2015年4月30日木曜日

神様はバリにいる(2014)


~縁~ 

〇はじめに 
 邦画における人間ドラマはやはり一級品だな。しかしこれだから日本はダメなんだ。これに味を占め、鑑賞者の感性のツボをおさえたと調子に乗り、別ジャンルの作品にドラマ部分をぶち込んでくる。そしてその人間ドラマに追随しない演出や映像を観せられたところで・・・となってしまう。さらに海外産のアクション映画に魅せられた者たちはこういった映画を物足りなく感じると言う。こりゃ邦画は伸びないわなと。日本人が邦画を応援してやらないでどうするんだ。まぁそんな私も邦画に対して特に魅力を感じていない者の一人だが・・・。以上偏見による戯言でした。 

〇想起する作品 
「LIFE!」(2013) 
日本でこの作品を作るとこうなるんだろうなと。 

〇こんな話
 アニキと一緒に・・・


〇めぐりあわせ 
 儲かる、勝ち組になる、成功するために。といったようなタイトルの本が、広告やら書店やらでよく目にするようになった。自己啓発ってやつだ。こういう行動や考えを持っていればあなたも絶対に幸せになれるといったような内容だ。しかしそれを読んだところで残るのはこうすればいいという行動の部分だけだ。なぜそうすべきなのかという原因、理由に関しての理解が伴っていない。方法しかわかっていないのだ。そしてそんな者たちは、すぐさま答えに飛びつこうとする。ざっくり言えばマニュアル人間だ。あるパターンにのみしか反応・対応できない。応用が利かない。基となるべき経験による裏付けや指標が無いからだ。

 この思考を創り出している原因は何なのか。学歴社会であろう(ことをこの作品では結びつけていたように思う)。学歴がものを言う。尾野真千子演じる彼女てるちゃんがそうだった。ひたすらに勉強勉強で優等生と言うエリート街道をひたすらに突っ走り、起業にまでこぎつけ、同業社がやっていないことに飛びつき、その業界の最先端を走っていたはずだった。しかし結果が出ず、業績は伸び悩み、借金もし、従業員も去って行った。それはなぜなのか。方法しか学んでこなかったからだ。経験により創り出された、臨機応変に対応できるような基軸のある独自の術ではなかった。そして人を観ていなかった。方程式に組み込むべき変数である人を、定数としてはめ込んでしまった。そして自らも定数だった。答えを最初から決めてしまっていたのだ。アニキに出会ってからも頻りに答えを求めていた。しかしアニキと行動を共にするにつれて、それは変わっていくこととなる。
 まぁエリート街道突っ走った自尊やうぬぼれが強い人間であるというのが、そもそもの原因なんですがね。自己啓発本も結局は成功した事例を載せているだけですし、方法云々を議論することもまた論点が違っていたりするわけだが・・・  

 結局は茶番劇なんですよ。そう感じるであろう人たち向けに、アニキという存在について我々の1つの疑問や意見が述べられている場面が存在する。彼の行動は「成り金の自己満である」「綺麗事だ」などなど。彼の活動は、傍から観たり、人伝に聴いたりした場合には誤解されるような行動である。側で手伝っていた人物たちもそのように感じていたりもし、現地人をないがしろにしていたとアニキが反省する場面も見られる。 

 縁という言葉が使われていた。アニキは人と人との関わり、めぐりあわせの中にこそ希望や夢があると思っている。そしてめぐりめぐって自分に還ってくるものがあると。さらにそれをまた他者にひたすらに恩返しをすると。その縁やめぐりあわせといった演出が何度かあった。主人公が最初にアニキに掛けられた言葉を、アニキが落ち込んでいる時にそっくりそのまま返すのである。そしてこれを成功する(した)というプラスの面だけを描いているわけではないところが面白い。てるちゃんはアニキと共に行動した経験により培われた価値観を本にすると言うのである。てるちゃんはアニキに出会うまでにどんな人生を歩んできたのか。どんな本を手に取ってきたのか。思い出していただく。そう、実はこれはまた同じように彼女のような存在を作り上げるという縁にもなっているのだ。 


〇余談
 裸の男を前にして、びしょびしょに濡れる尾野真千子・・・・すばらしかった。

〇最後に(注、私的見解です)
 日本人に日本語で言われることにやはり意味がある。
私は洋画主体で映画を鑑賞しているし、邦画に対して否定的な意見を多く持ってはいる。しかし日本のドラマはやはり一級品だと言いたい。洋画でいくらでも感動はしてきた。しかし外国語をネイティブに扱えない私にとっては、それは翻訳者や吹替者を通したものでしかない。感動に言語という壁や理解なんてものは必要ないのかもしれない。しかしその国の文化や人間の気質を知っているからこその表現に対して、解釈や理解に誤差が生まれてしまっているのは言うまでもない。そういった点ではやはり国産に限るのである。
 性根が腐った人間なんていくらでもいる。自己中で主観でしかものを判断できない、そして自分こそが正しいと勘違いをしているキチガイ連中だ。洋画における感動は、そういう連中に対して、「なんでこんな馬鹿な奴が生きていけるんだ?」といった否定的な意見しか持たせてくれなかった。しかしそんな奴らどうでもいい、自分が変わらなければって気にさせられる作品はやはり邦画による感動なのだ。おそらく、もしかしたら理解しあえるかもしれない、という希望を持たせてしまうのだろう、洋画と日本人という異国文化の交流は。この作品も異国人同士の交流を描いてはいるものの、言葉を日本語で、日本語の発音で綴られているために違った印象を受けるのだろう。
 誰とでも分かり合おうなんて、無理なもんは無理なんですよ。こちらの常識を、全く異なる価値観を持つ者に対して理解させる。逆もそうです、異なる相手の主張を理解する。そのためにはほんの少しでも共通項を探る、そして築いていく必要があるわけで、その共通項をまるで持たない、いや持てないひたすらに頑固で馬鹿な人間は数多くいるわけで。そんな者たちと無理に理解し合う必要なんてないんですよ。ほっとけばいいんです。そしてこちらが変わればいいんです。この変わるという行為を妥協するとは感じてほしくはない。割り切るぐらいが良いか。彼らの行動原理を理解するのではなく、同じ人間ではあるもののトんだ奴らもいたもんだという存在を認識してあげる程度。偏見だが、彼らは究極の構ってちゃんなんですよ。自分の存在を他者に認識してもらうための方法に悪戦苦闘している孤独な者たちなのです。わざわざこちらが振り回されてやる必要はありません。
 生きていく上で絶対にどこかしらで関わりを持たなければいけない者たちであるわけだが、これからのそのストレスや憤りを、割り切るといった気の持ち用で軽減できればと思う。
周りにおかしな奴がいる方、職業柄モンスターと関わらざるをえない方、是非この作品を観ていただきたい。

 そもそも邦画だと洋画並みにエグく表現できないという縛りがあり、宗教的な価値観も薄い。そんな作り自体に違いのある両者を比較していいのかという観点を排除し、こじつけに奔ってしまった。そして途中から愚痴になってしまった。
・・・猛省・・・。

シンデレラ(2015)

字幕翻訳:古田由紀子 


~ありのまま~ 

〇はじめに 
 ほんっとうに感動した。さすが、ディズニーだ。 
 最近世界は広いなとつくづく感じるわけだが、当にこの映画でそれを突き付けられる。 
 何席か隣にカップルが座っていたわけだが、予告編から合いの手を入れ始める。本編に入ってからはそこまでではなかったが、ちょくちょく感想を交わしていた。プラスな方向な言葉が飛び交うわけだが、エンドロールの半ばで席を立ち、携帯のライトをチラつかせ帰っていった。劇場の照明が点きその感動が押し寄せる。その者たちが座っていた座席に、喰い散らかしたゴミや、劇場で貸し出される備品が散在している。いったい彼らは、同じスクリーンで何を見ていたのか。すばらしい・・・これが、ディズニーか。 
・・・ま、私もその惨状を目撃してどうこうする気は起きないわけだが。 

