たちがクソ野郎でしたと。 仲の良い家族という設定。誰を疑えばいいのか。配偶者がおり、そちらに目を向けさせる。と思いきや大したひねりはない。結局は遺産相続争い。骨肉の争い。よくもまあ~、お金に振り回されざるをえない人間たちの醜さと、それに呆れ果て決別する人たちをこんなにうまく描きましたよ。なんか癖になりますね。 

 ラストのYOU’RE NEXT(次はお前だ)の文字。次は我々の番か。そうだなぁ、争いを無くすことはできない。それがいくら近しい人であろうと。何が問題かはわからない。この映画のようにお金かもしれないしそうではないかもしれない。避けられない定めというやつですか・・・。 

〇常識VS非常識 
 狩る側が、狩られるはずの者に狩られるという・・・ 

 恨み辛み晴らして最後に生き残った恋人を殺すが、それを犯人と見て窓から発砲する警官。これはおもしろかった(しかし、発砲する前に警告したか? 確か警察では発砲前の警告は規則になっているはずでは?)。 その警官が、主人公が殺人鬼対策として玄関に設置したトラップに引っかかって死亡する・・・。警官は窓から彼女を撃ち、家に入るためにわざわざ玄関に移動する。その前の描写で窓からの出入りを何回も観せられての、玄関から家に入るという描写。我々鑑賞者の常識を逆手にとる。常人なら普通の行動であるが、殺人鬼という異常者ならどこからでも中に入りますから。その証拠に主人公の彼氏(最後まで自分の手を汚そうとしなかった腐れ外道)は、直前に窓から家に入る。他の犯人たちもひたすらに窓から出入りしていた。彼女も劇中窓にもトラップを仕掛けていたし、犯人が引っかかってもいた。最後の演出として警官に引っかけさせる演出のためであろうが、警官という常識人と、犯罪者という非常識人の対比としても捉えることができるのではなかろうか。そして玄関にトラップを設置というところで、アクティブでありながら彼女が常識人であるということを思い出させてくれる。
・・・そういえば玄関へスタートダッシュをきめて、犯人のトラップに首をヤられていた女性がいたな。犯人も玄関にトラップ仕掛けてるな。トラップを仕掛けたのがどちらの人種にせよ、
「玄関のトラップに引っかかる=常識人」
「窓のトラップに引っかかる=非常識人」
ってな構図が伺えるとした方が良いか。

〇最後に
 グロテスクではあるかもしれないが、すごいコミカルに観られる作品であると思う。惨殺シーンに抵抗の無い方も是非・・・。

ラスト・ワールド(2013)

ラスト・ワールド[DVD]


~人はなぜ生きるのか~ 

〇はじめに
 「ハリー・ポッター」シリーズのジニー・ウィーズリー役の子が出てる。 

 思考実験がテーマなので私も思考実験で受けて立とう。 


〇想起する作品 
 「トリック劇場版」(2002) 
  くじのひかせかた。  


〇こんな話 
 核戦争後(原子爆弾の爆発後)の世界をひたすらに思考実験するお話。 

 我々はホモ・サピエンスという種を後世に残していかねばならない。そんな勝手な義務感を基に思考実験を開始する。人類存続のためにシェルターが存在する。しかしそのシェルターでは10人しか生きられない。21人(生徒20人+先生1人)の中から誰を生き残らせるか(死なせるか)という選択を迫られることになる。役柄(業種、性格?、思想、健康状態)は決められており、回を重ねるごとに付け加えられていく。何を基準にどういった判断を下すのか、見ものだ。



〇合理主義と非合理主義
 論理は人生を楽にする、生きる術であると述べられている。これはある程度の傾向を探るということからのもの。効率化と言えばいいのだろうか。 

 この思考実験において先生が目的とするところは種の存続としている。感情ではなく理性を優先しろと。 


・実験結果(計三回の思考実験)
一回目  
「生き残るのは誰だ? 俺だ俺だ俺だ~!!」

 10人を選出したはいいが、理性では無く感情で判断をしたがために、脱出コードを知る一人を締め出し、結果9人に。シェルターから脱出することができず・・・。 
  →あれ?電気技師選んだよな。結局使えない奴選んだってことになるのか、それ
    とも設定を忘れたのか、敢えて突っ込ませる気なのか。選択をミスったってこと
         が証明できれば良かったからこれはまぁ・・・。 

