2014年7月7日月曜日

デス・サイト(2004)

デスサイト[DVD]


~時間差トリック~

〇想起する作品 
 「ブラック・サイト」 (2008)

〇こんな話 
 誘拐された女性を助けたくば、ポーカー勝負に勝て。そんなインターネット犯罪に挑む。 

〇騙される心理 
 ネタバレとしては、アリバイ作りのための時間差トリックだったわけで。騙すトリックというか心理をちょっと。

・ポーカー勝負 
 ほぼ運ゲーであり、勝敗が実力に左右されない。コンピュータというランダムもあり、勝敗が確実に決まっていないからこそ、犯人と警察(助けようとする者)が同時間という対等な存在だと錯覚させられる。 

・インターネットを介するサイトの(ライブとされる)映像 
 いくらでも捏造可能だが、常に犯行に関して後手にならざるをえない状況で、ライブなのか録画なのか確かめる方法はほぼ皆無。 

・犯人本人がゲームに立候補
 初めてのものであれば信憑性の問題もあり、その犯行は軽視されるか、無視されるので時間差トリックは見破られず、犯行はほぼ成功する。二回目は自分が名乗り出ればほぼ成功且つ容疑者から外れる。助けようとしているわけですからね、表向き。そして助けられれば恋する彼女のヒーロー。失敗しても自ら勝負を買って出た姿勢で恋する彼女から同情を買えるというオプション付き。本当の狙いはそっちだったわけだが。ポーカーのスペシャリストがゲームに勝ち、称賛を浴びた、且つ彼女とスキンシップというかボディコンタクトがあったことからそれは伺える。その辺も見るところなのかな~。
 犯人は主人公を愛するがために犯罪を犯していたという設定。違う女性から好意を寄せられている節もあるが、そちらには興味は無いご様子。贅沢。

 最初の犯行のときに時計をちゃんと映してくれてるのでね。トリックの演出としては割と親切ですかね。

〇疑念 
 なぜ犯人は映像に音声を入れたのか? 
 これが犯行を紐解いていく決定的な鍵となってしまう。音声というところが、LIVE映像であるというリアルさを追求するところだったのか。

〇最後に
 時間差トリックという何ともフェアではない犯行。犯罪にフェアもアンフェアもないのだが、そんな卑怯で残虐な犯人は最後も見事にゲスい行動をとってくれる。しかし常に有利な立場でいるという環境に慣れてしまった犯人は、いざ正々堂々対戦者と同じ立場に立ってみたら見事にテンパりまくり。さようならぁ、となるわけで。何ともあっさりというか深みが無いというか、物足りなさを感じる方は多いのではなかろうか。

2014年7月6日日曜日

今日も僕は殺される(2007)

今日も僕は殺される[DVD]

~グルメ化~ 

 〇想起する作品
・「ダークシティ」(1998) 
繰り返しネタ
・「デイ・ブレイク」
上に同じ 
・「マトリックス」(1999) 
服装は絶対狙ってる

〇こんな話
 ある日何者かに殺されてみると、まったく別の人生を歩んでいた。あれれ?と思っているとありがたくも案内役が登場。彼を襲っているのは悪霊だか悪魔と呼ばれる存在で、彼のある記憶が戻らないようにひたすらに殺し続け、いろいろな人生を歩ませ記憶を植え込む?でいるとのこと。はてさて・・・。

〇グルメ化 
 悪霊どもは人間の恐怖という感情を喰って生きている。それがだんだんと堕落・不敗し、人間の苦痛を味わうために人間を殺してまわるようになった、とされていた。映画ではこの現象をドラッグと位置付けているのだが、彼らにとって人間の恐怖は生きるための糧であるので、これを人間でいう「食」と結び付けて考えてみたい。

 生きるために欠かせない食。人間は食べることで何かしらから栄養を摂取しなければならない。ここではその摂取の仕方が問題。人間は時間に追われ、ファーストフードや立ち食いそばなどの短時間で提供できるものが流行りはじめ、さらには栄養を集約したもの、そして摂取しやすいゼリー状のものまでが広がっている。究極それで人間の活動に必要なものは事足りる世界になりうる。そして点滴や注射等様々な手段で口から摂取する必要も無くなる。