〇こんな話 
 エラがシンデレラになるお話。

〇シンデレラ 
 引きずるわけであるが、あのカップルはおそらく義母とその娘たちに敬意を示していたのではないかと。意図してかせずか誰かしらに迷惑を、不快な思いをさせる。私もディズニーに対してはどちらかというとアンチよりなわけだが、彼らのようには徹することはできない。何という方たちだ、恐ろしい。 
 1つ偏見を述べさせていただく。こういう話を目の当たりにして、おそらくほとんどの方々がシンデレラになりたいと憧れを抱くわけだが、そんな中から彼らのような存在が生まれてしまうのは、自分がシンデレラになりたいと思うあまり、周りに同じように存在するシンデレラに憧れる人々のことに目が向かなくなってしまうことにある・・・のだろう。シンデレラに憧れるあまり、自分自身は義母や娘たちよりの存在に成り下がる。人からの見られ方ばかりを気にするあまり、自分自身を見ることができなくなる。そして他人のことも目に入らなくなる。終には・・・ 
・・・あれ、何かブーメランな感じがするからもうやめよう・・・

〇字幕 
 王子とシンデレラの両者が本当の姿で出会う時に、英語で何と言ったかは聞き取れなかったが、「ありのまま」という日本語に訳されていた。狙ったのだろうか。要望があったのだろうか。訳された方はシャレてるなと。短編であやつらが同時上映されているしなと。最近流行ってるテーマなんだろうな。 

〇汚い話
 清い心で観られない自分がいるんですよ。シンデレラの幸、不幸、幸(の繰り返し)という変遷を、それぞれの視点を交えることで徐々に演出していくのはさすがである。ディズニーの持ち味を十二分に発揮している。それは承知だ。そんなシンデレラという物語に関してどうこう言うのは、ナンセンスな気はするのだが・・・
・シンデレラの親父さんと再婚に漕ぎ着けるに当たり、義母となる方はいったいナニ
 をしたのかと
・秘密の花園とブランコは、いったい何を暗示しているのかと
・王子がガラスの靴に合う足を持つ人物を探すわけだが、ガラスの靴に足を入れ
 る・・・つまりこれは王子と多くの女性たちとの接合を意味するのではないかと
・王の死は、王子がシンデレラと夜を共にしたことで、父親となる準備ができたことの
 示唆なのではなかろうかと
ってなことに想いをめぐらす自分がいるわけで。

さらには、
義母と娘たちが何よりも醜く見える場面がある。シンデレラが母親のドレスをお披露目するシーンだ。そこでドレスを引きちぎるわけなのだが、心の中で叫んだね。使えねえ、クズどもだなと。胸元を引きちぎるんだよ、馬鹿が。終始谷間を強調するシンデレラであったのだが、そこは是非とも胸元を常に隠し、そのシーンにおいてはじめてお披露目するようにしても良かったのではなかろうか。シンデレラのくせに、大層なものをお持ちでとか何とか。ぐへへ。

〇余談
 シンデレラ役のリリー・ジェームズ、ミア・ワシコウスカに似てる。

 魔法が解けて、ガラスの靴だけなぜ残るのかと。ここにパピヨンを絡めていけば良いのに。悲しみだかが思い出に変わるみたいなのがあったじゃないですか。パピヨンが羽を休めている靴だけは、思い出となり残っている的な・・・
・・・そう表現していたのか?

〇最後に
 シンデレラという話は、王政や世襲制に対する皮肉が込められているのだろうか。

 意図してかせずか、決して王子とシンデレラという二人の存在だけで、この物語が完成するわけではないということを、ちょくちょく挟み込んでいるわけで・・・
義母のいじめのおかげで、シンデレラは王子と初見プレイができたり、
そもそもシンデレラがかわいく、清純に見えるのは、下品な彼女らの存在があるからで、その比較を王子は花嫁を選ぶということで暗にやっているわけで、
 多く実っていたかぼちゃではあるが、ゴッドマザーに選ばれしかぼちゃ以外は全て吹っ飛んでいったり。そんな選ばれしかぼちゃも用が済んだらポイと。ガラスの靴だけあればいいわと。
ダメだ、いろいろ反れる。いや逸れる。

・・・とてもすばらしい作品だと思います。

2015年4月29日水曜日

ソロモンの偽証 後篇・裁判(2015)



~真実~ 

〇はじめに 
 観終わって1つだけ残る謎がある。明らかにしたい真実がある。エンドロールに連ねられた名前は「ソロモンの偽証」という前後篇合わせてのものですか、それとも後篇だけのものですか。というものだ。  

〇想起する作品 
 「ゴーン・ガール」(2014) 
 「デタッチメント 優しい無関心」(2011)

〇こんな話
 裁判をはじめます。

〇関連性 
 前篇でも書いたのだが、人物の対比や対立がひたすらにうまい。そしてただの対立する勢力ではなく、それらはつながっているとするところが特にだ。簡単に言ってしまえば 

 「誰しもが、誰にでもなりうる」 

ってな感じだろうか。 藤野涼子が家から飛び出すシーン。父親が追いかけるわけであるが、突然雨が降ってくる。どこかで見たぞオイオイ。あ~松子だは、となるわけです。前篇において彼女たちの対比は描いていた。そこで家に帰っての父親の一言が気になるところだ。自分の家族だけは大丈夫だと思っていたと。子どもは事故になんて合わない、死なないってな意味合いが強い。松子を亡くした両親と、涼子を亡くしかけ、同じ境遇に成り得た涼子の両親。子どもたちだけでなく、その親たちの対比にもなっているところがまたおもしろい。誰しもが誰しもに関係なくないなんてことはない。 

 松子が真実から目を背け逃げ出したから死んだというような書き方を前篇ではしてしまったが、そうではなかった。彼女は解決の方法として最短距離を進もうとしただけだ。それを良しとするもしないのも人間関係の複雑で面倒くさいもので、それが今回は悪い方につながってしまっただけのこと。そしてその死する場面を樹理が見ていたのである。これで、樹理が涼子とつながるのである。列車に轢かれるシーンとだ。 

 大出が神原君を罵るのだが、後に柏木君が同じように罵っていたことが明かされる。
 樹理の容姿の変化は、松子の死に伴い変化させたのだろう。容姿コンプレックスにおいての関係においてだ。
・・・などなど多くあるのだが、前篇の方でこの描写・演出のすばらしさは勝手に力説したと思うので、後篇ではこれぐらいに。

・・・と思ったが少し気になるところがあったので取り上げる。

 最後の最後で樹理と柏木卓也を照らし合わせたところである。正確には樹理と松子の関係と、柏木卓也と神原の関係と言った方が良いのか。涼子が言うのである。松子ちゃんがいたから樹理ちゃんは柏木君のように自殺しなかったのだろうと。ここが何ともつながらないのである。仲の良い二人という関係と、男と女という対比。いざ比べてみるとしっくり来たりするのだが、劇中でそのようなつながりや対比が為されていたのかと。今までの話を想い返すのである。樹理と柏木卓也をつなげる。柏木卓也は、樹理は、それぞれ誰とつなげていたのかと。樹理のように真実から目を背けていた人物。そして柏木卓也と・・・  
劇中、柏木卓也ともう一人実は自殺を試みようとする人物がいた。誰だったか、藤野涼子である。この話すげえわ、と素直に感心する。天才かよ。 
 神原と松子の方から考えた方が早かったのか。樹理への理解を示すところだ。そして自らの過ちを誰かに知ってほしかった。そして裁いてほしかったというところだ。理解を示された樹理は健在であり、理解を示されなかった柏木君は自殺している。

 あと森内先生が黒の服を着ていたというのは意味があったのだろうか。前篇において藤野涼子と関連付けたであろうことを書いた。そして今回、「申し訳ありませんでした」と両者同じように謝罪するのである。そして外で彼女が泣き崩れる様は、「何で私がこんなことに」「上手くいっていたはずなのに」ってな責任転嫁をしているような感情に見えてしまう。どんな真実でも受け入れるという藤野涼子と対立するのである。

〇口 
~口先だけの偽善者~ 

に対して、 

「真実を語るのもまた口なり」 

そして、 

「死人に口なし」 

ってな言葉もある。観終わって正直な感想もっと欲しかった。もっとぶち込んで欲しかった。しかしこれぐらいに留まらせるのが、ベストなのだろう。ソロモンとは、裁定者とは誰であったのかというところなのか。

