2015年2月14日土曜日

YES/NO イエス・ノー(2012)

YES/NO[DVD]


~とある宗教の洗脳テクニック概略(実験と名指された)~ 

〇こんな話 
 TRUE LOVEというキーワードのもと行われる実験で、閉鎖的空間に閉じ込められた男女(夫婦)がそのキーワードである真実の愛に近づいていくさまを描いた映画。 
*TRUE LOVE は 愛こそ真実と訳されている。 

〇真実の愛へ 
 表向きは仲のいい夫婦でも、裏はいろいろドロドロしていまして、そんな中その夫婦はそれでも相手を信じられるのか・愛せるのかとひたすら問われる実験に巻き込まれるわけです。 この実験は二人の全容を知る何者かがいて、二人に対して断片的な確実に疑心暗鬼に陥る映像を見せては、これでもかこれでもかという具合に質問していきます。で、最終的に二人は互いに全てを理解し、受け入れ真実の愛にたどり着いたと・・・。はぁ?
 ぶっちゃけ、訳分かりません。こんなのただの洗脳です。この先二人に待ってるのは信頼でも信用でも真実の愛でもありません。ただの信仰心です。こうやって人は何かに縋りたくなるのです。 状況的には執拗な取り調べと同じです(映画の知識ですが・・・)。閉鎖的空間、絶対に受け入れられない供述、威圧的な刑事。無傷で脱出は不可能とわかれば、唯一の希望に縋って最小限のリスクでの選択をするでしょう。いくらでも抜け穴はあるわけです。この二人はなぜか真実の愛を掴み取ることだけが脱出の鍵であると思っていたようですが・・・。そんなところに何が真実の愛ですか。

 人間は言語が発達したために100%の相互理解は不可能となりました。なぜなら他人の感情の度合いがわからないからです。それを表現するのが言葉ですが、自分の思考と言葉での表現とでは誤差が生じます。感情と言葉が100%一致することはないからです。さらにその表現の受け手によっても誤差が生じます。同じ表現でたくさんの意味や度合いを表現するからです。それらを補おうと表情や身振り手振り等使いますが、やはり限界があります。でもそれがいいのだと私は思うのです。完全相互理解とはおそらくシンクロ状態に陥ることです。仮に今日みられているものがあるとして、それは今まで過ごしてきた経験によりある程度先読みする程度のものだと思っています。しかし、シンクロ状態が完全なものになったとしたら・・・どこまでが相手でどこまでが自分なのか? 究極それは個性がなくなります。
‐‐‐ここから話が飛躍‐‐‐ 
 進化の果てにひとつの完全なる意思のもと人類(と呼べるものかはわからない)が存在することになる、可能性すらあるのです。そうなれば区別の基準が統計学的なものではなく、その崇拝されるべくひとつの意思となります。お互いに関心・無関心とか言ってる場合ではなくなります。

 仮に100%の相互理解が可能としてお互いにその人の全てを知ったらその先に何がありますか。次に知りたい(欲しい)ものが必ず出てくるでしょうが。人間は欲の塊です。完全理解したものなどにもう興味は示しません。底が知れるということは飽きがきたと同じことなのです。常に新たな発見を求める。それが知です。ということは完全相互理解したカップルに待つのは破局のみです。 お互い秘密があるから不足しているものがあるから、それを知ろうと補おうとコミュニケーションをとるのです。その溝を埋めあう(理解し合おうとする)行為こそが愛(につながる)だと私は思うのです。そしてそれは確実にゴールがない。あきらめるのか、あきらめず追求し続けるのかの違いがそこにあるだけです。

〇最後に
 結婚とは元来、分離されていた二者の再統一であり、その二者一体の関係に置いてエゴを犠牲にするための試練である、とある本で読んだ。この作品はそれを表現したかったのかもしれない。

くちびるに歌を(2015)



~心・技・体~ 

〇はじめに 
 試写会にて鑑賞。

 この作品は作品自体の物語だけでなく、鑑賞者各々の過去にあった何かしらの思い出補正があってはじめて完成する。最後会場内にて拍手が沸き起こったことでそれを確信した。鑑賞者のほとんどが1つの映画として鑑賞していたのではなく、この作品の中に自分を見出し、自分の過去を想い起こし、準えていたのだ(人間ドラマというのはそういうもんだ、んだんだ)。思春期やら反抗期やらに詰まった青春を謳歌できる時代特有の記憶の名残りを。これは邦画の長所であり短所である。日本独自のお国柄、文化、人柄を交えることで、精神的な部分の表現を特化させ、我々が身近に感じる、感じてきた場の雰囲気を作ってしまう。それにより多くの共感や感動を呼び起こす。しかしそれに頼るがあまり、限界点や問題点も明らかになることとなる。おそらく劇中釈然としないそんな思いを持つ方々が少なからずいたことだと思う。そんな方々はこの作品を安っし~ドラマだ、茶番だ、などとしか評価できないことだろう。