 このように食(食という文化ではなく、食べるという行為)を軽視する傾向も目立ってきてはいるが、それ以上に食という歴史及び文化を作ってきたのはグルメ化というものが大きい。同じ栄養を取るために食べるという行為をしなければいけないのならば、不味いものよりは美味しいもののほうが良いだろう。そして満腹感を得られた方が良いのではないだろうか。食材、調味料、調理法が数多く開発され、食を楽しむという方法が生まれ、食の幅も広がった。 いや、広げたと言うべきか。おいしいものを食べるために人間はどこまでのことを冒してきたのか。それを考えると彼らの行動はただ単に欲求に正直なだけで、単純に悪とは決めつけられない。


 今日の世界における頂点捕食者という人間の勝手な自尊が、この人間が喰われるという状況を単純に悪としてしまうのであって、我々も知ってか知らずか同じような事をしている。確かに人類の文化は狩猟から農耕に移るわけではあるが、狩猟が廃れたわけではない。狩猟ではなく大きくは畜産というかたちになったのかな。農耕という文化が根付くことで、狩猟と相まってグルメ化を促したのではないだろうか。そしてそのグルメ化という現象が生命を摘み取るという事象をより幅広くした。つまりいろんな生き物に手を出せるようになった。先ほども言ったが食材の数、調理法、調味料、保存方法などが確立していったからである。

 我々は美味しいものを求め、何かしらの命を摘み取っている。命をいただいている。食に感謝すべきだとかそういうことを言いたいのではないが、グルメ化を経ることで食の幅は広がった。しかしその分食材(命)との関わりが薄れ、遠くなり頂点捕食者という自尊やうぬぼれが生まれ、食に対して軽視する傾向が生まれたのは確かではなかろうか。魚は開かれた状況で泳いでいると信じている人がいるとかいないとか・・・。

 私の経験であるが、ある授業だったか講義だったかで、フェイクビデオであるのだが、パスタは木に生る物で、それを収穫したものが食卓に届けられるという映像を見た。そういう映像を見て周りの者の中でそれを信じる者がいた。普段は信じようはずもない事象を、それらしく描く・表現することで人は信じ込んでしまうというようなお話ではあったのだが、パスタという物が何からでき、その原料はどのように育てられ、実り収穫されるのかということを知らないからこそ、その表現を信じ込んだり、疑う余地が生まれてしまう。私も鶏、豚などの生き物が食のために殺されるところは実際に見たことがないし、加工されるに至る段階を知らない。食品は当たり前のようにスーパーに陳列されているし、飲食店ではすでに食べられる形で提供される。元の形などわからないものが多い(元の形を知ると視覚的だったり、イメージだったりで嫌悪感を抱くものもあったりするか・・・)。そしてそれらのほとんどは安全である。死亡事故があれば、大々的に報道されるくらいだ。それほどまでに安全に気を使っている。産地や生産者、製造年月日等々情報も公開されるようになったのがいい例だろう。一時期話題になった食品偽装の問題により露呈した、我々の認識と表示義務の差異についてもあるが、それはここではまあいいだろう。

 つまり元々の形や、何でできているかわからないけれども、食の安全は確保されているという状況が発生しているわけだ。技術的、経済的、効率的などなど様々な影響により、人間は生きる上で食に関することは自分で作り出すより、専門家に任せるかたちになった。だからこそ食が当たり前になり、他の所に手や目が行くようになった。

 生きるために食べる、という行動が当たり前化し、生きるためというより腹を満たすという行為になった。グルメ化という娯楽化である。食べる物に関して、何を食べるのか・食べるべきなのか・食べたいのか、という選択ができるようになったと言えばわかりやすいか。しかしこれが人類という進化と発展を促したのも事実である。狩ること・作ることが直接的に食(生きること)につながる、といった時代ではなく、食がある程度確保され、余剰生産物が貧富の差を生み、争いを生むという歴史に対して、物流のシステムで過不足も調整され、いや逆に顕著になっている部分もあるかもしれないが・・・、世界にある程度の均衡をもたらした。そんな人類の歴史を見つめ直すと、やはり彼らのグルメ化という現象は悪とは割り切れない。

