~キャラクターの崩壊~
被害者を起点とした関連する人物の相関図の描かせ方は見事。とあるキーワードから導き出せる、考え得る事象を見出させることでそれをやってのける。こうしてみると前回のパワハラとDVも狙ってやっていたのかと思えなくもない。
しかし問題は、それを繋いでいくべき人間たちの支離滅裂な行動の数々…
船越演じる虎丸はキャラクターの崩壊が著しくもう修正できない域に達しているからあきらめるべきなのだろうが、彼の犯罪者を憎みつつ自分の他者への害悪は棚に上げている姿はさすがに許容できない。
犯罪者憎しとする怒りの感情の蓄積はもちろんあるのだと思うが、それは事件解決へと向けた原動力に過ぎない。これを他者に当たり散らす一時の感情の起伏で描く事はナンセンスだし、長年の経験の蓄積がもたらす刑事の確かだとする勘と同義に扱うべきではない。
そして肝心の真野という人間。被害者遺族に対し希望的観測に過ぎないお話をするのは如何なものか。彼に軽々しく「思われる」「考えられる」といったワードを使用させるのはタブーだろう。
真相を究明する上で確かに論理の飛躍は大事だと思う。ただ彼はそれを行っていいと思っている人間なのか? 彼は何が真実を曇らせるのかを身を以って理解している人間ではないのか?
鑑定結果は真実への方向性を示すものではないはずなんだよ。鑑定結果こそが真実のはずなんだよ…。
勘を起点とし事件の全体像を勝手に形成した上で鑑定結果によりそれを補完する虎丸と、鑑定結果を起点とし憶測を積み重ねていくことで全体像に迫る真野。主観と客観、信念や信ずるに足るモノの違い故に、真実への道筋が逆行する2人。この対比を描きたいのだろうことは見えてきた。
それに対し原作は、刑事という犯行現場から事件の全体像を探る(もしくは犯人の逮捕を目的とした)人間と、科捜研というラボの中でイチ被害者の無念を汲み取る人間、といった役割及び立場においてその対比を行っているのだと思う(憶測よ?)。
この変更というのは、真野を犯行現場に赴かせたいがためであり、ドラマとしての見映えを気にしてのことなのだろう。これは致し方の無い様にも想える…
ただそれ故にそれぞれのキャラクターの行動原理と言動とに齟齬が生じてしまっていることに目を背けてほしくなかった…
まぁ錦戸君魅せたいってのが一番なんだろうし、これはこれでありなんかな。
・・・次も観るぞ~! なんだかんだ面白いよ!!
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