〇想起する作品
 「TARI TARI」(2012)

〇こんな話
 歌ったり、泣いたり、笑ったり、するお話。


〇心・技・体
 汽笛の伏線は読めんかった。最後の最後で不意を突かれた。やられた感があった。 絶対に関係を持っていないであろう両者をつなげるのは見事だった。なぜお兄ちゃんが上機嫌の時に汽笛の真似をするのか。桑原君が行方不明のお兄ちゃんを探しに教会へ来たのはなぜか。探しに行った教会にナズナがいたのはなぜなのか。そんなこんなが繋がって、最後の最後の大合唱は聴き入ってしまったくらいだ。しかしだ、ここをうまいと思う反面、前向きだか前へ進むだかを意味し、彼らを勇気づけていた汽笛というキーワードが際立ってしまう分、他のところで腑に落ちない点が出てくる。

 15歳という年頃、特有の精神的な闇。これの解消や解決に向けて動き出そうと決意する部分がスタート地点である。そのきっかけ(精神的作用)として大きなものが汽笛であったことをまず理解いただく。
 次に彼らの合唱部と言う活動内容や姿勢である。全国大会へ行くことを目標に掲げる部員たちに対し、臨時教員ことガッキーが「あなたたちのレベルでは無理だ」と烙印を押す。さらに、合唱部は文化部という偏見の根強さに対し、それを腹筋や、空気椅子?、さらには走り込みなどで運動部に負けず劣らずの体育会系であることも演出している。
 これらにより何が意識されてしまうのか。スポ根ドラマが頭をよぎるのである。そこで私の中に勝手に沸き起こる「心・技・体」という言葉。この3つが揃ってこそのスポーツ競技。はてさてこの作品において「心・技・体」はどのようなバランスを保っていたのだろうか・・・
・・・「心>>>技・体」
なのである。
 何が言いたいのかというと、この作品は心の部分が際立ち過ぎてしまっているということだ。確かに精神的成長や変化を描くことが人間ドラマだ。ドラマとはそういうものであることは重々承知している。しかしスポ根がよぎってしまう私にはしっくり来ないのである。技・体の部分の成長があまり観られないからである。合唱部ということもあり、実力というものが目に見えにくく、対比する勢力が描かれない、描きにくいというのは致し方ない。コンクールまでをパート別の練習に費やし、本番になって皆揃った合唱が行われることで、1つになっていく過程と観ればそれでいいのかもしれない。最後の最後で1つになる。そしてさらにその先の段階があったと。
 しかし「心・技・体」というキーワードを勝手に設定し、このドラマを鑑賞すると、心が際立つことで一つ大きな問題が出てくるのである。各々どこで植え付けられたかは知らないが、精神論や根性論を強く持ち出してくる教育界の闇、その世界特有の差別や偏見が顔を出してきてしまうのだ。努力は必ず報われる、努力した者こそが勝利者だという洗脳じみた指導。そして結果云々に、結果が出なくともそれまでの過程こそに意味があったのだ、などという慰み合い。これを精神論・根性論で結びつけてしまう強引さ。その思考が良いか悪いかはわからないが、この論理を胡散臭いと思う方は多くいることだろう。そしてそれがチラつくと・・・。
 そしてもう1つわかったことがある。はじめに書いた、この作品が思い出補正によって完成・完結していることだ。おそらくこれが、心の部分が際立ってしまう原因である。邦画故の雰囲気なのであろう。我々(というより私自身か)が勝手に共感し、何かをこの作品に求めてしまう。そんな心情が感動を呼びつつ、ひねくれた見え方をもしてしまう。

 まぁ全国への切符は逃すし、ガッキーが烙印を押す様子も彼女の心を溶かす上で必要なキャラ設定であるわけで、(勝手に持ち出している)スポ根要素は十分に解消されはするのであるが・・・

 遊び半分であった男子たちが率先して練習するようになったり、アドバイスを求めるようになったりと、心の変化とともに行動の変化は確かに見られた。これを、これこそをもっと見たかったのである。何かを決心することは誰にでもできる。その何かのために行動に移すことが難しいのである。そしてそれを継続することがさらに難しくあるのである。しかし劇中における時間の配分が、迷いから決心に移る期間より、決心から結果の期間の方が短く感じられてしまうのだ。体感の時間として、負の面は正の面より長く感じるものではある。しかし努力の部分が省かれ、精神的な面の際立ちを感じてしまうと、根性でどうにかなるという胡散臭い思考に対し、さらに無責任さが付け加わり、尚のこと胡散臭く受け止めてしまう自分がいるのである。面倒くさい性格だ・・・。