 具体的に言うなれば、食べるために飼われている家畜はどうなのかと。地球という場所を悪魔に喰われるための人間の飼育場所と捉えれば、なんらこの映画の中で起こっていることは不思議でもなんでもない。ただ先ほども述べた人間の頂点捕食者という自尊やうぬぼれが、この人間が喰われるという状況を何か気味悪く、引っかかる部分を作っているだけ。

 まあ、自らがそのような境遇に陥ればもちろん悪霊だか悪魔だかを悪と認定するに違いないのだが・・・。


〇余談
主人公をジェンセン・アクレスで観たかったなというのがある。「スーパ・ナチュラル」のイメージが強いのだが、彼だったらこの映画をよりコミカルに、そしてコミカルを活かしてよりかっこよく演じられたと思う。


〇最後に
 食という文化について考えてきたつもりであるが、まあ何が言いたかったのかというと、(大概の)人は異種文化を忌み嫌う傾向にあるということ。普段原料・材料が何かもわからずに物を食べてるであろう人たちが、異種文化で昆虫やら異形の物を食するという行動に寒気を覚えたりしませんかと。そういう文化が無かったから、知らなかったからという理由が大きいだろうが、それは自分が浸っている文化を常識と捉え、他の文化を少なからず否定しているという現れではなかろうか。況してやこの映画のような人が喰われるなどという文化はもってのほか。しかし、人間世界においても人が人を食するというカニバリズムというものも存在はしている。それをあなたはどう感じるか。否定したり、自分たちの文化より劣っていると捉えてしまいませんかと。エスノセントリズム(自民族中心主義)というヤツなのだが、自分が浸っている文化を破り脱するというのはまた難しいもので。難しいというのも、その浸っている文化を無理に脱する必要が無い状況で、他の文化を評価しろと言う方がおかしくもあるわけで。そして自分が浸っている(肯定している)文化から他の文化を見れば、優劣をつけたがるのは必然とも言えるわけで。しかし肯定か否定かという立場に立ってみないと、公平な立場には立てない、まあ議論できないというのが私の見解で。なぜかというと、屁理屈と思われるかもしれないが、肯定も否定もなければ公平など存在しえないではないかと。両極端が存在するからこそ中間もあると。

 詰まる所、肯定でも否定でもどちらかの立場に立つということが議論する上でまず大事なことで、今回は食文化という事象を扱い、人間のグルメ化という歴史に当てはめ比較し、悪霊とされる彼らを肯定的立場から観察し、実際のところ悪なのかというテーマで思考実験してみた。否定的立場から入ることもできた。その時はテーマへのアプローチの仕方を変えるだけでいい。そして抑えるべきポイントを明確化すると。肯定・否定というどちらかの立場に立つことで、テーマへのアプローチと抑えるべきポイントを探る。この作業を行うことが、議論を行った上で公平という立場で物事を判断する基準となる。故に最初から公平という立場に立つことは不可能である・・・少なくとも私は。

 話を元に戻すと、異種文化を忌み嫌う傾向にあるということについてであるが、それも単純に悪いと決めつけているわけではなく、否定的見解に立つことでその文化の良し悪しは、先ほどの思考実験の仕方で見えてくるわけで、しかしその否定的見解というのは自分の文化を肯定的に見ているからであることが多く、その自分の文化を肯定的に捉えているという前提も見直す必要性が出てくる。ある事象に関して肯定と否定に分かれた際に、議論が空中戦を繰り広げるのは、その事象でしか、その事象を基準にしてしか判断を行えていないからだ。つまり、なぜその見解に立っているのかではなく、その見解に立たせるに至る経緯を作り出す価値観という土台を考慮しなければならない、・・・場合も存在する。基準からの価値観へのアプローチではなく、価値観から基準へのアプローチを疑うとともに、価値観の構成物を探る。故に辿りつく価値観を異にする存在。価値観が根底的に異なれば、相容れることはほぼ不可能と言っていい。それでもそんな人たちとはうまくやっていかねばならない。まあ、まずは自分の意見を言わなければ話は始まらないが・・・。

 一つ一つを細かく見れば、良し悪しがそれぞれ判断できるものでも、それらが集まって構成される総合的な分野になると、一長一短があり一概に良し悪しを判断できない。実際そんなもんばかりである。だからこそ生まれる確執、混沌。よくそんな複雑な情報を(割り切りや、投げ出しを含め)整理して人間は生きているよなぁ。これも人間の良いところであり、悪いところで一長一短があるという・・・。終わります。