 この選択は一年間まず生き残る(種の存続)という目的の下であれば最良の選択と言えた。非常事態に対処できる能力(ここでは役職)を有する人物の選出。DNAの優秀さにおいて、子孫と言う将来的なことも考えてはいた。しかしその考えよりまず1年間生き残ってからという考えが先行したことは確かだ。その思考の現れが先生の排除だ。知った仲で築く関係性、異端児・イレギュラーを排除することが過酷な環境で生き残る上では最大のメリットになる。


二回目 (一番理性的) 
「か~んち、〇〇〇しよ」

 種の存続に関して最適な選出を行う。一回目に考慮された業種の他、性機能の諸問題についても考慮される。「子どもができねえから、もっと犯らせろ」みたいな状況にもなるわけで・・・。なんやかんやあった結果一人の暴走を生み、全滅。

 この選択は性機能についての問題も関与し、遺伝子の優秀さではなく、確実に子孫を残せるようにと一回目の選択から少し修正された。将来的な子孫繁栄にまで考えが及んだことだ。しかし問題があった。生き残るという最低限の目標を、先生を仲間に入れるということだけで回避したことだ。その結果全滅することになる。


三回目 (一番感情的)
「セックス、性交渉、交尾、合体・・・これが全てだ!!」

 主人公による完全なる主観と自己満足による選択。私が選択した者たちであればこういった世界観を描けるはずよという未来予想図。信頼してくれと。
  →はぁ、やれやれ・・・。

 核戦争後の世界を、人間という種を存続させるという目的の下生き抜くのか、人間として生き抜くのか(人間ならではと言った方が良いか)という選択。その選択をする際の指標としては、性行為をどのように位置づけるかというのが一番大きいところなのだろう。
 感情か理性かというのもこの行為の位置づけに現れる。種の保存・存続のために子孫を残すという義務で行うのか、ストレスの解消、お互いの関係性の確認、ただの快楽依存などなど性交渉に関して、目的を定めることが人であるが故といったところに直接関係してくるのだろう。そもそもセックスの娯楽化は人間の特権であり、セックスやその他の性行為を子作りとしてでなく、快楽を求めて行うのは人間だけ?である(どっかで聴いた)という理由が大きい。 しかし日本の性教育が脆弱なこともあるのか、コウノトリが運んでくるというごまかしや、世間的に見えてくる幅広いセックスの娯楽化などが何か性に対しての汚らわしさという思考を助長しているようにも感じる。故にセックスありきの思考は何か複雑に感じてしまう。 



〇選択 
 思考実験において重要視されるのが選択。これを選択すればこのような結果になるという。その場(限られた情報)で考え得る最善の選択が求められる。しかしそれはほんの少し情報が付加されるだけで選択が異なってきたりする。この選択肢を選択すれば、このような結果が導き出せるという結果論云々になってしまう。

 何かしらが80%で起こる(20%で起こらない)のと、20%で起こる(80%で起こらない)のとどちらを選択するかと。その選択の際はその程度の情報しかわからない。結果を予測する時点では、事が有るか無いかという二通りになるわけだが、結果として観れば事が有った、無かったというどちらか一通りにしかならない。故に選択の際に迷いが生じる。  


 思考実験における選択は結果ありきで判断される。成功か失敗、犠牲の大小などだ。この思考実験の選択肢は生か死かであった。しかし実際はこうだというメッセージを浮気性女のわがままによって示される。彼女が言うにはこうだ。「我々人類は如何に死ぬかではない、如何に生きるかだ」と。合理的(理性的)にものを考えて生きることは人間ならではである。種の存続にもそれが適しているのかもしれない。しかし非合理的(感情的)に生きることも、生きることこそが人間的と言えるのではなかろうかと。種の存続は義務的に行われるべきでは無く、その者たちの選択で行われるべきだ。常識に縛られる必要などない。どのような選択をしようとも個人の自由である。