・・・精神に関する病が深刻化してきている現代においては、この感覚くらいがちょうどいいのかもしれない。勇気づけられもするでしょうし。

 この作品をひたすらにひねくれた見方でまとめると、古き良くも悪くもある学校教育における偏見や差別を、大人になったであろう者たちに受け入れられやすく、良い部分だけを想い起こさせるお話、ということになる。 どんな境遇にあろうと、様々な出会いや自らの決心により、前向きに立ち向かい、立ち直ることができた者にのみ許された境地。そんな場所があるよと努力を強いる、教育界にありがちな精神操作。それは我々に何をもたらしたのか。この作品に単純に感動するだけでなく、今一度考えてみてほしい。そんな考えが起きないほどに、教育における洗脳は功を奏しているか。正直に言う。最後の会場全体での拍手にはおどろいた。嘘だろ・・・と。ここまで闇は深いのか・・・私の

〇余談 
 演者の表情やビジュアルに相当気を使ったのではなかろうか。デコ見せ、ツインテール、ショートカット、ぱっつん前髪などなど。それ故に不純な動機でこの映画を楽しむ方法もある。
 私は長谷川コトミ役の山口まゆさんに惚れた。笑顔がとても素敵です。目立たずひっそりと学校生活を送ってきて友達のいなかったであろう桑原君に対して笑顔で声を掛ける女の子です。さらには声綺麗だもんねと・・・惚れてまうやろ~。まずなんで俺(大丈夫、お前じゃないよ)の名前知ってんねんと。あんまり接点無かったのに、声のことまで。私が15歳だったら勘違いを起こしているところです。あぶない、あぶない。
・・・あなたは誰がタイプですか??

〇最後に 
 この作品は焦点を当てられた人物全てに共感・感動できるようには作られていない気がする。女教師、女子生徒、男子生徒と三者が主になるわけであるが、私は特に男子生徒に関する部分にのみひたすらに涙した。見る者の年齢や性別、性格や経験値といったものが関係しているのだろう。どれかに共感・感動できればこの作品は高評価になることはおそらく間違いない。最後それぞれに気を使いながら歌に乗せて思い出を想起させてくれるからだ。しかしそれで煙に巻かれてはならない、邦画ならではのドラマの限界点や問題点も私の中で勝手に明らかになった。これに懲りずまた邦画を鑑賞してみることとする。

2015年2月11日水曜日

ジョーカー・ゲーム(2015)



~D?器官~ 

〇はじめに 
 この監督・・・いや脚本家か、はおそらく根底から何かを勘違いしている。「MONSTERZ」もひどかったぜ、おいおい・・・と。 

 劇場を出て「よくわからなかった」と話している人がいた。この映画はわかるもわからないも、映画の中で全てドヤ顔で解説してしまっている。余韻や考える要素を全て排除してしまっているのだ。だからこそわからないと観客に言わせてしまうのではないか。そして作品の内容がわからないのではなない。おそらくこの映画の何がわからないのかをわかっていない。 

〇こんな話
 情に厚い男が、助けたり、助けられたりするお話。


〇要素(文句)
・能力の提示 
 情に厚い演出は良い。主人公としての制限性をうまく際立たせている(とは言うものの基本的にどんな主人公も言わずもがな情に厚いよねと・・・それを言ったら・・・)。同じ部隊所属(日本人か)であれば他人ですら助けようとするといった演出だ。そしてそれがD機関という演出を活かせもしたのでありだろう。
 しかしだ、ここからがいただけない。D機関に入ったは良いが、他のキャラが立っていないにも関わらず、亀梨和也を引き立たせようとする。これには無理がある。無理と言うのは、亀梨和也ありきになっていると言った方が良いのだろうか。最初の彼の能力の提示が瞬間的な状況認識であったことも弱くはあるのだが、これから対立するであろう他国の敵を前に、彼の能力がどこまでのレベルにあるのかという設定を、まず国内で比較し演出すべきなのだが、訓練において一切してくれないのでキャラをそれぞれ把握できないのである。そんな能力全員持ってるぜと他のキャラのレベルの基準や指標を見せて、訓練で駆け上がっていくぐらいできたはずだ。1つとして、演出の順番を変えるべきではなかったのか。最初にポーカーをするべきだったのではと。自分(軍人)以外全員一般人という台詞があるにはあった。しかしそれをポーカーでの談合でわざわざもう一回演出する必要性があったのかと。ポーカーで一人軍人であることと談合とで一気に意識付けさせればもっとしっくりきたのではないか。一回一気にどん底まで落としておけば、もう駆け上がるだけで、亀梨君を見事なまでのダークホースに仕立て上げられたではないかと。そして技術訓練でオールマイティな亀梨と、彼のそれぞれの能力を上回る特化型の仲間たちを比較させておけば、シリーズ化させていく上で必要となってくる仲間たちの演出も活きてきたのではないだろうか。ひたすらにもったいない。