ヘッドハント(2011)

ヘッドハント[DVD]

~二大巨頭~

〇はじめに 
 この作品は残虐的な描写が多めなので、苦手な方は無理に観る必要はない。しかし、その残虐的な描写を最後見事に活かしてくるというなかなかに凝った作品であるので、嫌いでない方は観てみたらいかがか。 

〇こんな話 
 レッドという男が殺人を犯したとのことで逮捕される(連続殺人鬼として)。様々な報道が為され、彼は服役することに。なんやかんやあって脱獄する。そしてレッドによりある場所に集められた複数名。彼らはレッドが服役するに至るまでに関わった人物たちであった。はてさて・・・。

〇演出 
 これでもかというほどに観せられる残虐的な描写。閉じ込められている者たちにとっては指示に従わないとこうなるという見せしめとして機能する。さらには反抗するなという抑止力。恐怖を植え付けるのにこれ以上のものは無いだろう。もう痛々しくて仕方がない。そして我々はというと、残虐描写をただ楽しむというだけに思えてしまう(楽しむという表現を誤解されたくはないので少し説明しておくと、決して残虐描写を好んで視聴するというわけではなく、映画の表現のあり方の一つとして理解するみたいな感じ)。 違うんだよなぁ~、ふふん、とさっきまでの自分に言ってやりたくなる。残虐描写を痛々しくも楽しみつつ、最後のシーンを観せられるとあら不思議、先ほどまではただの恐怖の対象でしかなかった連続殺人鬼が、これ以上無いってぐらいに頼もしく見えてしまう。た、助けてください。 


 連続殺人鬼ではないということを証明するために、レッドは最終的に真犯人を突き止めるとともに連続殺人鬼になっている。鑑賞者である我々は、レッドが連続殺人鬼になる様を現在進行形で残虐描写を通して目撃することになる。まあ彼も人体実験の被害者であり、単純に彼を悪と見せないのもまたこの演出のミソ。 

 仮に、殺人鬼とされる(言伝で聞いた)人物と、実際に人を殺す様子を見せられた人物とどちらを信用するだろう。信用という言葉だと少し誤解を生むかもしれない。ある強敵を前にしたとき、殺人鬼が味方になるとして、どちらを選ぶだろうとした方がいいか。さあ、どっち? 

・状況の近似 
 わかりにくい方もいらっしゃることだろう。自己満足とともにさらなる解説をしていきたい。なるべく多く例を挙げてみよう。 

一、「ターミネーター」「ターミネーター2」 
 シュワちゃんが敵から味方になる感じ。1でのシュワちゃんの圧倒的な強さ、恐ろしさを知っているからこその、2での味方になっての頼もしさ。現実のシュワちゃんの役柄を知っているからこその頼もしさ・安心感というのもあるか。 

一、「エイリアンVSプレデター」 
 シュワちゃんには敗れるものの、その残忍性は十二分に評価されているプレデター。エイリアンに惨殺されるしかない状況で、たとえ敵であろうと頼らざる・利用せざるをえない。 劇中の登場人物には知る由もない事実だが、鑑賞者としてはこれ以上無い最大の武器を手に入れたという状況に、何か期待せずにはいられない。

一、「フレディVSジェイソン」
 「エルム街の悪夢」「13日の金曜日」で余りある恐怖を提供してくれたお二方。どっちが生き残ってもうれしくないはないが、二人相手はちと荷が重い。二人でやりあわせよう。あわよくば相討ちねらい的な。

 良くも悪くもある二大スターの敵対、共演と言った方が良いか。実力を知っている二者にどう決着をつけるのか。そんなところにワクワクを感じざるを得ない。

〇選択肢 
 自分の無実を証明するために、殺人鬼でないということを証明するために殺人さえも行う。何という矛盾、何という理不尽。こんなことが許されるのか。確かに検挙された事件に関して彼は殺人を犯していない。自分の無実を証明するのに法が機能しないとなれば、自分で事を起こすしかない。彼がとったのは一つの方法であることに変わりはない。普通であれば選択肢としてはあっても選ばない、消去法ですぐに消えてしまう方法であっただけ。 