・最後の先生の選択について 
一、サンドウィッチを食べる 
一、銃で自殺を図る 
一、(彼女の顔を思い浮かべる)・・・はてさて 

 先生は生徒に対して、核戦争と言う今の世界の常識や全てが一切通用しない、無くなった世界においてどういった選択をとるのかという思考実験をさせた。それに最後の先生の選択のあり方を当てはめるとこの演出は合点がいく。先生にとっては彼女が今までの世界の常識であり、全てであった。それを最後完全に失うこととなる。はて、どういった選択をとるだろうか。核戦争以外にも日常に転がる自分にとっての常識世界の逸脱。先生はまず選択の幅を見せた。サンドウィッチを食べるというのは生きるという上で最低限に満たされるべき条件である。故に(事実を受け入れて)生きるという選択。次に拳銃自殺。これは死だ。この生か死かという選択の幅を見せられた上で、あなたがこういった状況に陥ったらどういった選択をしますかと、最後自分の世界を思い巡り疑問を投げかけてくる。選択すべきは生か死か。だけではないのだよと。結果ありきで考えれば結局は死ぬことに変わりは無い。でも今ですか、今より後ですかと。

 先生の思考としては、合理的に理性的に選択を行えば私を選ぶはずだ、というもの。先生は言う「俺たちは最高のカップルだ」と。これは理に適ってはいる。究極に合理的な人間と究極に非合理的な人間の組み合わせ。お互いに考え方が両極端であり、足りないものを補い合う関係。しかし彼女はそうはしなかった。なぜなのか。まずそれが理に適うのは合理的に考えた結果で、先生の考え方でしかないからだ。そして敢えて一方的なフラれ方を見せたのは、女と言う特殊な生き物であるということを言いたかったのか。男の思い通りにはならないということを言いたかったのか。女性は子宮でものを考える、男は頭でものを考えるというところも関係してくるのだろうか。「A secret makes a woman woman」とも言いたいのだろうか。気になるのは最後も先生と彼女の間だけで完結させていることだ。情報の制限が為されているからこそ現在の関係性は成り立っている。彼女は先生では無く今彼を選択し、先生は・・・不明であるが、今彼の選択はもう決まっているかのように描かれる。果たして、彼女が実際は先生と〇〇な関係にあるということを全て知った彼は、彼女を受け入れてくれるのだろうか。
・・・そうか彼女にはそのような考えが適用されないのか。無駄な心配だった。     


〇疑念 
 この思考実験が許されるならば究極核爆発は無かった、放射能汚染が無くなったなどの結論に達することが可能となる。思考実験が始まらないのだ。というより別のテーマでの思考実験が始まることになる。わざわざ役柄をつけて条件を制御しているのに、最後の選択に主人公は皆を知っているなどとのたまい、性格を考慮し選択を始める。思考実験の設定や前提が明確に決められていない(設定事項以外は普段の設定通りという条件があったが)ことが問題なのだが、そもそもこの実験は長年連れ添った者たちでやるべきではないのだ。この映画は結局のところ如何に思考実験しようとしたところで、条件制御が建前としてあるだけで設定があまあまである。やるのであれば役柄のランダム抽出ではなく、人物を無作為に抽出して、役柄を事細かに設定する(互いに知り合いでなければ設定する必要も無いか・・・)。皆を知っているという前提を取り除かなければこの実験は成立しない。 合理主義か、非合理主義かという考えさせるべきテーマが故に顕著に描いたのだろうが、気に食わない部分がある。 

〇最後に 
 テーマとしては非常におもしろいと思う。しかし映画として途中でダレる・飽きる。故に最後が???となっても何ら印象に残らない方も多いと思われる。どうでもいいや、どうせ思考実験でしょと。 