 潜入する上での毎回変わるであろう与えられる身分(キャラクター設定)。シリーズ化するならばこれが活かされてくるのだろう。故にここをもっとサラっと観せられなかったものか。主人公が「もう覚えました」みたいに台詞で言ってしまうんですよ。ここを口調や口ぶりを変えるとかね。キャラにすでに成り切るとか、決め台詞を作って後々活用していくとかもできたわけじゃないですか。
 チェスに口を出すシーンもですよ。「失礼」と言って自らが指すのではなく、打とうとしている人物に対して、動かす場所を提示するような横槍を入れることもできたわけですよ。まぁでも紳士で通すなら、こちらは無しかな・・・。
 この辺の演出がもっと楽しめるものであれば、続編はどんな設定になるのだろうと、勝手に展望できたではないですか。

 主人公の服の色を白ベースで、深田恭子をメイド服で白と黒であつらえる。この対比も安直だよな~。

・二重スパイ 
 スパイ合戦における情報戦は一番に重要な要素である。如何に相手を騙し、鑑賞者の目を欺くのかというのが見どころではないのか。製作者と我々鑑賞者との情報戦と言うべきか。そして感心、納得させてしまう主人公の能力。それがあってはじめてスパイ映画と成り得る。そんなシーンがこの作品には皆無なのである。最後の最後で明かされる二重スパイの一人。これも甘いったら甘い。なぜタネを事前に全て見せていながら、最後の最後のネタバレでドヤ顔できるのか。頭大丈夫か? 
 二重スパイという要素を最初からちらつかせすぎなんだよ。鑑賞者の頭から一番に排除すべき要素ではないか。D機関から陸軍へ裏切りを見せる人物の存在。その場面でなぜ盗聴器を見せてしまう。そしてこの人物の設定である。母親どうのこうのと。この設定を主人公が英国諜報部へ二重スパイになると持ちかけるシーンで使ってしまうのがまた残念なのである。咄嗟に思いつくようなありふれた設定だということを、知らせてしまっているようなものではないか。そして敵国の二重スパイに助けられるシーンもそうだ。暗号によるやり取りや、Dの文字の意味。これを直後にドヤ顔解説。オチに向けてどんなトリックが待ち受けているのかと期待する反面、まさかまさかとこっちがひやひやしましたよ。そして案の定・・・と。

・隠し場所
 金庫が隠し場所ではなかった、からのチェス盤、そして駒へと考えが移行するまではなかなかに緊張感があった。しかし最後の最後でブラックノートを隠したチェスの駒が騎士だったというのは、その強奪戦においてその駒が部屋を駆け回るからという理由だけだったのですか・・・??
何かもっと欲しかったな~。

・セクシー要素 (完全なる下心)
 深田恭子の衣装において胸を強調しているにも関わらず、なぜ戦闘シーンや拷問シーンでそれを強調しないのか。亀梨君が彼女を拘束するシーンでは服を剥ぐぐらいしても良かったのではないか。剥いだ服で腕を拘束してしまうとか。そして鞭打ちのシーンだ。誰もが「ルパン三世 トワイライトジェミニの秘密」を期待したことだろう(私だけか)。後ろからじゃなくて前から打つんだよ! ルパンいくらか意識してただろうがよ!!  痛みでダメなら恥辱だろうがよ!!! 太ったおっさんに襲われるの嫌がってる演出は何だったのか・・・。
例えばですよ、
服を剥いで亀梨君に 「わ~お、これぞD器官」 と言わせるとか、
鞭打って服を剥いでくる敵が 「こ、これがD器官なのか・・・想像以上だぜぇ じゅるる」 とか、
最後亀梨君が深田恭子をD機関に勧誘なりしてさ、
「私はDじゃ収まらないわ♡」
とかとかを挿入しても良かったんでねえのけぇ。
・・・そもそもの問題はだ。やはりDなのかどうかだ。


〇最後に 
 全体的に不必要な手が多い気がするんですよね。最善の一手を打っていない。チェスで有能というアピールをしたにも関わらず、戦術・戦略的な面で今一つな演出の数々。計画的であったであろう作戦を補うのを彼の運ではなく、敵対する者の何かしらの行動にしなかったのはなぜなのか。お前がそう行動するのも想定の範囲内さと。そうすれば完全に相手を上回ったことが印象付けられたではないか。
・・・否定的な意見ばかりを並べてしまったので、最後にひとつ良かったところを挙げるのであれば、「死ぬな、殺すな」という主人公側に制限性をもたらしたところだろうか。これと併せてわざわざ情に厚いと念を押す意味がわからなかったが。どちらかはいらなかったかなと。
 亀梨君はかっこよかったし、深田恭子はかわいかった(できればもっと露出を・・・)。そこには満足している。