〇最後に 
 何の目的かも知らされないまま、ただただ仕事を強いられる。仕事の意味としては、事件の真相と真犯人を挙げることだった。それを理解し且つ真犯人を突き止めるに至る優秀な人物が最後生き残ることとなる。

 物事に関して真意を知らずに生きている人は数多くいるだろう。何も考えず、何の意味も見出さず、ただ前例と同じように自分の意思を介せず物事に接する。肯定的に言うなれば、常に最新版を好む、周りが皆やってる、もってるからなどといった理由で行動する。流行に乗っかる、取り入れるってところか。

 この映画は仕事への取り組み方且つ結果の良し悪しにおける、その待遇の格差を描いている。待遇の度合いはこれ以上はないであろう、生か死かだ(解雇が死に相当する)。レッドの頭がイカれていることから、選別はどんどん行われていく。使えない奴は足手まといだと言わんばかりに。この劇中の仕事で求められる成果は、事件の真犯人の特定とレッドの無実の証明であり、そこに至るにはどうしても個人の(考えの)介入が必要になる。捜査や推理といった行動に移すためだ。つまりレッドに与えられた支持を淡々とこなしているだけでは成果は挙げられない。自分で考えろと。

 彼女のような、組織という人間の集団の中において、自分という存在の立ち位置を(自分の意思とは関係なく)自覚した者が生き残れる。そんな世界・社会が広がっている。そりゃストレス堪りますよ。捌け口が必要なのもわかります。仕事ができる、できない、大いに結構。でも捌け口において人様に迷惑をかけるのは違うと思います。

2014年7月5日土曜日

大脱出(2013)

大脱出[DVD]


~脱獄屋~ 

〇はじめに 
コテコテのサスペンスではないからおもしろい。サスペンス要素に囚われ過ぎずに映画を楽しめる。含まれるサスペンス要素が全てスタローンとシュワちゃんに繋がるといっても過言ではない。だからこそ読めるシュワちゃんの正体。わかって尚最後かっこいいと思ってしまうからなぁ~、さすがだよなと。 

〇こんな話 
脱獄屋、プリズン・ブレイクを職業とするスタローン。 
最初に脱獄の所業を観せ、スタローンの脱獄屋としての実力を顕示し、それを踏まえての難攻不落の刑務所へレッツゴー。果たして彼は脱獄することができるのだろうか。あ、シュワちゃんもお忘れなく。

〇読み合い 
刑務所の所長は収集家気質で囚人に対して資産価値うんたらかんたらで所有物だと思っている。「HUNTER×HUNTER」にいたブラックリストハンター的な。かと思いきや金に目がない感じもあったからよくわからない。刑務所存続のためか。しかし、分析家であり刑務所に対する主人公の著書により脱獄対策・対処は万全。かと思いきや抜け穴が。知ってるから、知りすぎているから騙される。意味のないところに気づき深読みしてしまう。という騙され具合。これが著者と読者の違いか。著者の思いと読者の印象は異なるからな、うん。そんなこんなで所長は出し抜かれます。 

〇完璧なシステム 
システムは完璧でもそれを実行するのは人間であるために起こる不具合。そして完璧と言われるシステムを構築するのは完璧ではない人間で、結局完璧なんてものはありえないのかという問題に直面する 

・人間の習慣化における危険性 
特に完璧なシステムにおける、看守という人的要因について言及する。
人間は何でも初めてのもの、新鮮なものには緊張だったり恐怖だったり最新の注意を払うものだが、それが習慣化・常習化してきてしまうと要領や効率を求めるようになる。パターン化である。それが組織においては時間やコスト等、個人では単純に体力等においてメリットとなる場合が多いが、裏目に出ることも。この映画はその一例。