 神原君は柏木君に口先だけの偽善者と罵られるわけであるが、神原君の口から柏木君の死に関する真実が語られることになる。そして公衆電話の人物に関して、柏木説を唱えた時、証人と弁護人という構図でやり取りが行われるわけであるが、そこでは真実を述べるという誓いを立てていないのだ。裁判においては証言のはじめにはっきりと誓いが立てられていた。

 そして樹理が真実を語らず、死んだ松子に聴けと言ったのは、語る術を持たない者のお話で、前者と合わせて、ひとつの真実が出来上がっていく様を描いている。



〇真実 
 複数の人物による証言や証拠から真実を明らかにする場である裁判。どんな真実であろうと明らかにするということが強調されている。前篇の最後にも書いたが、その真実へと至る道を、大人になり出身校へ赴任してくることになった藤野涼子1人の口から語られるというのがミソなのである。

 証言において真実を述べると誓いを立てるも、偽証する者がいた。これは明らかに嘘であるとわかるように描かれるわけだが、そこを基点に裁判における真実の追求を眺めてみると、全ての事実確認は証言に限られることがわかる。そして藤野涼子という1人の語り部の姿を最後確認することで、そもそもどれが真実だったかなんてのが、聞き手には判断できないことを再確認するのである。しかし何かしらの真実を受け入れなければならないのである。

 実はその前にも疑うべきところがある。疑問に思った人は割と多くいたことだろう。裁判において決着を見た真実は、いったい誰からどのように語られたのかと。その真偽は如何様に確かめられるのかと。その人物の人柄か、経緯か、・・・。おそらくこれが現在の藤野涼子との対比になっている。



 彼らの裁判は14歳だからできたであろうことが最後藤野涼子の口から語られることになる。今の自分は大人になり、心がタフになり、自分をごまかせるようになったと。「嘘つきは大人のはじまり」というキャッチコピーは意図してか、意図せずか。 

 裁判に関わった人物で大人になった姿は彼女しか描かれない。柏木君から神原君へ、君は父親と同じ殺人を犯すことになるというようなことが語られ、運命といった未来を意識させながら、彼らがどうなったのかはわからないままなのである。ただ、友達になった、とだけ。しかし藤野涼子はお母さんになったと言っている。子を持つ年頃であると意識させているのだ。これが神原君が父親と同じ道を辿るのか否かという時期であるとする暗示だったのだろう。そしていったい誰と結婚したのか。中学の同級生の誰かだったのかと想いをめぐらせることも狙っていたりするのかもしれない。


 校長は学校内裁判という伝説を創り上げた藤野涼子がスーパーマンだと思っていたと大げさであろうが、そのような表現を使っている。今までの伝説から修正しなければと。伝言ゲームと同じだ。どこかで改変され、独り歩きを始める。伝説のおかげで、いじめや自殺が起きていないとも言っていた。藤野涼子の語る真実とは多少のズレがあるお話でだ。そしてそれはおそらく彼女が把握している場所では、と付け足した方が良いだろうが、それはここではやめておこう。


 過去話がだんだんと美談になるのは必然だろう。マイナスの面がカットされていく。それが歴代校長の伝承で証明されていた。それが藤野涼子自身の中でも実は起きているのだ。当時は怖かったということが語られる。そんな恐怖にどう立ち向かうのか。大人になれば心がタフになるといったようなことを言っていたが、それは少し言い換えることができる。自分の心が耐えられるレベルにその事実の解釈を落とす、ということだ。震災における被害者で、それをタネに飯を食っているなんてのが最近ネットで騒がれていた。証言が変わっていると。どこまでが真実でどこまでが嘘なのか。この話の真偽は定かではないし、知りようがないので深くは抉らないが、ひとつ言えることは、ウソってのは故意によるものだけではないということ。本人が自覚していない場合があるということだ。さらにはそれこそが真実であると信じている場合すらある。そんなことに想いをめぐらし、劇中一番に自覚無く嘘をつけたのは誰なのかとソロモンについて考える。いや、そもそも劇中で嘘をついていない人物を探す方が手っ取り早いわけだが、ソロモンはいったい誰だったのだろうかと。裁定者とは誰なのだろうかと。



〇不可視 
 この話で一番に見えてこないのは、柏木卓也がなぜ死ななければならなかったのか。死ぬことを選択したのかというところだろう。ここの闇の部分、動機となる部分の説明が描かれていない。

 仮に描かれていたとしよう。それを観て理解できるのかと。共感できるのかと。年間3万人の自殺者がいる中、どれだけの者たちに目を向けてきたのだ。わたしゃ一人も知らないね。周辺の人物が自殺したとしよう。なぜあなたは止められなかったのかと。私を含めそんな者たちがどうのこうのと結果論で判断し、死ぬに至る経緯を知ったかぶって語ることをしてしまっては、この作品の意味が無くなってしまう。なぜなのだと、疑問を呈することを否定しているわけではない。むしろそちらは推奨する。答えを1つに、簡単に決めつけてしまっては困るのだと。

 藤野涼子が最後神原君に語る。誰もあなたを裁けないと。罪は背負っていくしかないと。いつか乗り越えなければと。

 なぜ劇中に起こる出来事を、それぞれの人物において、別の場所・時間において照らし合わせられるように描写したのか。最後陪審員がなぜ「皆を信じよう」という言葉を使ったのか。柏木君が神原君に対して、「口先だけの偽善者の言葉がどうして心を動かすのか」と訴えたのは。神原君が辛い過去を受け入れ、これから待ち受けるだろう過酷な未来を展望して尚「それでも生きていく」と言ったのはなぜなのか。是非考えてみてほしい。 
・・・と知ったかぶる口先だけの偽善者である私が言ってみる。  


〇大人 
 裁判の開廷と閉廷において収拾がつかなくなる。そこに松子の父親、裁判の開廷を許した教師が支えていたりする。そこがまたいい味を出している。 


〇最後に 
 平祐奈はこの後篇に出ていたのですか。最後に名前が流れました。しかしこの後編の劇中では発見できなかったんですよ。それだけが心残りだ。次は内容ではなく、平祐奈を探しに行きます。そこで、真実をはっきりさせましょう。

P.S.
二回目鑑賞するも発見できず・・・
後篇だから、前後篇合わせてのものだろうな。

2015年4月27日月曜日

忘れないと誓ったぼくがいた(2015)



~証明~

〇はじめに 
 もっと感動ものとして、くどくできたと思う。しかし敢えてそうはしなかったのだろう。彼らに共感するというより、我々を彼らの観測者・目撃者として位置づけたかったのではなかろうかと。そして彼女を忘れてしまう彼を主体に描いたというのも、また奥が深いのでは・・・ 

 おそらく今日の社会(今も昔も)において窮屈に生きている人は、自分が見られたい、認められたいと思って生活していることだろう。しかし逆の立場にも立ってみなければダメなのだと。目線を変えなければ、というようなことが織部あずさの口から語られる。世界から忘れ去られようとする彼女からだ。今までの常識とされる(自分だけの)世界に囚われるなと。時折彼女の口から気になる言葉が散りばめられる。ここが魅力的だ。
  
 彼女の、期待と不安のあの顔が堪らない。あの笑顔を見せられたら・・・。 

 そしてあの悲しげな、さみしげな表情が、笑顔が映えるだけに心を打つ。

 こんな話前にもどっかで観たし、聞いた、いや読んだのか??記憶がある。このデジャヴ感。でも何なのか思い出せない。←要はこれと同じ現象でしょう。 


〇こんな話 
 誰からも忘れられる存在となってしまった織部あずさ。しかし唯一彼女を忘れない存在が現れる。はてさて・・・。 


〇忘れる 
 ある老夫婦。妻に自分を忘れられた夫が言う。二人で過ごした時間は残るんだと。どちらかが忘れたとしても、どちらかが覚えている。そしてどちらも忘れたとしても、二人に関与した誰かしらが覚えていると。そんなところではなかろうか。この老夫婦にしてみれば、織部あずさがその観測者であり、そこがまた何とも皮肉である。そして認知症である老婆が、彼女に旦那さんへどうぞと一対の金魚の折り紙をプレゼントするところがまた何ともやるせない。 