2015年2月8日日曜日

デッドハング(2014)

デッド・ハング[DVD]


~意義~ 

〇はじめに 
 閉ざされた空間の中に、女性と悪者二人組(ないし以上)という構図はありがちというか王道ですかね。二人組というのも、一人は強硬派で、一人は穏健派という対照的な人物構成。仲間割れ必至と。 

〇こんな話 
 お金のために仕事をしているんじゃない。

〇仕事 
 彼女は彼氏に「人生のために今の仕事が必要だ」と言っており、奨学金返済やローンの問題はあれど、自分の仕事に何か意義を感じているようだった。彼氏も彼女は「仕事を一番に愛している」とまで言っている。そんな中明らかになる、勤めている会社の不正。正義、大義のためか真実を明らかにするべく、内部告発をしようとするものの、命を狙われることになってしまう。そして悪に正々堂々と立ち向かい勝利する。 
 彼女と対比すべく警備員の男がいる。家族がおり、手当てがつくと休日も仕事をすることになる。彼は家族を養うために、お金のために働いている。そして何も知ることなく序盤に殺されることになる。 
 さらにもう一人。エレベーター会社の男。自らの仕事を堅実で安定な仕事と称しており、将来の見通しがすでに立っている。家族がおり、今の生活にも満足している。他に何を望むこともない。皆、物・金・権力を望みすぎていると言う。目が利き、正義側につくものの、肝心なところ(最終的局面)は関与しないが生き残る。 

 それぞれの人物の雇用形態はわからないが、日本に当てはめてみるならば、ある企業の正規雇用非正規雇用、そして公務員といったところだろう。ここにさらに社会における女性差別的な問題も入れているわけか(多分)。 

スペックと末路を少しまとめてみる。 
・主人公 
 性別 :女  
 番い :彼氏あり  
 雇用形態 :正規雇用 
 仕事 :お金のためと言いつつも、意義を感じている 
 末路 :悪に真っ向から受けて立ち勝利する  
・警備員 
 性別 :男  
 番い :妻子あり  
 雇用形態 :非正規雇用 
 仕事 :家族のため お金のため 
 末路 :何も知らずに死亡 
・エレベーター修理屋 
 性別 :男  
 番い :妻子あり  
 雇用形態 :公務員 
 仕事 :お金、物、権力は必要な分だけあればいい、もう手に入れた 
 末路 :正義(主人公)側につき、肝心な時にいないがなんだかんだ得をする  

 皮肉っぽくまとめていると感じられるかもしれませんが、劇中で起きる真実がこれです。いったい何を言いたいのでしょうか。 

 最後も悪に奔ることをすれば出世街道まっしぐらで、彼女は社会的地位を極限までに高めることができたのに、それをせず正義をひたすらに貫く。裏街道でしか女は地位を確立できないだろうという男性の皮肉や偏見に対しての抗議だったのではないでしょうか。

〇最後に 
 お金のために仕事をするんじゃない・・・、というようなことを誰かが言っていました。しかしそれはお金を十二分に持っているから言える戯言です。お金を持っている人が言えば何かかっこよく聴こえますが、無い者が言えば負け犬の遠吠えとしか思わないでしょう?? 勘違いには気をつけましょう。

2015年2月7日土曜日

シャーク・ナイト(2011)

シャーク・ナイト[DVD]


~需要と供給~ 

〇こんな話 
 たくさんのサメにたくさん噛まれるお話。 

〇需要と供給 
 犯人の一人が、過激なドキュメンタリー番組や、いくつかの映画作品を持ち出して、自分たちの行動の正当性を述べていたシーンが何とも印象的だ。
 実際の死体を映し出した「ジャンク」という映画は各国で上映禁止になったが、今ではネットで誰でも視聴可能だと。需要があるからこそ出回るのであって、我々も需要があるから人がサメに喰われる様を撮影していると。そして撮影用のカメラは映画「皇帝ペンギン」で使用されていたものと同じものを使っていると。自然というリアルを体感するのによちよち歩くペンギンであれば肯定され、人間がサメに喰われる様では否定されるのはおかしいと。そこに悪意があって為されているか否かの違いはあれど、需要があるから、求めている者がいるからこそ彼らはこの作品を製作、供給している。やってることは商業的に見ればそれらの番組や作品と同じなわけだ。需要と供給(商売)に関して善悪という概念は関係ない。真実の報道を心掛けるとか言ってる連中も結局は営利目的で、さんざん残酷なことをやっている。そんなことを考えると、食人サメ作品を作っていた彼らの言い分はわからなくもない。 
 何と言おうと結局は金が目当てであったわけだが。あと憂さ晴らしか。良い商売だな。ストレス解消が金儲けか・・・な~んて。