パターン化とは・・・ 
思考の介入なく体を動くようにするといったオートプログラムとでも言おうか。思考を介することなく、体が勝手に動くように必要な動作を体に覚えさせる。そしてそれは日常的なものについて起きる、というより自分で体にプログラムする。悪い意味で捉えるなら、サボり方がうまい。良い意味で捉えるなら、線引きがうまいといったことだろう。この映画における脱獄、すなわち革命・反乱などは定期イベントではあるが、日常的ではない。看守としては、稀にしか起こらない非日常(定期イベント)における対策を常に備えるよりは、日常における最低限度に要求されるライン(囚人たちの内紛等の対処)を把握しておけば、支障を来たすことはまず無いと言っていい。勤務時間、巡回経路などなどパターン化してしまう。脱獄の前例がない難攻不落という要素と、外に出たところで海という安心や慢心もあったかもしれない。
そういったパターンをスタローンは見抜いていく。

〇水川あさみ(33分探偵) 
監獄船という難攻不落という要素を広告で宣伝すなよ。したところでおもしろさは変わらないってか? だってひとつの山場を迎えたシーンがそれで台無しですよ。「うん、知ってた」33分探偵水川あさみ風な言葉が出てきました。

〇最後に
老いたな、二人とも。しかしここまでに熟々した二人だからこそ描ける映画でもあったのかな。おもしろかった。

2014年7月4日金曜日

イグジステンズ(1999)

イグジステンズ[DVD]


~混同~

〇想起する作品
・「13F」(1999)
・「マトリックス」 (1999)
・「インセプション」(2010)

〇こんな話
イグジステンズ(eXtenZ)というヴァーチャルゲームをプレイすることになった複数名。ゲームをプレイ中の発明者がいきなり襲撃される。そこから始まる逃亡劇、という名のゲーム。はてさて・・・。

・ネタバレ
描かれる世界(現実とされていた)が最初からゲームの中だったというオチ。これは「13F」に通ずる二階層システム。やりおる。劇中の人物含め鑑賞者も最初に描かれている世界が現実だと思わせてしまっていたわけで。ここから最後の台詞につながる。現実とゲームの区別がつかなくなっていたと。

〇ゲーム設定
そのゲームをプレイするとキャラクターの人格及び台詞が勝手に出てくる。二重人格になった感じと言っていた。流れに身を任せることでゲームは進んでいく。ゲーム中のキャラクターは返答してくれる内容も定められており、そうでない内容であれば待機モードとなる。

〇境界
ゲームの制作者を殺害する二人。いきなり叫び始める。最後こいつら何言ってんの?となるかもしれないが、中国人と思われる人物の言葉でああ、なるほどと納得する。
「これはまだゲームの世界?」 
現実とゲームの人格の区別がつかなくなるとともに、現実とゲームの区別がつかなくなりはじめているという暗示。現実に対して今の世界がリアルであるのかという疑念が生まれるようになる。まだ夢を見てるのか?みたいな感じだろうか。 

~区別がつかなくなることでもたらされるものとは?~
ゲームの世界のリアリティ(現実感)が増すほどに区別はつきずらくなる。ファミコンであった某ゲームの、きのこで身体が大きくなるというのを現実に信じ込む人はいないだろう。土管に入っていくとか・・・。ヤッフー!! 
現実に近いということで、その現実感を活かし現実にはできないことを試すことが可能となる。現実(のスペック)では絶対に不可能であることと、やろうと思えばできるが世間的・社会的に害となることでできないものが存在する。そんな欲求やストレスを、仮想現実という限りなく現実に近付けた世界で実行することができたら。そしてそれは現実に近ければ近いほど、現実に起こりうる興奮を覚えることとなるだろう。しかしそれはおそらく欲求や衝動を一時的に満たしているにすぎない。もしそれがゲームの世界だけで満足できなくなったら・・・?

〇余談
最後の最後でTRANSCENDENCEという言葉が出てくる。字幕はトランスセンデンスと訳され、吹替えでもそう読んでいる。2014年の「トランセンデンス」という映画。スが入ってない。ただそれだけ。

〇最後に
現実と妄想(ゲーム世界)の混同。それは子供のころに経験するであろう、なんとかごっこといった憧れからくる事象だったはずである。しかし、それが全部が全部ではないが、現実に近づいているであろうハイテクゲーム等が流行り始め、実際には行えない欲求や衝動を体現するに至っている。現実と妄想とで割り切れれば良い。どちらかだけに浸っているだけなら良い。でもそれを許してくれない社会や自分がいる。そこで生まれる新たなる欲求や衝動といったストレス。あなたはどう解消しているだろうか? 解消していくのだろうか?