 結局忘れてしまうなら、二人の行動に意味があったのかと。我々が観ていたではないかと。おそらくこれなんではないのか、言いたいことは。結局彼らのことを忘れてしまう者もいるだろうが、この作品を生涯の一本にする人がいなくはないだろう。そして忘れてしまう人たちのこともこの作品はおそらく擁護している。



 最初にぶつかった場面を想い返す。自転車で彼女と衝突しかけた。いやぶつかってたか。過去にタカシが誕生日にプレゼントしたペンダントを観せる場面ではあるのだが、それよりも気になるのは、彼が転倒したことで痛みを感じていることだ。彼が彼女を覚えているというのは、愛し合う者だからという特別感からという解釈もできるのだが、ここでは少しひねくれよう。実は彼女と彼を結びつけていたのはこの痛みだったのではなかろうかと。別の場面でこの衝突事故によるものではないのだが、絆創膏を執拗に映し出していたのもこれ関連だったのではなかろうかと。彼女を忘れないように絆創膏をはがさないと注意書きがあるものの、絆創膏は傷が癒えればはがすのは当たり前の物。彼女という記憶と、傷が癒えることによりだんだんと薄れていく痛みとが結びついていたのだ。では、その痛みとは何なのか。 

 記憶は五感と強く結びつく。音や匂いで何かしらの記憶が呼び起こされたことが無いだろうか。とある音楽や歌を聴いときが一般的か。そして痛みは物理的にも精神的にも強く記憶に刻み込まれる。あまりここで議論する気はないが、体罰という指導法が確立しているくらいだ。痛みに伴う記憶とは良かれ悪しかれ即効性があり、根深く刻みこまれることこの上ない。しかしその記憶は、刻みこまれるきっかけであった痛みによる恐怖でしかなかったりする。その痛みを二度と味わうまいと、制限された行動をとる。自らの意志ではなく、仕方なくだ。いったいなぜそのような制限が設けられているのかという真の理由に辿りつく者は少数であろう。それは指導者も例外ではない。本来の理由そっちのけで、痛みを避けること、与えることが理由になってしまう。自らの常識として残るものはあるかもしれないが、多くの者はそこに理由は伴っていないのだ。 
この思考だと、
「主人公 ― 痛み(恐怖) ― あずさ」
と結びついている。最後の二人の姿を想い起こす。タカシはあずさという名前しか覚えていなかった。必死にあずさという名前を繰り返し、忘れないようにと努力していたのにも関わらずだ。そして思い出した時には遅かった。

 痛みを経験しないように、彼女と仲良くする。そして好きになる。

 痛みを避け、遠ざけ、痛みは消えていく。それとともに彼女という記憶も消えていく。

 彼女を忘れてはいけないということは覚えていたが、なぜ忘れてはいけないのかという理由が伴っていなかった。名前だけが手掛かりになっていた。故に彼女を忘れてしまうことになる。
・・・う~む、しっくり来ない。人を好きになるのに理由が必要かと。これを付け加えるか。彼女を好きになるきっかけであった痛みを忘れてしまったと・・・。記念日を覚えていないカップルや夫婦の末路は如何にってなところか。・・・ようわからんくなってきった。


 いや、痛みが彼女を結びつけているのではなく、彼女とは痛みそのものだったのかもしれない。誰も好んで痛みなど経験したくはない。避けて通ることだろう。そして忘れてしまうこともまた痛みである。それに立ち向かっていく彼女を愛する者の存在。そこに希望があるのか。


 時の流れを感じさせる描写として、野球部の活動も描かれている。三年生云々と監督がノックを行うときに叫んでいるのが、次の画では新人戦云々になっている。三年生の存在が無くなっているのだ。主ではなくなっていると言った方が良いか。時間こそが思い出を、思い出として残すものであるが、逆に無きものにもする。忘れてしまう。 


〇存在証明 
 この最初に二人が出会った場所において、織部あずさがタカシにこの場所がわかるかと問う場面がある。タカシは首をかしげる、そして我々もおそらく???が浮かぶことだろう。しかし、その場所が引きで映し出されることで、納得する。昼と夜の違いはあれど、ここは二人が最初に出会った場所だと。ここで察することになる。記憶することの重要度、優先順位、記憶の仕方、結びつかせ方は各々異なると。記憶の重要さは人により異なる。

 記憶・記録媒体にカメラや、パソコンを見せる。その記録は断片的なものである。全てを記録はできない。できたとして、それを見返す、思い返すには同等かそれ以上の時間を要することになる。何より人間の身体こそが記録媒体であることを忘れてはならない。人間は入ってくる情報を制限しており、時とともに必要な情報を選別していく。取捨選択していく。いったい幼稚園や保育園に始まり、小学、中学、高校と、どれだけの人物を覚えているだろうか。誰だっけ?という人の方が多いことだろう。それと彼女が忘れられていくという現象は同じと言っており、理由は明かされず(理由は無い)、彼女の口から語られるに限られる。その程度のものなのだ。忘れるという現象は。彼女の言葉を一言一句記憶できない、記憶する必要が無いのと同じ。彼女の語る忘れられる理由は、普段の彼女の発する言葉の価値と何ら差は無い。ただ何かをきっかけにして誰かがどこかで特別に記憶しているかもしれないという違いがあるだけ。

 あなたはすれ違った人を全て覚えているか。言葉を交わした人を覚えているか。そもそも覚えている必要が無いのだ。人間は個を守るために集団を形成する。そのために必要な情報を正確に迅速に取り出せる機能が重要視されるようになった。そして今日の高速化・光速化する社会においてそれは顕著である。ここに苦労やストレスを感じてしまうのである。人と人との関係性が希有になりつつあると騒がれているだろう。他人を待てなくなっているのだ。そして待ってくれないのである。その流れに乗り遅れるなと、そもそも乗る必要があるのか。

 しかし人間という集団において、自分の存在を証明、定義及び定着させているのは、他人なのである。自分が何者なのかという証明。名前や年齢、性別、家族、友人、恋人、学歴、職業、役職、住所・・・などなど。身分証明書は?となるかもしれないが、その証明書は誰かに自分を証明するものではないのか、と言えばご理解いただけるだろうか。

 世界、社会、集団の中において自分の居場所はどこなのか?と。そんな迷いや悩みを抱えている人は多くいるのではなかろうか。そんな感情を世の中の汚い(だけではないが)部分をひたすらに排除して、ピュアな二人に焦点を当てて、忘れられるというテーマで考えてみました、というのがこの作品なのではないだろうか。自分の存在は何なのか。何のために存在するのか。一度見つめ直してみてはいかがだろうか・・・

〇最後に 
 二人の表情につきる作品だと思う。織部あずさの、期待と不安で彼を伺う貌。安堵、喜びの笑顔。自分が忘れられていく物悲しげな顔。そしてそれを引き出していくタカシの微妙に変化する態度。すばらしかった。   

2015年4月25日土曜日

名探偵コナン 業火の向日葵(2015)

~レイクロック~ 

〇はじめに 
 劇場版第19作目 

〇こんな話 
 私は灰原哀。最近気付くと工藤君を眺めてるわ。事件を推理する時の彼って何か惹きつけられるのよね。そんな私の様子を見て、茶化す人たちがいるようだけど、この感情にまだ名前は無いわ。勘違いしないことね。

〇プレッシャー 
 飛行機の緊急着陸において、酸素マスクを観せ、後々活かしていくのはさすがだ。なぜ酸素マスクが必要になるのかと。高層ビルからの札束ばらまき、美術館からの湖への脱出につなげる。 
 要は圧力が関係しているわけなのだが、気圧、水圧ときて実はもう一つあるのだ。おそらくほとんどの方が笑って流しているであろうシーンだ。とある人間が掌底打ちで壁を破壊する。それが何だ?と。その人物は如何様にして掌底打ちをするに至ったのか、思い出してほしい。怪盗キッドとコナンに詰め寄られていなかっただろうか。
・・・つまり、プレッシャー(圧力)を与えられている。 
・・・つまらんか・・・・ 