〇最後に
 エンドロール後に演者たちのファンキーな一面を、ラップ??により観ることができる。歌われる内容から実話が基になってるのかなとも感じるが、シャーク映画ならぬジョーク映画・・・といった感じなのだろう。楽しまれたし。

2015年2月4日水曜日

楽園追放 -Expelled from Paradise-(2014)

楽園追放[DVD]


~変化~ 

注、この作品好きですよ!! 萌え作品としてね。 

〇はじめに 
 この作品を鑑賞した後に立ち込める決して晴れることがないであろう濃霧はなんだ。エンディングを聴いている時に感動とは程遠い感情に、泣きそうにまでなってしまった。これがこの作品の、このジャンルの限界なのであろうかと。
 比較対象として持ち出すのならば、同じような背景の作品で「インターステラー」というのがある。あちらは愛と言う現象で人類というところを定義しようとした。それがこちらは現代社会批判はわかるのだが、その根本が結局は個人のエゴイズムに留まる。そして敵対する者がひたすらにエスノセントリズムと。その辺に何か規模というか、限界を感じてしまう。いや、人類と言う存在を描く上で、そのちっぽけなエゴという現象をがむしろ重要なのか・・・。  

〇想起する作品 
「リベリオン」(2002) 
「アイランド」(2005) 
「デイブレイカー」(2009) 
「インターステラー」(2014) 

〇こんな話
 主人公アンジェラ・バルザックを堪能するお話。

〇高尚 
 肉体を持つ人間のデメリットをひたすらに排除したディーヴァという電脳世界の住人達。彼らはいったいどこへ向かおうとしているのか。
 主人公たちがディーヴァの盲点をつく演出が、彼らの問題や欠点を露呈化・簡易化させる意味で活きてくる。ハッキングではなく、クラッキングという言葉を使ってるのも、ディーヴァのお上たちのフロンティアセッターに対する姿勢の意思表示であったのであろう。自分たちに反する者、危険となる者をどのように扱うのか。そら即排除ですは・・・と。 
 進化する上で、デメリット・弱点となるものを排除していくことは理に適っている。しかしそれは究極比較対象の消失を意味する。意思が統一されてしまうのだ。1つの絶対的意思の存在。それが正義となり、他が全て悪となる。その前兆が主人公には現れていた。常にオンラインで身体を制御され判断を仰ぐ。わからないことは全てデータと照合する・・・これは普通か。常に答えを提示してくれるからとそちらを信用し、任務として行動に移す。これにより対象何かしらを比較することにより答えを導き出すといった個人での判断がし難くなっている。統一されつつある絶対的意思の下の行動。これは異なる意思を排除するという思考にしかならなくなる危険性があり、且つその思考を増幅させていく。主人公はその意思を放れることで、変化の兆しを見せていく。これがこの作品の一番の見どころである。
 そんな存在と主人公側の比較を終盤でアクションによるスピード感や音響で観せてしまうのはさすがであった。骨で感じさせると言った方が良いか。日本のアニメ界であればこそだろう。


 楽園という表現からの1つの宗教に固執しないように、お上たちを様々な宗教の神を模した像で、そして3という奇数で示したのは良かったのであろう。民主主義における多数決要素だったり・・・??
 しかしそこをね、意見は大きさや数ではないということをもっと示してほしかったというのがある。ヒンドゥー教において世界を構築しているのが亀だか蛇だか象だかで、それぞれを意思を持つ者として描き、それに対抗する意思がたった一体のキリスト像とかにしてね。仁王像も阿吽で二体にするとかね。
・・・まぁおそらく統一されつつある意思、というのを匂わせたかったのだろうと思われる。

〇変化 
 最初にグラマラスな美女を十二分に描き出すことで、その世界観に惹きつけるのはさすがであろう。これぞ萌え文化だと言わんばかりだ。しかしその目を見張るビジュアルを、肝心の物語の演出として活かさないのが難点である。人間とプログラムの対比をする上で、もっとビジュアルでそれぞれの変化を描くべきであっただろう。そこが何とも気に入らない。