 ただの浮気性女のわがまま映画と観ればそれまでだ。故にこの女が最後「信頼してくれ」だとか、「公平な選択をする」などと宣言することに、疎ましさやいやらしさを覚えてしまう。まず選択という行為自体に主観が伴う。それを自分に対する信頼で強制力を持たせるということになるわけで・・・。最後の選択の有り方で、合理主義と非合理主義の選択の仕方の違いで、人間はどう生きるべきなのかという問題や迷いについての疑問を投げかけるという目的は十分に達成している。しかし真に公平を規するのであれば・・・、まぁ無理か。 

 曲解すると主人公は自己犠牲精神と偽った言動(正論)で仲間の心理を操作し、自分が助かるように誘導したともとれてしまうのである。最初の彼氏との夜通しの性交渉も愛と言う形態化ではなく、彼氏を授業にわざと遅刻させ、元彼である先生をイラつかせる演出や要素だった。そして正論を並べ立て授業を去る演出も、先生自らで引きとめさせるという男心をくすぐるそれだ。そして思考実験においての彼女のこまごました気配りも最終的に自分が助かるための手段だった。彼女が一番に先読みできていたと言えば優秀だなと感心できるが、演出やら彼女の表情の見え方などでそうもいかない。この女イラつくなぁ~、ほんとっイラつくわ~。

・・・といった感情の緩和としてシェルターに入れなかった者たちの顛末も、ハッピー且つコミカルに描かれるわけであるが、それが思考実験というテーマに大きな穴をもたらしてもいる。結局何でもあり、ご都合主義という映画ならではのものになってしまっている。生にしろ死にしろ選択における自己正当化・自己満足が罷り通る思考実験。果たしてこれに意味があるのだろうか。生きることに意味を求めるなと言うのではない。思考実験の目的とは条件設定と制御により、このような未来が描けるという可能性を探ることだったはずである。それをこのような形で完結するのはいかがなものかと、疑問を投げかけてみる(まぁ思考実験に関して先生の主観の介入と言う前提があったわけではあるのだが・・・、それに何通りか結末を描いてるからな、良いのか)。

 本気の核戦争後のシミュレーションなどドキュメンタリーでやるわって話なんですよ。繰り返しになるが、これは決して核戦争後にどうやって人間は存続すべきなのかという思考実験がテーマなのでは無く、生きる上での選択においてひたすらに合理主義が罷り通るかと言えばそうではないよね、という問いの投げかけこそがテーマなわけです。そしてそれは男女関係において顕著に現れる。俺の方がかっこいいし、金持ちだし、社会的地位は確実に上だ・・・、なぜ俺を、私を選ばない。わからんぜちくしょう、ってなるお話なわけです(実際はどうだか知りませんが)。

 思考実験であるが故に描ける世界観と問題提起はすばらしいと思う。しかし綺麗ごとでは済まないのだよ、現実は。

2014年12月27日土曜日

ゴーン・ガール(2014) Part1

字幕翻訳:松浦美奈

~信用と偏見~ 
〇はじめに 
 カップル、夫婦など男女で一緒に観ることをオススメします。是非とも、劇場に入る前に見た番いの顔をですね、劇場を出た後とで比較して、どのように見えたかを誰か詳細に教えていただきたいものです。 わ、私は、ひ、独りで観ましたけどね・・・。 

 「インターステラー」と真逆な映画ですかね。愛というテーマでここまでも違うものかと。家族愛と男女愛。愛、皮肉にしか聞こえません。 是非とも「インターステラー」も。

 長くなるので、作品をサスペンス部門とそれ以降という感じで分けて更新させていただく。

〇想起する作品 
「プレッジ」 
「悪の教典」 
「白ゆき姫殺人事件」 

〇こんな話 
 ガールがゴーンするお話。
・・・ゴーンするはおかしいか。

〇騙される心理 
 この作品の予告編はサスペンス部分だけに留められている(もうこれが妙なんですよね)。いったいこの夫婦に何があったのかと。故に妻の失踪事件に関する濃厚なサスペンス映画を期待する方が多くいるかもしれない。しかしこの作品は決してサスペンスに留まる作品ではなく、それ以上に大きいものを示してくる。サスペンス部門が終わったところこそがこの作品のはじまりだ。しかしサスペンス部分にもしっかりと注目していただきたい。  