〇シャレ 
 最初にニューヨークの街並みにの文字が光る。なるほどマクドナルドの創業者がレイ・クロックという人物なのか。 
 これを踏まえ、劇中に登場するレイクロックという単語を、レイク・ロックと区切るのではなく、[レイ]と[クロック]に分けると考えると、 
[レイ]はおそらく、[ray]で視線と掛けている。あるおばあさんが言う向日葵の花言葉、「私はあなただけを見つめる」というところだ。そして見つめているのは誰なのか。灰原哀だ。彼女はどのような人物だったか。声優をつとめる人物はというと、林原めぐみさん。ray、rei、れい、レイ・・・・なるほど。 
 灰原哀の件はこの作品に必要だったのかと疑問や不満を感じている方は、是非参考にしてみていただきたい。 
 [クロック]はわかりません。ウィキペディアによると、 
「周期的に電圧が高い状態と低い状態をとる信号」 
だそうで。圧力関連かな。 

 あとは犯人の動機となる部分。これがまた何ともおもしろい。鑑定士という役柄だった。芸術品とはどのようなものなのかと。鑑定士に評価されてこそ意味がある代物たち。つまりは鑑定士のお眼鏡にかなったものこそが芸術品と位置づけられる。それ以外は断じて認めん。焼いちまおうということになるわけで。で、何が言いたいのかと。犯人はメガネをかけているのである。ただそれだけ。
・・・あと劇中に登場するメガネを掛けている人物は皆目利きだったりするんですよね。

〇ひとつの真実
 いずれ・・・・書く。

〇余談
 キッドとコナンが新一の姿で並び立った際、灰原哀が一目で見抜くシーンはいずれ描かれますか??

〇最後に
 これからの劇場版は、蘭に博士の道具を持たせた方が良いと思う。

2015年4月24日金曜日

フラットライナーズ(1990)

フラットライナーズ[DVD]


~死の探求は、生の探求でもある~ 

〇こんな話
 死ぬことや、死後の世界に興味を抱いている医学生たちが、臨死体験によってもたらされたものにより、今まで気にも留めていなかった過去を見つめなおし、清算しようとする(清算というとちょっと違うかも)、お話になってしまうのかな。 記憶の奥底に埋まっていた罪の意識で幻覚が見えるようになり、結果的に自分で自分を罰するようになる。自分はその罪に対してこうあるべきなんだ、という思い込みがそうさせるのだろう。いや結局はただの自己満足なだけかもしれない。罪は償えたとしても消えることはないのだから。 

〇差異 
 人類は言葉・言語の発達により、他人の気持ちを100%理解できなくなった。しかし、だからこそ人と人とのコミュニケーションが必要であり、可能となっているとも言える。
 こんな経験ないだろうか。考えていること、頭の中ではうまくまとまっていたことが、いざ書き出してみるとうまく書けない、いざ言葉に発してみようとするとうまく話せない、といったことだ。確実に頭の中にある考え、書き出したもの、話したものの三者には確実に誤差が生じる。さらにはそれを他人がどう感じるかってところでまた誤差が生じるために、他人に伝わるころにはあなたの頭から出たものは、究極別ものになっているかもしれない。そんな誤差が存在するから、その誤差を埋めようと・無くそうと、人は歩み寄ろうとするのである。しかしそれが常に歩み寄ろうと働きかけるとも限らない。離れるという選択も為されてしまう。そこがまた難しいところなのだが、ここでは自分と他人との間には必ず誤差が生じ、例え違う意見を有している者同士でも、ある程度の妥協や打開策により歩み寄りをみせるということをご理解いただきたい。

 思っていることがそのまま相手に伝わればいいのに、と思うことがしばしば無いだろうか。この感動を、喜びを、共に分かち合いたい。この怒りを、この憎しみを、そのまま相手にぶつけてやりたいなどと。テレパシーのようなものが意思伝達手段として発達していればそれが可能となったであろう。考えていることがそのまま相手に伝わる。これほど便利な意思伝達手段はないだろう。
 しかしだ、仮にテレパシーのような力が発達していたら、おそらく人と人とは歩み寄ろうとはしなかったのではないだろうか。そのまま相手の考えていることがわかるのである、伝わるのである。もうその時点で関係が終わってしまうではないか。もう他に何もする必要が無い。それぞれが持つ意思の是非で互いの関係性が決まってしまう。こいつとは分かり合える、分かり合えないというのが即決できる。待て待て、違う者同士が共通項を見つけようと歩み寄りを見せることが、(歴史的に見た?)人類の強みであるはずだ。それを失って我々はどこへ向かおうというのか・・・。

・・・というのがおそらく根幹にあって、基本的に過去の主人公たちのいじめなども問題になってくるのだが、その時の当事者たちの気持ちなんてものは時が経ってしまえば正確には誰も知り得ない。いじめた方は忘れても、いじめられた方は忘れないというけれどそれは正確ではない。記憶なんてものは時間が経てば経つほど自分の都合のいいように改竄されるし、その度合いは小さくも大きくもいくらでも変化する。何もいじめを一括りにするわけではないし、いじめの加害者側を擁護するわけではない。感じている事は人それぞれで、何か被害に遭ったのであればその被害者が感じている事、それが真実(主観的事実)となるのは確かだ。歳月を経てそれが如何様に変化しようともだ。それは変わることはない。
 しかしそれは両者に適用されるわけで、一方的な関係性では無い。いじめという相互関係において歩み寄りや、関係の途絶を選択できなかった。いじめる事、いじめられる事の継続を両者が選択したということは、それが両者の関係性の限界だったわけだ。その限界が悲劇的な結果を生むこともある。その結果の被害者がどちらかはわからない。いじめの過程を見れば、いじめの加害者が悪だ、や、同情の余地は無い、などとなるかもしれない。
 しかしそもそもだ、その考えに至ってしまうのは人間同士の関係性を、そのいじめと言う相互関係における両者間だけに限定してしまっていることにある。全くの赤の他人、地理的な問題を考えればそこへの介入はほぼ不可能である。そこが言語を選択した弱さでもあるわけだが、周辺の人物であれば介入の余地はいくらでもあったわけだ(実際当事者になった際に介入する動機があるかは別として)。限られた関係性で事態が完結するに越したことはない。大きく言ってしまえば、何のきっかけが国際問題に発展するともわからない。
 現在に至るまでに築かれている偏見や差別。それの解消も夢物語では決してないだろうが、実際問題不可能であろう。ここまで世界が複雑化したのは、言葉を選択したことによる意思伝達における誤差、人間の表と裏、本音と建前によるものであることは誰しも知っていて、しかしそれを解消しようにもさらにそこに勘違いが発生することで、また新たな問題を生むことにつながっている。
・・・要はだ、人間関係において問われている課題は、直面する問題の解消にわざわざ不特定多数の他者を介入させることで被害を大きくするリスクを負うか、当事者間だけで解決を図り想定し得る最小限の被害に留めるかということになる。


〇最後に
 だめだ、何を言いたかったのかがさっぱりになってしまった。
うぅっ、頭が・・・・悪い・・・・

寄生獣(2014)



~価値観の衝突~ 


〇はじめに 
 原作未読者です。 

 本当におもしろかった。種VS種という難しいテーマを、ミギーの時折挿まれる核心をついた意見とかわいらしさ(ギャグ要素)で、価値観VS価値観というカタチにうまく昇華されており、劇中で説かれる価値観に対してくどさを感じない。説教っぽくないんですよ。要はこうゆう考え方もあるけどどう思いますかと。相手側にも立って考えてみない?と。  

〇想起する作品 
「今日も僕は殺される」(2007)
「デイブレイカー」(2008)
「ザ・ホスト 美しき侵略者」(2013) 
「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」(2014)
「鉄腕バーディ」 
「東京喰種」

〇衝突 
 価値観の衝突の描かれ方が何ともおもしろかった。端から人間という存在を、行動を見たらどう感じるのか、というのを最初にミギーが提示する。最初は母親という存在だった。そして剣道を殺し合いから派生した云々かんぬんと。弓道を剣道の近接系から比較してこれが遠隔での戦い方かと勝手に納得したりする。今まで当たり前すぎて、改めて定義する必要の無い情報を、いざ言葉で聴いてみるとそうだなと納得してしまう。そして体を剣に変えたり、弓に変えるのにも一応繋げてはいる。まぁ訓練要素は少し欲しかったかなと感じるものの、そんな余裕は無いぐらい侵略が強かだったと感じれば解消されるか。それに混じってるしな。 

