2014年7月6日日曜日

今日も僕は殺される(2007)

今日も僕は殺される[DVD]

~グルメ化~ 

 〇想起する作品
・「ダークシティ」(1998) 
繰り返しネタ
・「デイ・ブレイク」
上に同じ 
・「マトリックス」(1999) 
服装は絶対狙ってる

〇こんな話
 ある日何者かに殺されてみると、まったく別の人生を歩んでいた。あれれ?と思っているとありがたくも案内役が登場。彼を襲っているのは悪霊だか悪魔と呼ばれる存在で、彼のある記憶が戻らないようにひたすらに殺し続け、いろいろな人生を歩ませ記憶を植え込む?でいるとのこと。はてさて・・・。

〇グルメ化 
 悪霊どもは人間の恐怖という感情を喰って生きている。それがだんだんと堕落・不敗し、人間の苦痛を味わうために人間を殺してまわるようになった、とされていた。映画ではこの現象をドラッグと位置付けているのだが、彼らにとって人間の恐怖は生きるための糧であるので、これを人間でいう「食」と結び付けて考えてみたい。

 生きるために欠かせない食。人間は食べることで何かしらから栄養を摂取しなければならない。ここではその摂取の仕方が問題。人間は時間に追われ、ファーストフードや立ち食いそばなどの短時間で提供できるものが流行りはじめ、さらには栄養を集約したもの、そして摂取しやすいゼリー状のものまでが広がっている。究極それで人間の活動に必要なものは事足りる世界になりうる。そして点滴や注射等様々な手段で口から摂取する必要も無くなる。

 このように食(食という文化ではなく、食べるという行為)を軽視する傾向も目立ってきてはいるが、それ以上に食という歴史及び文化を作ってきたのはグルメ化というものが大きい。同じ栄養を取るために食べるという行為をしなければいけないのならば、不味いものよりは美味しいもののほうが良いだろう。そして満腹感を得られた方が良いのではないだろうか。食材、調味料、調理法が数多く開発され、食を楽しむという方法が生まれ、食の幅も広がった。 いや、広げたと言うべきか。おいしいものを食べるために人間はどこまでのことを冒してきたのか。それを考えると彼らの行動はただ単に欲求に正直なだけで、単純に悪とは決めつけられない。


 今日の世界における頂点捕食者という人間の勝手な自尊が、この人間が喰われるという状況を単純に悪としてしまうのであって、我々も知ってか知らずか同じような事をしている。確かに人類の文化は狩猟から農耕に移るわけではあるが、狩猟が廃れたわけではない。狩猟ではなく大きくは畜産というかたちになったのかな。農耕という文化が根付くことで、狩猟と相まってグルメ化を促したのではないだろうか。そしてそのグルメ化という現象が生命を摘み取るという事象をより幅広くした。つまりいろんな生き物に手を出せるようになった。先ほども言ったが食材の数、調理法、調味料、保存方法などが確立していったからである。

 我々は美味しいものを求め、何かしらの命を摘み取っている。命をいただいている。食に感謝すべきだとかそういうことを言いたいのではないが、グルメ化を経ることで食の幅は広がった。しかしその分食材(命)との関わりが薄れ、遠くなり頂点捕食者という自尊やうぬぼれが生まれ、食に対して軽視する傾向が生まれたのは確かではなかろうか。魚は開かれた状況で泳いでいると信じている人がいるとかいないとか・・・。

 私の経験であるが、ある授業だったか講義だったかで、フェイクビデオであるのだが、パスタは木に生る物で、それを収穫したものが食卓に届けられるという映像を見た。そういう映像を見て周りの者の中でそれを信じる者がいた。普段は信じようはずもない事象を、それらしく描く・表現することで人は信じ込んでしまうというようなお話ではあったのだが、パスタという物が何からでき、その原料はどのように育てられ、実り収穫されるのかということを知らないからこそ、その表現を信じ込んだり、疑う余地が生まれてしまう。私も鶏、豚などの生き物が食のために殺されるところは実際に見たことがないし、加工されるに至る段階を知らない。食品は当たり前のようにスーパーに陳列されているし、飲食店ではすでに食べられる形で提供される。元の形などわからないものが多い(元の形を知ると視覚的だったり、イメージだったりで嫌悪感を抱くものもあったりするか・・・)。そしてそれらのほとんどは安全である。死亡事故があれば、大々的に報道されるくらいだ。それほどまでに安全に気を使っている。産地や生産者、製造年月日等々情報も公開されるようになったのがいい例だろう。一時期話題になった食品偽装の問題により露呈した、我々の認識と表示義務の差異についてもあるが、それはここではまあいいだろう。

 つまり元々の形や、何でできているかわからないけれども、食の安全は確保されているという状況が発生しているわけだ。技術的、経済的、効率的などなど様々な影響により、人間は生きる上で食に関することは自分で作り出すより、専門家に任せるかたちになった。だからこそ食が当たり前になり、他の所に手や目が行くようになった。