 楽園からの者で衣装が際どくエロ要素を追求しており、清純とは程遠いにも関わらず、白という色一色で固定する意味がわからない。彼女の楽園追放からでも色を変化させても良かったのではないか(拘束中は黒かったっけ??)。彼女の何かしらの意思を貫き通すと言う、何色にも染まらないという意志表示だったのだろうか。でもそれはテーマと違くないかと。変化しない偏屈な思想はディーヴァだけで良かったはずだ。割り切る、理解するという他者に歩み寄るというのがディーヴァと対比される人間の特権だったはずだ。それをなぜ視覚的にわかりやすく観せない。終盤CGからよりアニメ画に移行したのであろうか、(まつ毛を濃くし?)活き活きとした表情が描かれるようになった。でも彼女は勝気で頑固で男勝りでツンデレ設定であったであろう。そんな変化は百も承知だ。人間の変化が表情で捉えられる(見分けられやすい)というのは周知の事実であろう。しかしこれはCG映画だ。何分捉えにくい。そんな微弱な変化に留まるのは演出として物足りないだろう。逆にCG映画ならではで、もっと派手に観せるべきだったのではと。せっかく色んなことができただろうに・・・。ディンゴがオンライン捜査網に対して、目と耳と鼻でどうのと言うではないですか。視覚的にね・・・もっとこう・・・。骨でも特に何も感じなかったし・・・。
 彼女の変化もそうだが、最後のフロンティアセッターのハミングだか鼻歌だかのシーンを強調したかったのかもしれない。しかし彼女も人間とプログラムの対比において重要な役割を担っているのには変わりない。人間を模ったプログラムと、明らかにロボット型のAIの対比。人間とロボットとを比較した際に良い指標となる両者の変化をもっと印象付けることはできなかったものか。彼女をひたすらにビジュアルで観せてくるにも関わらず、最後まで視覚的に一辺倒。最後のディンゴとの談笑シーンはまぁ良かった。でもそこにね、もう一工夫できたのではと。楽園追放というタイトルからも劇中の台詞からもアダムとイヴを模してのことでしょ。男女一対で恋に堕ちるであろう二人の中にもっと恥じらいがあっても良かったのではと思えてならない。ディンゴの言動に頬を赤らめる場面があるにはあった。そこをさらに利用してね、いつまでもハイレグではなくてですね、スカートやらズボンを履くとかですね、上着を羽織ってもよかったわけです。単純に服の色を変えるだけでも。そうすれば彼女の心境というか人間の本質的、根源的なところの変化がより際立ったのではなかろうかと。
・・・まぁでも彼女を地球に引きとめるきっかけとして、荒廃した地球が緑に見えるという、あきらめていた、捨てたはずのものに対して何か希望を見出す演出があったから、変化としては恋愛要素だけに留まらずそれでも十分かな~とも思えてくるわけで。でも何か物足りないんだよな~・・・。

 例えばだ、衣装の変化で観せるとしよう。荒廃した地球。一面砂や岩だらけ。太陽光線を直に浴びる世界。人の視線もより通りやすいであろう世界でハイレグ姿の彼女。それが人目を気にするような、恥ずかしがるような演出を入れても良かったのではないか(体調崩してラーメンだかを食ってる時は上着羽織ってたか・・・) 。明らかに地上の民とは異なることをビジュアルで示しているのだから。全身ラバースーツにするとか。肌見せすぎでしょ。これじゃ紫外線にやられてまうわ。あ、褐色少女でも良かったのか。
 欲を言えば、砂埃の舞う(高温?の)世界において何が人の娯楽として存在しているのか。お風呂や水浴びではないのか(まぁ最初ビーチの画だしな・・・娯楽云々どうこうと彼女の口からも語られるしな)。お色気要素さらに加えられたではないか。衣装替えのチャンスとしても使えただろうし。まぁ、よりジャンルはコアになったであろうが。
 さらに欲を言えばもっと器を華奢な身体にすべきだった。最初のグラマラスなボディとのギャップが足りない。16歳相当の身体という設定でロリ要素を持ち込むのはわかる。しかし乳に重点を置き過ぎだ。華奢な容姿にし、その解消として乳ではなくお尻に目を向けさせるべきだった。折角わざわざ後ろからの視点を取り入れてるのにお尻が際立たない(際立っているかもしれないが、私の欲望を満たさない)。歩く姿を後ろから映す時だけでもいい。お尻の揺れやらしわよりを表現できなかったものか。いつぞやの沢尻エリカ様とか材料はいっぱいあったでしょうに・・・。若い張りのあるお尻は揺れないのですかね~。 

・・・といった具合に、主人公アンジェラ・バルザックをよく観察してしまった自分は、製作者の掌の上でしかないわけか。ありがとうございます!!

〇余談 
 天童なびき以来久しぶりに高山みなみさんの女性キャラの声を聴き、その部分はひたすらに萌えた。もっと聴きたかった~。

〇最後に 
 さぁ~てと、「楽園追放」のソフト買ってこよう~っと。

2015年2月3日火曜日

ブロークン(2012)

ブロークン[DVD]


~他人事~ 

〇はじめに 
 世の中とは理不尽だ。男と女、大人と子供・・・etcという区別が様々な偏見や差別を生んでいる。それを受け入れ、屈することこそが世間では大人になることだとぬかす。ふざけるな。まぁ、いろいろ事情が絡んでくるわけですけれどもね・・・。 

〇想起する作品 
「パンズ・ラビリンス」(2006)  
「偽りなき者」(2012) 