 そして寄生生物たちを化け物や悪魔と呼称する人間。それに対してミギーは悪魔に一番近い存在は人間の方ではないかと。ガツンときたね。人間の捕食シーンは何度も描かれていた。そこに嫌悪感を示すことは間違いないだろう。しかし度々ミギーが説くのである。それは人間の価値観であると。毎日の食事、目の前の死んだ生物たちを食すことに嫌悪感を示すだろうか。同じ生きるためという理由に関わらず、誰がトンカツを食べることと、人間の捕食が同義であると割り切ることができよう。我々は無知、無関心に残酷なことをしているのである。そんな人間たちが、他の種に対してやっていることにいざ晒されると、悪と定義するのである。なぜなのか。人間の命は尊いものだからだと。人間の精神が非合理的であるが故と、短絡的に結論付けて良いものだろうかと。 

 つながりを重んじる人間と言う存在。親と子、男と女、この二者が主か。そして他にも友人、先輩後輩などなど集団を形成していく。そんな関係性のおかげで、人間は知らず知らずの内に優先順位をつけているのである。そしてそれが適用されないものたちには何の興味も示さない。
 人間の活動が他の種に対してどれだけの影響を及ぼしているかを気にしながら生活している者がいるだろうか。足元をいつも眺めながら蟻を踏まないように避けながら歩いている人がいるだろうか。スーパーの食品棚に並ぶ品物を見て、どこまで思考をめぐらすだろうか。何とも思わない、当然のことであるかのような思考。これは人間の都合の良いような思考だ。しかしそれが我々に近しい存在になるにつれて、何かと気にしだす事が増えていく。車に轢かれ道端に倒れている小動物を見て、少なからずかわいそうだと思う人はいるだろう。そしてそれが人間ならどうだろう。今や他人に関わるな、が常識となりつつある社会であるが、同じ人間と言う種が、一番に目につく、気にする対象ではなかろうか。そして自分との関係の度合いで勝手に優先順位が付けられ、生と死に関して何か特別な感情を抱くのである。それを無自覚に種と種を見比べた場合に、人間が一方的な被害者のように感じてしまうのである。無自覚故に人間同様の思考が他種には適用されないのである。そこが人間の愚かしさなのである。
 里美は道路に横たえる子犬をかわいそうとは思っても、何も行動を起こそうとしなかった。しかし母親がいなくなった新一には手料理をふるまおうとしているのである。この違いである。

 そんな思考にこの作品はうまく付け込んでくるのである。最初から他種を見てどう思いますか、というのではなく、人間とはこういう生物ですよねという提示を行ってから、人間に関する疑問点を羅列する。まぁ、その前に人間が喰われる様が描かれているわけだが、完全に敵対するような存在に対してのアプローチとして、ミギーの価値観の提示が良いアクセントとなっている。  

〇Handjob 
 鑑賞中にふと思ったのである。寄生獣という作品はHandjobに着想を得たのではないかと。自分の命が尊いが故に自分を慰めるのであろう。この映画で説かれる人間の価値観そのものではないか。そしてこの作者はおそらく右手派だったんだろうな。いやミギーに右手をとられるから左手派だったのか。ミギーのナルコレプシ設定、これは賢者タイムだろう。何をする気力もなくなる。眠くなる。結構な体力使いますからね、あれは。 
 母親なり、生殖なり、種の存続的なところがテーマとなっているのでしょう。あながち・・・・ないかな・・・

〇最後に
 完結編を観てから載せようと思っていたが、復習上映において再度観る機会を得たので、それに伴い載せる。

 2回目を観終えて、何ともおもしろくなかったのである。なぜだろう。一回目のときのような感動が何1つ無いのである。設定を置いている感じがするのだ。ただ置いているだけ。わからないなりに考えてみる。

[人間] ― [新一] ― [寄生生物]
という関係性で、唯一二者の板挟みに遭い、価値観の衝突をひたすらに行う新一という存在を中心に描かれる(詳しくは人間よりのミギーと新一、寄生生物よりの田宮良子ということになるのか)。この構図は興味をそそる。主人公の特別感は見事だ。敵対する寄生生物に目をつけられる。そしてそれを認知していく一部の人間の存在。ハイブリットになった新一はどのような決断をし、どのような結末を迎えるのか。少年漫画ならではのおもしろさか。
 母親という存在の特別感を、新一の母親、田宮良子の妊娠、娘を見分ける母親(田宮良子の母)で定義しようとしている。そして寄生生物は何のために存在するのかということを見つめることで、人間とは何なのかということにも関連させる。その上で価値観の衝突が意味を為してくるわけなのだが、そこが何とも浅はかに感じてしまうのだ。安っぽいのだ。
 ボス的な奴が人間という種を喰い殺す命令を受けてるどうのこうのと。新一が寄生生物たちを殺すことがやるべきことだと。この対立の確立が完結編に向けてつながるのだろうが、先ほどの構図で、主人公が寄生生物を倒していくだろうことは予想できてしまう。何ら主人公の決意に意味を感じないのである。価値観の衝突による哲学よりも、バトルが目立つ。殺し合いを通して、全面的な戦いを選択する決意の堅さを現そうとしているのかもしれないが、う~む物足らんぞ。
 結局はじめに鑑賞した際の私がおもしろいと言っていた部分は、ミギーのジョークともとれるような言動のみだったのだ。あれ・・・・こんなはずじゃ・・・??

 完結編は何かしらあるのだろうか・・・

2015年4月23日木曜日

カイト/KITE(2014)

字幕翻訳:松崎広幸


~A Beautiful Monster~  

〇こんな話 
 政府、経済体制が崩壊した未来。ナンバーズという組織が子どもをさらい人身売買が為されるような無法地帯が広がる。その中で繰り広げられるサワの復讐劇。 

〇サスペンス 
 復讐に取り憑かれたサワの、両親の仇となるエミールに辿りつくまでの盲目的な道のりの表現はなかなかにおもしろい。アンプという記憶障害を引き起こす薬物や、組織の芋づる式感をうまく織り交ぜている。 
 エミールと繋がりがある人物から遡っていくことになるわけだが、頼みの綱となる情報が名前や居場所だけなのだ。ターゲットとなる人物が、トイレにおいて名前を擦り付け合う様はツボだった。
聴き出した情報の選別・精査がまるで為されず、その情報を鵜呑みにしターゲットを抹殺していくサワ。間違った情報によりエミールに囚われることになり、それを指摘される。
 そんな彼女の少女故の真っ直ぐな思考が、復讐や薬物に取りつかれるところにつながるのだろう。復讐と薬物ともに中毒と言う言葉が使われている。
 はてさてサワはいったいどこに行きつくのか。 

 これにより、両親の死の真相を追い求めていくサスペンス要素が強調されるわけだが、最後のネタバレにおいて何とも物足りないのである。アカイがサワの面倒を見ていた目的が最後明かされるわけだが、ここで重要なのはアカイの目的ではなく、サワがその目的のためにアカイに利用されていた事実を決定的に印象付けることだ。そこがとても中途半端になっており、残念なところだろう。原作は18禁アニメということで、おそらくサワの弄ばれてる感をもっと表現していたのではなかろうか。要はエロ要素が足りんと。  

 しかし最後、復讐に取り憑かれいたサワが、最終目標であった人物に辿りつくまでに殺しを生業としていたにも関わらず、仇を生かしたという変化が何かしらの希望につながるのか。彼女のこれからの幸せと言うか。きれいにまとまってはいるか。 
・・・そういう話だったのだろうかと。両親の仇となる人物とはおよそ関わりのない者をひたすらに殺してきた彼女が、いったいどんな幸せを掴めるというのか。と、疑問に思ってしまう人も多いことだろう。  

〇最後に 
 あんまし、おもしくなかった。

2015年4月21日火曜日

監視者たち(2013)

監視者たち[DVD]


〇はじめに 
 ヒロインの笑顔が見事に映える映画だな~。うむ、かわいい。
時折、高岡早紀に見えたり、最後は深田恭子に見えたり・・・。是非、堪能していただきたい。 



〇こんな話 
 子豚が子鹿になつお話。


〇制限 
 人は全てを見ているが、見たいものだけを見ている。見たいものだけを記憶する。 

 サスペンス、ミステリーのおもしろいところはここですよ。何この演出?と見逃すというか軽視していたものが、後につながりを見せ、なるほどと頷かされる。銀行強盗の犯人の逃亡を手助けした男の素性を暴く時も、そういえばコンビニで現金ではなく、カードを使わされていたなと。小銭を出すのに手間どい、本人の意図ではなく店員にカードを使わされてしまっていたんですよね。ここで私はこの映画に惚れましたね。 