 生きるために食べる、という行動が当たり前化し、生きるためというより腹を満たすという行為になった。グルメ化という娯楽化である。食べる物に関して、何を食べるのか・食べるべきなのか・食べたいのか、という選択ができるようになったと言えばわかりやすいか。しかしこれが人類という進化と発展を促したのも事実である。狩ること・作ることが直接的に食(生きること)につながる、といった時代ではなく、食がある程度確保され、余剰生産物が貧富の差を生み、争いを生むという歴史に対して、物流のシステムで過不足も調整され、いや逆に顕著になっている部分もあるかもしれないが・・・、世界にある程度の均衡をもたらした。そんな人類の歴史を見つめ直すと、やはり彼らのグルメ化という現象は悪とは割り切れない。

 具体的に言うなれば、食べるために飼われている家畜はどうなのかと。地球という場所を悪魔に喰われるための人間の飼育場所と捉えれば、なんらこの映画の中で起こっていることは不思議でもなんでもない。ただ先ほども述べた人間の頂点捕食者という自尊やうぬぼれが、この人間が喰われるという状況を何か気味悪く、引っかかる部分を作っているだけ。

 まあ、自らがそのような境遇に陥ればもちろん悪霊だか悪魔だかを悪と認定するに違いないのだが・・・。


〇余談
主人公をジェンセン・アクレスで観たかったなというのがある。「スーパ・ナチュラル」のイメージが強いのだが、彼だったらこの映画をよりコミカルに、そしてコミカルを活かしてよりかっこよく演じられたと思う。


〇最後に
 食という文化について考えてきたつもりであるが、まあ何が言いたかったのかというと、(大概の)人は異種文化を忌み嫌う傾向にあるということ。普段原料・材料が何かもわからずに物を食べてるであろう人たちが、異種文化で昆虫やら異形の物を食するという行動に寒気を覚えたりしませんかと。そういう文化が無かったから、知らなかったからという理由が大きいだろうが、それは自分が浸っている文化を常識と捉え、他の文化を少なからず否定しているという現れではなかろうか。況してやこの映画のような人が喰われるなどという文化はもってのほか。しかし、人間世界においても人が人を食するというカニバリズムというものも存在はしている。それをあなたはどう感じるか。否定したり、自分たちの文化より劣っていると捉えてしまいませんかと。エスノセントリズム(自民族中心主義)というヤツなのだが、自分が浸っている文化を破り脱するというのはまた難しいもので。難しいというのも、その浸っている文化を無理に脱する必要が無い状況で、他の文化を評価しろと言う方がおかしくもあるわけで。そして自分が浸っている(肯定している)文化から他の文化を見れば、優劣をつけたがるのは必然とも言えるわけで。しかし肯定か否定かという立場に立ってみないと、公平な立場には立てない、まあ議論できないというのが私の見解で。なぜかというと、屁理屈と思われるかもしれないが、肯定も否定もなければ公平など存在しえないではないかと。両極端が存在するからこそ中間もあると。

 詰まる所、肯定でも否定でもどちらかの立場に立つということが議論する上でまず大事なことで、今回は食文化という事象を扱い、人間のグルメ化という歴史に当てはめ比較し、悪霊とされる彼らを肯定的立場から観察し、実際のところ悪なのかというテーマで思考実験してみた。否定的立場から入ることもできた。その時はテーマへのアプローチの仕方を変えるだけでいい。そして抑えるべきポイントを明確化すると。肯定・否定というどちらかの立場に立つことで、テーマへのアプローチと抑えるべきポイントを探る。この作業を行うことが、議論を行った上で公平という立場で物事を判断する基準となる。故に最初から公平という立場に立つことは不可能である・・・少なくとも私は。

 話を元に戻すと、異種文化を忌み嫌う傾向にあるということについてであるが、それも単純に悪いと決めつけているわけではなく、否定的見解に立つことでその文化の良し悪しは、先ほどの思考実験の仕方で見えてくるわけで、しかしその否定的見解というのは自分の文化を肯定的に見ているからであることが多く、その自分の文化を肯定的に捉えているという前提も見直す必要性が出てくる。ある事象に関して肯定と否定に分かれた際に、議論が空中戦を繰り広げるのは、その事象でしか、その事象を基準にしてしか判断を行えていないからだ。つまり、なぜその見解に立っているのかではなく、その見解に立たせるに至る経緯を作り出す価値観という土台を考慮しなければならない、・・・場合も存在する。基準からの価値観へのアプローチではなく、価値観から基準へのアプローチを疑うとともに、価値観の構成物を探る。故に辿りつく価値観を異にする存在。価値観が根底的に異なれば、相容れることはほぼ不可能と言っていい。それでもそんな人たちとはうまくやっていかねばならない。まあ、まずは自分の意見を言わなければ話は始まらないが・・・。

 一つ一つを細かく見れば、良し悪しがそれぞれ判断できるものでも、それらが集まって構成される総合的な分野になると、一長一短があり一概に良し悪しを判断できない。実際そんなもんばかりである。だからこそ生まれる確執、混沌。よくそんな複雑な情報を(割り切りや、投げ出しを含め)整理して人間は生きているよなぁ。これも人間の良いところであり、悪いところで一長一短があるという・・・。終わります。

0 件のコメント:

コメントを投稿

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...