 妻の失踪事件をメインに話は進んでいく。真相までの描かれ方は、事後から始まる夫(現在)視点と、夫と出会ってから事が起こるまでが綴られた妻の日記(過去)視点だ。この双方の主張で真実を突き詰めていく謎解きはすばらしく、サスペンスとしても十分に通用する。伏線も散りばめられており、宣伝、本編序盤で夫・男性側が加害者であるという仕様で進み、それがあるところから、妻側の狂言ではなかろうかという疑問も湧きあがってくる、といった具合だ。夫婦の関係性がある程度見えたところで失踪事件に関する真相を見抜く人は多いのではなかろうか。しかしある程度いったところで、推理したあなたの想定内(外)であった真相は、あっさりとネタバレされる。そこからがこの作品の真骨頂だ。後々のぐちゃぐちゃ劇に、サスペンス部門がどのように活きてくるのか。 

 失踪事件に関して夫婦の関係を探る中、夫、妻と、それぞれの視点で解き明かされていくことにまず注目する。それぞれに真実があり、両者の真実には矛盾が生じ、どちらかが嘘をついていることになる。そしてそれはいったい、いつ・どこで・どの程度の嘘をついているのかと。さらには事件に関与してくる親族やご近所さん、警察、報道関係者、やじうまが存在する。夫、妻、その他大勢によって作られていく失踪事件をはじめとする真実・真相。そしてその真実と真相が1つではないことを理解しなければならない。当事者である夫婦間(とその周辺人物)、メディアに踊らされる視聴者とでは結末へと辿ってきた道が全く異なる。我々鑑賞者は第三者視点で全てを辿ることになるので、情報の整理が必要であろう。全てが観えるからこそ何とも悶々とした感情で終わるこの作品。悶々とした方々はもうすでにこの映画の雰囲気に囚われている。情報格差により受ける印象の違い、辿りつく真実の違いを肌で感じているのだ。それをいざ言葉で説明しようとすると中々難しいものがあるのだが、この作品はそれを雰囲気として理解させる。 さすがだ。

 この真実を創り出しているのは人間の偏見が大きい。 
「男→女」 「男→男」 「女→女」 「女→男」 
とそれぞれを見る目や価値観というものにはズレがあり、この差によって創り出されてしまう対象のイメージというのを真に受けてしまう。 象徴的なシーンがいくつかある。 
 まずはTV番組内にて行われる女性司会者から男性黒人弁護士への夫に関するインタビュー。これは司会者の「女→男(夫)」の見方、弁護士の「男→男(夫)」の見方が交錯する。妻が失踪した夫をそれぞれどう見るのか。そしてそれぞれ男女の視聴者による男女の見方というのが介入し、真実が偏りだす。年齢、仕事柄という別の要因もあるのだが、性別という根本的なところに、ある対象への意見が偏りをもつことを感じていただきたい。 
 そして最後の妻への聴取で男性多数の中、独り女性刑事として質問をする場面。「女→女(妻)」 「男→女(妻)」という見方が見てとれる。事件への介入の深さというのもあるのだが、血まみれで怯えた(演技をしている)美しい女性を前に、男だとしたら(女だとしたら)どのように見えるのだろうか。どのように感じ、何を思うのだろうか。嘘をついていると判断し、あざとい野郎だと攻撃するのか。擁護し、守ろうとするのか。妻に不利な証拠があろうとも、それを凌駕する偏見や思い込みが存在する。
 日常的にもっと簡潔な例がある。どんなアンケートを行っているかは知らないが、よく雑誌で取り上げられる、女から好かれる男・男から好かれる男・男から好かれる女・女から好かれる女ランキングなるもの。その様相がだいぶ異なることは、周知の事実であろう。つまりはそれだ。
 身近にいないだろうか。男友達の間では気さくで親しみやすいのに、女性には滅法モテない。・・・女性間はどうかわかりませんが。