 あと首と腹を狙ってくるというのを、写真家だか盗撮魔だかの家でコメディチックに観せておいて、後々腹に雑誌を仕込ませておくと。雑誌手に取るところでは読めんかったな~。


 人は入ってくる情報を制限している。処理しきれないからだ。それを主人公は全てを記憶していろと言われる。それ故に目の前の悪を見逃せない。割り切れない。この行く末は・・・。 

 この辺をもっとえぐってほしかったな~。チームのというか班長との交流の1エピソードにしか過ぎなくなっているんだよな~。いや、それが逆にチームと新人との関係性を描いていく上での良さにもなってるんだけど。先輩の死の時に怖くて動けなかったなどがありはした。如何に対処できるように頭の中で思い描いていようと実践となると違いが出る。それを繰り返していくことで彼女が成長していく。その成長の様は良かったとは思うのだが、成長を追っていくのならば、この辺の割り切りは必要不可欠なのではなかったのかと。目の前の悪と規則とで揺れ動く主人公をもう少し見たくあった。せっかく悪の大小みたいなことを言っていたのだからな~。でも割とスッキリ終わっているからこれはこれでまたおもしろくはあるのだが。


〇統括者
 銀行強盗におけるビルの屋上から全てを見聞きしている統括者の有能感が半端ない。そして完璧主義者である演出も。経験豊富であることも伺える。その後主人公の監視者としての技量をアピールと。でも新人である。対立のさせ方は見事か。そして癖も良いよね。「MONSTER」の警部を想い起こしましたよ。

 捕まるまで法に縛られない犯罪者と、犯罪者を捕まえるのに法に縛られる警察という対比を、経験豊富な犯人と、新人警官でやると。要は割り切れるか割り切れないかと。大きな犯罪を挙げるために、目の前で起こる小さな犯罪には目をつむる。つむらざるをえないのをどう割り切るか。マヌケマヌケと連呼されたり、子豚などと馬鹿にされたりするが、それは巨大悪に立ち向かう上での、正義故の純粋さみたいなものなのだろう。 さらに最初の試験でのレストランにおける班長との対面を、後の犯人との対面と照らし合わせたのもおもしろい。この2人は統括者であるというつながりだ。地図上でそれぞれの人物のコードネームを模した駒を動かす班長と、誰よりも高いところで状況を把握し指示を出す犯人の頭。「犯人VS班長と新人」の対立が確立するわけで。いや、新人の適性が犯人と班長のどちらにも転びうるということだったのか。占いを信じてる?班長と、常にストップウォッチを携帯しシミュレーションを重ねる犯人。経験に対する裏付けが、勘や運(運勢)なのか、それともデータ(情報)なのかと。彼女の特性はどちらかというと、犯人側に傾いている。その後の子豚が犯人を見失った際、雨が止んだのも実は意味がある。天候を味方につける。天運と言おうか。つまり班長が拠り所としている、運の要素が加味されたのだ。
「データ VS 運」 → 「データ VS 運&データ」
どちらに部があるかと。というより、だんだんとチームが1つになっていくということで、
「データ(ベテラン) VS 運(ベテラン)」
「データ(ベテラン) VS データ(未熟)」
と別々に挑んでいたのが、足し合わされてってな話とした方がわかりやすいだろうか。

・・・班長が最後死んでほしくあったのだが、照らし合わせたのに両方死んだら意味ないしね。班長生かすのはまあ予定調和と。  

〇最後に 
 いや~、十分におもしろいんだけど、もう少し何かしらが欲しかった感が拭えない。不満というより期待の方ですね。ちょっと軽い感があるんですよ。韓国映画に慣れておらず、それぞれの役者の特徴を知っていないからか。役者の顔でピンと来なかったりするんですよね。主人公がピンチに陥る時とかの恐怖みたいなのも今ひとつに感じるところがありまして。この雰囲気、構図、画を感じたら、絶対にやばいという既視感によって作り上げられている条件反射みたいなのがあるではないですか。それが薄いんですよ。これからもっと韓国映画に手を出していかなければなと、個人的な問題が大きいわけであるが。
 ジャポンもはやくこれくらいやってほしいな~。

〇ハン・ヒョジュ(おまけ)





ドラゴンボールZ 復活の「F」



~SSGSSVSGF~ 

〇はじめに 
 懐かしさには浸れるだろう。キャラそれぞれを掘り下げると言うか、ちょくちょく本音というかストレートにものを言う感じ。そういえばそんな設定や関係性だったなと。そのギャグ要素は鑑賞者のツボを捉えている、さすがだ。鳥山明好きなら評価することだろう。しかし、ドラゴンボール「Z」にこれは求めていない。これじゃない感が観終わってひたすらに私を襲うのである。アニメ版で「Z」になってから為されるようになった、戦闘に伴う人物の比較と言いましょうか、序列化と言いましょうか。その辺が前作同様薄いのである。まぁやりようが無いのかもしれないが。以前なら半分の時間でこの作品よりおもしろい映画を作っていたではないか。あの興奮を味わうことはもうできないのだろうか・・・・ 

〇こんな話 
 Fが復活して、やられます。

〇F 
 フリーザに言わせてはいけない言葉があるだろうが。正直ゲキ萎えした。フリーザの悟空に対する復讐心の現れとしてみればいいのだろうが。これじゃフリーザ応援したくなるでしょ。フリーザ様とはどのような存在だったのかと。
 あの絶対悪だったフリーザが、トレーニングなんて言っちゃダメでしょうが。なぜフリーザを悟空と同じ位置に堕とすのか。それでいてなぜ残虐であるシーンを観せるのか。悪役として中途半端になっちゃてるんだよ。ネタにしたい、もうネタにされているというのはわかるのだが。 
 どうせなら、フリーザでスポ根ものにすれば良かったんだ。弱点との整合性が伴わなくなるだろうが。そこは、ライバル関係である悟空とべジータの二人で切磋琢磨する様と、師匠という存在を強調して、フリーザは孤独に独りでトレーニングとかにすれば他に設定考えられたのではないのか。目指すべき具体的な目標や指標、そこへと辿りつく道を一緒に歩む者があるのとないのとでは、成果は段違いだろうし。
 「ロッキー4」みたいなロッキーとドラコのような自然的機械的な比較にしても良い。悟空たちはひたすらに組手をしている。フリーザは装置の中でドーピング・・・的な。これだったら弱点据え置きでも問題ない。せっかくフリーザを再生させるための装置を作るのに時間が掛ったとか技術力アピールしていたのだし。
 ネタにするならば、フリーザが誰かに励まされてるとか、渇を入れられているとかを観せれば良かったんだ。もっと笑いがとれたことだろうよ。彼らがどのような繁殖方法を選択しているのかは知らないが、フリーザの幼馴染や許嫁とか、片思いしている相手とか、要は美人マネージャー的な存在を出してもいい。疲れたフリーザ様に差し入れ持ってこいや~。 
 そして何より最後だ。あそこまでフリーザに言わせたならば、最後言わせる言葉があるだろうが。 
「ちっくしょう!もっとトレーニングしておけば良かったぁ」 
という後悔の言葉だ。戦闘力130万や、4カ月のトレーニング期間などといった数値を出すことで、この世界観における強さの比較をさせようともしていたではないか。これをネタの方に活かせばいいのに。

 指標を出すことによる強さの比較。戦闘力がはじめだったか。数値化をすることで、明確な力の序列を作り出した。そしてフリーザの53万という上限を設けて、如何に挑んでいくのかという構図を楽しめた。戦闘力のコントロール、界王拳、潜在能力の解放、(ネイルと)同化、傷つく(死に近づく)度に強くなる、なんてことを繰り返していき、最強の敵に立ち向かっていく。そして、え?変身。あと2回? 
 あのワクワク感はいったいどこへ行ってしまったのか。フリーザが即座に悟飯を攻撃したのは、集団において一番強い奴をやることで戦意喪失を狙うことを狙ってだろうが、サイヤ人は致命傷や死からの復活で強くなる設定だったであろう。それを表現できたのではないか。今さら感はあるが。 

