2014年7月21日月曜日

ジャッジ・ドレッド(1995)

ジャッジ・ドレッド[DVD]

~シルベスター・スタローン=正義~ 

〇世界観 
 裁きと処罰の両方の権限を持ったジャッジという存在が無法者を統治する社会。法で管理しきれない悪を暴力によって鎮圧する。

〇SFとスタローン 
 私の勝手な感想だが、「デモリションマン」といいスタローンはSF的世界観に妙に合う。 おそらく科学技術(デジタル)が進歩した世界観において、肉体派(アナログ)であるということのギャップがあるからだと勝手に解釈する。この映画でいえば、未来における(科学技術が進歩したであろう)荒廃した社会で、(それとは正反対の原始的な)暴力が支配する世界観だからというのが大きい。動かない機械に対して、ゲンコツを食らわせて動くようにするといった今ではクスりと来る場面も。今じゃ精密機械叩くなんてほとんどあり得ないですからね。

〇法の危険性 
・主観
 ジャッジが「私が法だ」ということで起こりうる合法的殺人の危険性を、ドレッドが殺人を犯したとされる冤罪事件で露呈させる。この世界ではジャッジという一人の人間が法を解釈し裁きを執行している。ジャッジという一人の人間の主観で動いているわけです。まあこれは最悪、お前気に入らないから死刑ね、みたいなことになるわけで・・・。警官とかで勝手に俺は権力を持っている、みたいに勘違いした人がドラマとかで描かれるではないですか。それと同じ現象がいずれはこの世界にも見られるという、そんな危険性を描いた作品なわけです・・・多分。

・対策
 ジャッジというシステムを作ったはいいものの暴動は年々増えており、このままではジャッジが足りなくなるという問題がある、と最初に言われている。それを解消しようと対策を講じたのが悪用されるという設定。 ジャッジの存続のための優秀なジャッジのクローンを作り、新秩序による秩序ある社会を作ろうとしていた。

 冤罪事件でスタローンが罪を犯したとされる証拠となったのが、DNA認証で撃てる銃。抜け穴の可能性として浮かび上がるのが一卵性双生児かクローンの存在。最終的にその計画は上層部は知っていたわけで(知らなかったけ?)、抜け穴があるシステムを採用している時点で未来にしては危機管理がおろそかでは? という疑問がぬぐえない。 


・問題点 
 この世界で起こる事件、裁き切れる事件は劇中で起こるドレッドの犯行とされる事件以外は現行犯に限る。計画殺人、誘拐事件、などの迷宮入りしそうな事件は皆無。その場で事件が起きていることを確認して、ジャッジを行う。この世界における犯罪を犯す者に対して、そんな頭が無いってことを皮肉っているのか。ドレッドの冤罪事件では裁判が為されていた。 監視カメラによる映像、そしてDNA検査なども行われている。罪に対して論議する場やシステムはあるにはある。しかし現行犯、捜査においてはジャッジの如何様な裁きと処罰を与えるかという判断が優先される。ジャッジという絶対的信頼のおける存在であるからこそ構築できるシステム。そんな絶対的信頼を揺るがすジャッジというシステムの穴が、ドレッド冤罪事件より明らかになる。

 現行犯に限ると言ったのは、ジャッジのシステム上直面した犯罪のみで量刑が決められるからだ。例えば過去に100人の命を救った者が、悪に奔り10人を殺したとしたら、10人を殺した罪(現行犯)だけで処罰されることになるだろう。そこにどんな理由があろうと。100人を救った聖人が、10人を殺す極悪人になる経歴を一切考慮しない。世間的に明らかにされないと言った方が良いか。となると犯罪社会を作り出してしまっている根本原因を絞り切れず、なんら社会にとっての解決策になっていない。ジャッジというシステムの利点は裁きと執行の効率化だけであって、防犯といった犯罪に対する抑止力にまるでなっていないのである。ジャッジという暴力による恐怖で犯罪者が抑圧されているではないかという人もいるだろう。しかし、ジャッジを超える暴力が出現したら。それを誰が抑え込むのだろう。正義が勝てばいい話ではあるのだが。そんな世界では決してないわけで・・・。ジャッジという正義の象徴であり、最後の砦でもあるものが屈したら、その先の世界に待つものとは何なのだろうか?