・信用と偏見 
 男と女による価値観や視点の違いによる偏見。この偏見こそが情報操作、印象操作の根源であることをもう少し紐解いていこう。 

 あなたは情報の見方に対して偏見や差別はないだろうか。少し考えてみてほしい。マスコミの問題が絡んでいるので、今日それが見えやすいTVを題材にしてみよう。 
 情報番組が数ある中、あなたはどの番組にどれほどの信頼を寄せているだろうか。ミヤネ屋なのか、報道ステーションなのか、とくダネなのか。扱っている題材は同じなのに番組によって印象がだいぶ違うことがたまにないだろうか。そしてそれが時とともに変化していく様を身におぼえたことはないだろうか。そしてその番組内においても誰が言っているのかによって信頼度が変わらないだろうか。司会者なのか専門家なのか、ゲストなのか、記者なのかと。 
 他にも何でもいい。情報の速度で比べてみてもどうだろうか。あなたが地震を感じたとする。あなたがあらゆる情報を手に入れられる場合に、あなたは何を先に観るだろうか。TVかネットか、ラジオか。TVやラジオだったらどのチャンネルをまわすのか。ネットはどこか登録してるのか。 

 劇中の様子を少し挙げてみよう。先ほども紹介した番組内のインタビューのシーンである。視聴者1000万人を超える情報番組があった。司会者は女性で、世論の声だとして持論をひたすらに展開し、事件をおもしろおかしく報道する。それに対して専門家である黒人で男の弁護士がインタビューされていた。夫が妻を殺した犯人であり、妻に同情する側で不特定多数1000万人の視聴者が存在する司会者と、夫を擁護するかのような発言をするその分野では多少有名な弁護士。世間はどちらに傾くか一目瞭然であろう。信用や信頼というのは情報の後ろ盾があってこそだ。衣装をきれいに着飾った白人女性とスーツを着た太めの黒人男性。常に番組で目の当たりにする司会者と、ぽっと出の弁護士。視聴者の望む情報を与えるメディアと、事象を的確に批判する(うさんくさい)専門家。この対比をどう捉えるのか。様々なものが絡み合い信用や偏見は生まれている(特には性別っと)。判断の根拠として真実など二の次だ。そこにエイミーはつけこんだ。 

 サスペンス部分で手に入る情報で妻エイミーと夫ダンを少し比較してみよう。手に入る情報によりどのように思考が傾いてしまうのか、感じていただけるとありがたい。 事件当日から現在進行形で展開され、だんだんと明らかになる夫の素情と、夫との出会いから事件までが描かれた過去視点で展開される妻の日記により明らかになる素情。それらを照らし合わせ、我々はどう情報・印象操作されるのか。妻の情報の変化を少し追ってみる。 
1,女性が書いた日記 
2,ライターである女性が書いた日記 
3,夫に不倫されたライターである女性が書いた日記 
4.妊婦で夫に不倫されたライターである女性が書いた日記 
というように変化していくのだが、それぞれで女性に対する信用度が変わってこないだろうか。下線を引いた情報が付加されていくことで、何を強調するかで、女性というところに最終的にかかる信用度が変化する。不思議である。これが偏見である。
「〇〇な女性(男性)は△△の傾向がある」
などという言葉が日常生活において飛び交ってはいないだろうか。
 まだ作品を観ていない方は是非とも、現在進行形で展開され夫の行動により明らかになる真実と、過去に遡りそこから付加されていく妻の情報との比較による、印象の変化を雰囲気でいいので感じながら鑑賞していただきたい。

Part2へ続く・・・はず・・・

ゼロ・グラビティ(2013)

ゼロ・グラビティ[DVD]