ストーム・インパクト(2013)

ストーム・インパクト[DVD]


~予報被害~

〇こんな話 
急速に発生・発達する強力な竜巻がある町を襲う。その竜巻は風による被害だけでなく、岩をも降らせる。これはそんな現象に立ち向かった勇敢なる者たちのお話。 

〇竜巻 
この映画における竜巻の恐ろしいところは、発生の予測ができないほどに急速に発生発達するところ。そして気象レーダー等には捕捉されないところ。レーダーより人間の目に頼れ。つまり、機械より人間を重要視しろと。計算より長年の経験や勘を頼れ。結局頼りになるのは自分の体、自分自身であると。そんなメッセージを勝手に受け取ってみる。

〇予報 
劇中に描かれるある事態。こういったディザスターパニックには必ずと言っていいほどの演出。唯一危険を察知する者と、それを論外だとあしらう者の衝突。まあ実際のところ予報もされておらず、さらには晴天の中いきなりある二人が竜巻が来るから逃げろと言われても信じられないですよね。 
今日では天気予報は予報がはずれれば気象予報士がたたかれるというまでに技術及び精度が上がってきた。某気象予報士は予報がはずれることをネタにしているくらいだ。この映画では、竜巻を危険視する二人をよそに、報道関係者はその報道を最低限に抑えようとする。なぜこのようなことが起こるのかと憤りを覚える者もいるだろう。しかし、よく考えてほしい。予報を行いある事態を予測したとする。当たれば当たったで雨程度の気象現象であれば、「天気予報信じて傘持ってきてよかった」などと自己満足で終わるだろう。大災害であれば、大勢の命を救ったと英雄だ。はずれればどうだろう。「雨降らなかったね、傘持ってきた意味無いじゃん」「あ、電車の中に傘忘れた、くっそ~」で済めばいい。しかし現象の規模が大きければ大きいほどに、大きな損害を被るハメになり、たった一度の失敗が信用を失う事態にも陥る。執拗に民衆の恐怖を煽ったことへの報いすらある。そんなことを考えると報道に規制がしかれたり、情報漏えいは最低限に抑えられて然るべきと言える。
詰まる所予報精度が100%に至らないところからくる問題であるわけで、おそらく予報精度はいつまでたっても100%にはならないと思うので、人間には一生ついてまわる事態だと思います。結局何を信じるのかという個人の情報収集・選別能力に頼らざるをえないのです。気をつけましょう。

〇疑念 
・被害
岩を何十キロも移動させ降らせるという強力な竜巻と言っているのだが、最初の竜巻の被害は記念碑のようになっている岩だけ。その周辺の建物には一切被害は無い。不思議だ。

・爆発する岩について
四方八方に岩石を降らせるという。氷だったか。そしてその降らせる物質とはとても不安定な固体で、爆発もする。とても危険だ。
中間圏に存在するオゾンが(液化し)、二酸化炭素(ドライアイス)に包まれることでできた塊が降ってくると説明されていた(図1)。以下オゾンボールとする。銀だこのように、「外はカリカリ(固体)、中はトロトロ(液体)」と思われる。それが生成された環境と地表の気圧差により爆発をする。
(注、吹替えだとCO₂の塊ってなってるんだけど、字幕はオゾンの塊となっていて、台詞でもオゾンと言っているから・・・。伝わりやすいようにCO2にしたのかな。ドライアイスとかの方が身近に感じるし、知っているだろうから・・・かな。)


図1 オゾンボール

物質内外の圧力差で爆発する・・・ 
竜巻の中で生成されるオゾンボール。竜巻は地表よりも気圧が低いと。あれ、物質の中が高圧だからこそ怒りうる爆発のはずでは・・・?。生成される場所が地表よりも気圧が低いということは爆発ではなく爆縮になるのでは・・・。少し簡潔に以下。
圧力が
・外<オゾンボール内 = 爆発
・外>オゾンボール内 = 爆縮
になるはず。こんな感じではと図2。


図2 圧力差


液体オゾンの気化による膨張率ってのは地表の大気圧をはるかに凌ぐんですかね。化学に疎いものでよくわかりません。

〇最後に
この映画のようなとんでも現象が実際に起こりうるかは不明ですが、起こらないとも限らない。実際に起こったら我々としたら立ち向かうというより、逃げまどうしかないんですけどね。よし、気をつけましょう。