〇こんな話 
 糖尿病である少女の家族と関係者、青年リックの家族、キチガイ家族、の三者の関係性で浮き彫りになる世の中の真実とは一体。 
 愛という大きな括りの中に存在する様々な諸問題。生と死、家族、男と女、大人と子供、・・・子どもの性、いじめ・・・。あなたにはどれだけのものが見えているのだろうか。 そして主人公の少女の疑問を通してひたすらに投げかけられる問いに、あなたは答えられるだろうか。

 そこまで大きな問題ではないかもしれないが、様々な問題が身近に内包している様を決して他人事ではないとこの作品は映し出す。糖尿病の主人公は、健康体で未成年であるのにタバコを吸う兄弟に疑問を投げかける。彼らの遊び場はスクラップ置き場であり、背景に度々映し出されるそこでは常にユンボが作業をしている。日常生活の中に「なぜ?」という疑問が数多く転がっており、身近に危険が潜んでいる。そんな演出が数多く散りばめられている。

〇他人事 
 作品の流れとして、まず誰かしらの視点で、何かしらの出来事が描写される。第三者(傍観者)、被害者等による結果の部分、そして「なぜ?」という(主に主人公の)疑問が湧く部分だ。それの後追いとして、当事者、関係者ならびに加害者側の原因(動機)となる部分が映し出され、その出来事に意味が付加される。

 ある個人における他人事情の不鮮明・不透明(無関与、無関心?)さを見事に表現している。冒頭は青年が男に殴られるシーンを少女が目撃するというものだった。この場面を少し考えてみる。まず少女視点で描かれるわけだが、突然青年が近所の男に殴られた、という事実が映し出される。本当に突然である。何の前触れもなく、少女にとっては今まで話していた青年が、いきなりやってきた男に殴られるのである。男の情報は近所の者であるということくらいだ。頭に「なぜ??」が浮かぶことだろう。少女と青年の二人の視点からでは殴られる原因はまるでわからない。決して見えてこないのである。そしてある男の視点へと映る。青年を殴る動機を持っている、怒りの原因を唯一理解している男だ。共感できるか否かは別として、彼には彼なりの動機があったのだ。そして彼らのその後が描かれていくことで、この出来事は決して青年と男の間だけの問題ではなく、その者たちを取り巻く人間と環境が関係していた、ということが明らかになっていく。
 描写の順序としては、
1, 青年が男に殴られた = 結果及び「なぜ?」の部分
2, 男には青年を殴る動機があった = 理由となる部分
(実際のところ、青年には男に殴られる理由は無かった)
3, 彼らを取り巻く者たちの関係性が暴かれていく ← これが意味の付加となる

 こんな経験がありませんか。ある時ふと気付くと、こちらを何やら伺いながら、笑って会話をしている集団がいる。こちらには決してその内容はわからない。例え自分のことがネタにされていようともだ。知らないところで何かが始まっており、そして終わっている。
それぞれの視点で観るからこそ、筋が通り、意味が見出せる人と人との関係性や方向性。しかし、実際は映画のように全てが見えるわけではない。他人の会話を目撃し、こちらを見て笑っていたら、こちら側の利益になるような会話が為されていると判断するだろうか。何か悪口めいたことを言われ、笑われているのでは?と勘繰りはしないだろうか。気にしなければ何のことはない。しかし気になりだすと止まらない。そして勝手にイラついている。結局はどちらだったのかというのはわからない。決して見えてこない部分があるからだ。それが常である。そもそもこちらの事など話題にすらなっていないかもしれない。たまたま笑ったところで目が合っただけなのかも。
 人の行動には何かしらの理由があり、誰かしらに向いている。しかし自分という器だけではそれが見えてこない。だからこそ人と人の間には誤解が生まれ、起こるはずのない、起こるべきではない事が起きてしまう。さらには共感できるかどうかというのが、その者の行動に意味を見出す、要は相手を理解する上での障害になっている。

〇余談 
 それぞれに何かしらの事情があるにしろ、ある一家だけことごとく不幸になってほしくある作品である。しかし、痛い目に遭ってほしいと思っていた反面、そんな状況に彼らが置かれるのを見ると、何か気分が悪くなるのである。

〇最後に
 自分と他者との関係ってのは難しいものだ。皆仲良くなれば良いと思うのは当然だろうが、何分そのアプローチの方法が人それぞれ違ってくる。他人に構ってもらうために、気さくに話しかける人もいれば、黙り込む人もいる。親しげに話しかける人もいれば、怒りでしか表現できない不器用な人も存在する。そんな者たちがどうやって関係性を築いていけばいいのか。・・・と考えると関係性築く必要なくね?と思う人も出てくるし、敵対視する人も出てくるわけで。そりゃあぐちゃぐちゃしてしまうでしょうと。あなたはどこまで寛容になれますか?
ではでは・・・。

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...