 まぁ、この映画の場合描かれる犯罪者が全員ドぎついから、そんなことを考える余地は生まれてはこないのではあるが。ジャッジと言うシステムは、世界を正義と悪という顕著な分け方をすることで、そこに暴力という単純なものを付け加えるヒーローものならではの描き方と言っていいだろう。現実にこんな世界は御免です。


(主観と関連して)
 仮面の存在。おそらくジャッジの中の人ではなく、ジャッジという存在であることを強調したいのだと思う。ジャッジが法であるので、それが個人の良心によって左右されてはならない。常に法に則って的確な判断を下し、ジャッジという任務を全うしなけらばならない。しかし、そこに危険性も潜む。中の人の慢心や油断、勘違いなどによって如何様にも法は解釈されてしまう。「私が法だ」という誤った解釈。法に則った解釈・判断ではなく、判断を下すのは人間だという、法の代行人ではなく、そのジャッジという中の人間が法になりうるという問題点がある。つまり「法 = ジャッジ」ではなく「ジャッジ = 法」ということになる。イコールで結んでしまったために混乱するかもしれないが、ここで言いたいのはどちらが先に定義されるのかということ。法ありきでジャッジがある、というのがこの世界の前提。しかし、ジャッジありきで法がある、という解釈もできてしまうということ。

 人間が絡む以上、主観が混じることは不可避。今日でも一般人と権力を有する者とで、量刑等異なる場合が見られたりする。その事実は確かに苛立ちを覚えるものであるが、主観の介入は何も悪いことばかりではない。先ほど書いたなぜ犯行に及ぶまでに至ったかという経緯を考慮に入れてもらえるからだ。まぁ全てが全て明らかになるとは限らないというのもまた問題で。全体と部分とを見比べた場合に異なる真実に辿りついてしまう場合というものがありまして、そこがまた面倒くさい。だからといって全てを監視する社会を作ればいいのかというと・・・、また違う問題が発生すると思うんですよ。どうしていくべきなんでしょうかねぇ・・・。

〇正義 
 ぐだぐだ書いてしまいましたが、この映画の放映当時はわからないが、シルベスター・スタローンという人物を知っている今の時代にこの作品を観ると、スタローン=正義が成立し、設定にあまり深入りせず(正義という)基準をはっきりさせる必要がないため、単純に悪を倒すという構図を楽しめる。 

〇余談 
 一昔前の時代を感じながらの近未来性があってこその世界観。その時代足る表現であるからウケルのであって、今の時代にリメイクとなるとちょっと違うのかなあ・・・と思ってみたり。 

 悪を暴力で鎮圧するというのがテーマではあるが、しっかりと反対派が上層部にいるからそこは感心した。 

 ロブ・シュナイダーとポール・ジアマッティ間違える。

〇最後に
 法とは人間社会においてどのようにあるべきなのだろうか。人間を裁くべき絶対的な存在がいない中、いくら公平を装おうが、人間は人間を人間視点で裁くことしかできない。人間間の問題であれば、関与しているのは人間であるために、加害者・被害者・第三者とそれぞれの立場に立って考えることが可能となるだろう。そしてその話し合いを深める場が真実を明らかにする場とされている?裁判というところだ。 そういった経緯を全て排除し、ジャッジという存在を絶対的正義として位置付け、それを基準にできるならば、今日の社会と比較して、悪とされるものに割かなければならない人員や費用、被害の規模等格段に抑えられるであろう。しかし前科や過去の経歴などを考慮できない。単純にその場で悪とされる者を排除していくシステム。現行犯であれば罪を犯したことは事実で、その場だけで言ったら悪と定義されて然りであろう。しかし・・・、というところを先ほどから書いているのでここではもう良しとしよう。

 つまり、正義や悪の位置づけなんてのは人によって、時によって、場合によって異なってくる。それを悪に奔った瞬間に排除するというシステムが浸透したとしたら、正義のみが存在する世界となり得るのか。ならないですよね・・・。

 さらには人外のものが関わってきたら・・・? 主には自然(地球)VS人間といった関係を見た場合ですかね。ん、これだと人間を特別視していることになるのか? この映画においてその事象は考えるべきところではないかもしれないが気になるところではあるな。これはまた次の機会にしよう。終わる。

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