2014年7月2日水曜日

ザ・ワン(2001)

ザ・ワン[DVD]


~経験値~

〇はじめに 
 ジェイソン・スティサム出てる。ジェット・リーと割と共演してるんだなぁ。 

〇想起する作品 
 「マトリックス」(1999)
 「ジャンパー」(2008) 
 

〇こんな話
 多元宇宙論。複数の宇宙が同時に存在し、それぞれの世界への扉は開かれているものの、世界の均衡を保つために移動は制限されていた。しかしある男が全能(ザ・ワン)になるために、パラレルワールドにそれぞれ存在するもうひとりの自分を殺してまわる。倒した者たちのエネルギーは生き残っている者たちに振り分けられていく。

〇ザ・ワン 
「この宇宙で一等賞になりたいの俺は、格闘で」 
 彼がパラレルワールドに存在するもうひとりの自分を殺してまわるのは、多元宇宙の中で一人しかいない存在、全能(ザ・ワン)になるためとされていたのだが、最終的に明らかになる彼の本当の動機はというと、ただ一番になりたかっただけ。 

 ドラゴンボールみたいなものか。天下一武道会を制し、地球の危機となる敵を全て倒した。次はあの世で一番になろうっと、みたいな。オラ、ワクワクしてきたぞ、と言わんばかりに。強い奴と戦いたかったんですね、わかります。男は「強さ」というものに魅了されるものです。そしてそれを証明するものにはさらに執着します。それが彼にとってはザ・ワンという称号だったわけです。 

 まあ要するに、彼はオンリーワンではなく、ナンバーワンを目指していたわけです。ナンバーワンになった時に、オンリーワン、この映画で言うザ・ワンという称号と力が得られるというオプションつきで。

〇デジャヴ 
「前にどこかで会った?」とは最後の恋人だかの台詞。 
 人に対してそのような意識をすることは少ないかもしれないが、どこかで見たような光景に遭遇することはないだろうか。実際に過去にそれに似た経験をしているのかもしれないが、思い出せないといったような。我々の存在する宇宙には数多くのパラレルワールドが存在しており、その中にそれぞれ同じ個体が存在する、とこの映画ではされている。それを是とし、最後のデジャヴを解釈するのならば、もうひとりの自分が有しているエネルギーが、死とともにパラレルワールドに存在する同じ個体に流れ込んでくるというのを、単純なる力だけではなく、記憶や知識などといった経験の蓄積と捉えることはできないだろうか。自分が経験した事象ではないが、どこがで見たことがある、会った・遭ったことがあるといった事象は、別の世界に存在する自分が経験した事象であるという風に。 しかし経験の共有だけであれば、死というきっかけ以外に何らかのちょっとした事象で、それぞれの世界にいる自分とリンクしてしまいそうだが。そうなると我々が普段感じるデジャヴという体験は頻繁に起こりえて然るべきということになる。つまり、デジャヴは多元宇宙論の根拠ともなるのか。
・・・あ、多元宇宙論はこの世界を説明する上で的を射ているな。ご都合解釈だけど。

 ひとつだけ注文をつけるのならば、彼自身にもデジャヴ体験が欲しかった。単純に戦闘力が上がるというのは、最後の最強VS最強まででしっかりと描かれている。しかし既視感や既知感などの経験といった事象が抜け落ちてしまっている。最初に囚人を護送するという同じ構図で、囚人としてと警官としてとでそれぞれパラレルワールドで描かれるわけだが、同じ構図、展開をデジャヴを活かした展開にしない。ひとり危険を察するといった描写はあるため、それがデジャヴの代わりとしてはたらいているのかもしれない。 

〇最後に
 別の宇宙(世界)では違った世界が、違った人生が歩まれているわけで、そんな世界を覗いてみる方法があったとしたら是非とも覗いてみたくはありませんか。覗いてしまったら、希望か絶望か何かしら感ずるものがあるでしょう。しかし、そこには姿形は同じでも、結局は全く異なる自分がいるわけで。まあ詰まる所、別の世界に何人自分がいようと、もうすでにあなたはザ・ワンなのです。

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...