~故郷~ 

〇はじめに 
 この作品は安心感と、その安心感をどこに・何に置くのか?というのがテーマ・主軸にあり、それを最後に醸し出す、というか決定的に印象付けるための宇宙空間という演出が見事。 宇宙=自由ではない。宇宙という無限とも言えるような広がりの中の、窮屈・不自由な人間。手が届きそうな(目に見えている)所にありながら何もできないもどかしさ。つまり無限とも言えるような宇宙空間にありながら、人間という最大の束縛が存在する。そんな宇宙と人間の対比があってこそ味わえる安心感。そんな作品。 
 さらには宇宙空間と船内との比較(目に入ってくる情報量の差)。音の強弱・有無。ふと考えさせられるというか猶予が与えられるというか・・・。

・・・でもね、この作品は劇場用というか3D用というか。お家のTV画面で観ますとね、何とも味気ない作品となっております。


〇ジョージ・クルーニーという存在 
 いやらしさを醸し出す顔が見事にコメディ要素を盛り込んでくれ、緊張感を良い具合に緩和してくれる。 
 宇宙遊泳の最高記録に挑みたいという役柄、サンドラ・ブロックの船外作業クローズアップの背景にちょこちょこ映りこんでくる。ぷわぷわと。何やってんだこいつはと。気楽なもんだなと。結果論なのだが、これが無ければ燃料は足りたわけで・・・。後々苦労しなかったわけで・・・。なんという皮肉。
途中サプライズもありますしね・・・。

〇故郷 
 ゼロ・グラビティという邦題に対してであるが、無重力(この映画の映像技術)を意識させようとする意志を感じる。確かにここまでに無重力(というか宇宙)を感じさせる映画は今までには無かった。私は3Dで観ていないにしろ2Dでさえ宇宙という不自由さに見事に浸ることができた。この映画のウリは確かに宇宙空間を体感させるという映像技術にある。しかしこの映画は無重力という体験よりも、我々が今生きている地球という当たり前の環境について考えさせてくれる映画だというのが、この映画を見終えての私の感想である。我々は生きている限りなぜ生きているのかという疑問が付いて回るが、これはなぜ我々が生きていられるのかといったことを考えさせてくれる映画だ。ゼロ・グラビティと聞くと否が応にも無重力を意識してしまい、この映画が単なる映像技術によってのみのものと評価されてしまう気がする。そして単なる無重力体験で終わってしまい、映画としてではなく映像としての評価で終わってしまう。そこが少し残念。 
 我々には地球で生まれ地球で朽ち果てるという現状並びに常識がある。先祖代々それが必然であり、その地球という当たり前の環境に適応・順応し生きてきた。そんな中での非日常0G(すなわち宇宙)での極限下に陥った時に人は何を思い何を感じるのか? 何よりも欲しいものは自分が立っている位置(居場所)を知るということだと思う。自分が今どこに存在しえているのか? それは立場的なもの(人と人との関係性・輪)もあるのかもしれないが、この場合は単純なる立ち位置。自分という存在が確認できる場所であり、自分はここにいるという実感。それは重力によってもたらされる安心感によって確かなものとなる。 
 サンドラ・ブロックの宇宙遊泳(宇宙漂流)を終えてのステーション内での胎児の画、からの最後地球に降り立ってからの何とかの直立(二足歩行?)。そしてGRAVITYドン。繋がっている。最後は自分という存在を実感、そして存在が確立した瞬間だった。地球に降り立ってからの救助隊は描かれない。描いていたらグラビティという原題が台無しだった。我々は重力に縛られつつも、その重力によって生かされている。宇宙(0G)と地球(1G)との比較による我々の故郷とはどこにあるのかという問い。同じ人間にあらず、重力、つまり地球にある。 

〇最後に
 引力によってそれぞれの人間は引き合っているというのもありますしね。どこに故郷があるのかというのは一概には言えないのだが、宇宙と地球とで比べてみたらというと、そりゃ地球でしょと。生まれた星でしょとなるわけで。誤解のありませぬよう。

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...