 バトル要素を観せる力はやはり堕ちたなと感じる。ギャグセンスはさすがだと思いますけどね。  

〇スーパーサイヤ人ゴッドSS
 スーパーサイヤ人ゴッドのスーパーサイヤ人とは・・・ 
 ゴールデンフリーザにしたことと何かしら関係があるのかと少し想いにふけってみる。容姿は青色になっていた。月をみると大猿(元ネタ狼男)になるのだから銀色ではないのかと。色合いの問題だったのだろうか。金に対しての銀、いや青。何かを意図したものだったのだろうか。ブルーツ波のことだったのか。ひとつ思ったのは太陽と月の関係だった。しかし破壊神ビルスが寝ぼけて太陽を破壊したどうのと、これは結局地球を破壊することと照らし合わせただけだった。日食ですか。月が太陽を喰うと。わからん。

 オチにがっかりする方もいるでしょう。まぁあれは指摘されていた甘さに対する悟空の覚悟と言うか、決意みたいなものを・・・。だからあっさり感じてしまうというか。
 ウィスが悟空とベジータ双方の長所短所を指摘して、対立させておいたのも・・・2人で力を合わせれば最強なのにってなはなしなのだが・・・じゃあ、フュージョン最強じゃんってなはなしになるわけで・・・これからのDBに関して何か考えがあってのことだと願うばかりだ・・・


〇余談 
 18号のツボがわからん。
 クリリン、着メロ(うた?)、まったく・・・18号の声でも入れとけよ。
あとブルマ若くない?? あとなぜに谷間強調??

 悟天とトランクスを出さなかったのはフュージョンを意識させないためだろうな。復活のフュージョンってタイトルあったしな。無理な話です。

〇最後に
 鳥山明のギャグセンスは見事だ。前作のベジータをいじったのも個人的にツボである。それに「俺のブルマー!!」ですからね。ほんっとにおもしろかったですよ。でもそれは私の中のドラゴンボールとしてではないんですよね。面倒くさいと思われるかもしれませんが。今回はフリーザいじりだったんでしょ。わかりますよ。あの絶対悪が、あの強大な敵が、復讐のためにせっせと努力に励むというギャップ。悪者が、最終的には卑怯な手は使うものの、正義に対してあいつよりも強くなればいいと言わせる。悪知恵をはたらかせるのではなく正攻法で立ち向かう。ドラゴンボールじゃなかったら全然良いんですよ。
・・・もう止めましょう。おもしろいと感じた自分と、素直に喜べなかった自分がいるというだけです。

2015年4月17日金曜日

ジュピター(2015)

字幕翻訳:アンゼたかし


~奥行き~ 


〇はじめに 
 観終わってすぐに想い起こしたのが、中学生のときの中間だったか期末だったかのテストだ。何科目のテストだったか忘れたが、学年トップ(クラス)の奴に一矢報いようと(まぁ勝手に自分一人で勝負していた気になっていたのだが)、ある一科目だけに精を出した。結果は勉強しなかった科目は散々で、力を入れた科目もそいつに負ける始末。総合点ではもちろん下から数えた方が早いと(あれ、総合の順位あったっけかな・・・??)。この映画はそのときの私だ。映像と言う一点で勝負したのだろう。結果は・・・ 

〇想起する作品
「エンダーのゲーム」(2013)
「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」(2014)
「V」(2009)
「強殖装甲ガイバー」(1985~)
「幽遊白書」(1990~1994)
「MIXIM☆11」(2008~2011)

〇こんな話
「こんな人生もう嫌!」
と現状を嘆いている女性が、女王様になってみたら
「こんなのもう嫌!」
ってなるお話。

〇世界観
 ふう、さっぱりだぜ。もっと説明してくれても・・・
 映像として奥行きのある映像をこれでもかと観せてくるのに、物語に関しての奥行きの無さはいったい何だ??

 最初から漂う王族の無能臭。これはわざとか。わざと馬鹿にしているのか。ラスボスが閉所に翼を持ったドラゴン系を配置するぐらいだからな。適材適所って言葉知らないんだろうな。いや、男ならドラゴンタイプに一番憧れるからな。別に強くなくても使いたくなるし。かっこよければいいんだよと。だがしかし、割り振りやバランスってものに気を使えないものか。サッカーで言えば、11人イブラヒモビッチだったら勝てるとか思ってる感じだろ。同じ人間が歳をとりすぎて頑固になりすぎてアホになったとするか。見てくればかりに気を使うようになった奴もいたし。・・・あのさ~、人間の美しさってのはさ~、外見じゃなくて中身の問題なんだよ・・・とどの口が言うのか。

 3人で骨肉の争いをしているわけなのだが、その勢力図というか、それぞれの特徴をもっと描いて欲しかったな。ようわからん。全員顔つき若くなっちゃうじゃん。一人ぐらい遺伝子組み替えてるとか(皆組み替えてるか)、ハイブリットや機械の体になってるとかしても良かったのでは。母親とジュピターのこんな人生嫌という思考を強調したかったのだろうか。別にその要素を軽んじることにはならんと思うけどな。空、地、水とか属性で分けてもいいと思うし。人と動物のハイブリット(超人タイプ)、ロボット系(技術タイプ)とかとか、もう思いつかんけど。まぁ裏でごちゃごちゃやるだけで終わるから別に良いか。

 せめて文化(文明か)のギャップとかをもっと・・・
 ドラゴンタイプがジュピターの家族(地球人)をさらうシーンがあるのだが、そこの対比がビジュアルだけだもんな。空から降りてくるわけだが、ドアと言う概念を知らないとか、もっと何かできなかったものか。まぁ怖い形相から丁重に扱えという言葉は良かったと思うが。
 そもそも王族の地球人に対する無知感をもっと醸し出しても良かったのではと。文化・文明同士間ではなく、同文化・文明間においてのギャップ。デスクと現場の違いというのはよく言われるではないですか。机上の空論なり。修正・調整するのは常に現場だみたいな。上は指示するだけだが、現場は実践且つ成功させなければならないという違いは描かれていた。しかしそれが文明という大きな括りにおける無知ではなく、単に個人の能力という限定的な無能を示唆してしまっている。故に王族に対して何ら感情を抱けない。普段ならイラつきやいやらしさを感じるべきところだ。ここが一番に問題なんだと思う。要は人間の関係性のところだ。キャラ立ちって言った方が良いのかな。何ら面白味のある奴がいないんですよ。どうなんですかね・・・??


 世界観の説明が為されないのは、いきなり未知の世界へと入り込んでしまったジュピターと同じ視点に立たせてくれてのことなのか。それとも考えてなかったのか。
 話ありきの映像と言うより、映像ありきの話になっている気がするからおそらくは・・・


 役所での王位継承は唯一おもしろかった。あのたらいまわし感。王女になるはずのものが、やっかい者扱い。役所に婚姻届出すのと、結婚式みたいな関係ですか。一般人からの王族の見られ方や立ち位置を示す上でも活きたのではないだろうか。


〇疑念
 年齢の概念があるのだが、標準時はどうなっていたのか。1万を超えて数える必要があるくらいなら、何かしらの示唆は欲しかった。兄妹における歳の差の比較でも良かった。何千歳しか歳離れてないのに、兄貴面かよ・・・とか。見てくれにしがみつくある女は時間どうのこうのとほざいていた。あっそ。で? 後々関連してこないじゃん。人間を明らかに下に見ている、馬鹿にしているような発言があるものの、実は大して意味を持たせない。そして他の惑星に住んでいながら、なぜ下等生物の住みかである地球時間に合わせているのか。その辺は自分らで補えと。無能なのか、実は地球は彼らによって調整されているのだとするのか。同じ周期で生きている人間のDNAこそが嗜好品なんだろうがよってことなのか。
・・・何かしらあったのでしょうか??

 陰謀論絡めれば良かったのに。地球に潜入している者たちがいてもおもしろいだろ。役人はすでに・・・みたいな。まぁ家畜や栽培している植物の中に入り込む人間なんていないか。
 何かしらの組織が秘密裏に対抗する力を蓄えているとかはどうだ。そしてネット社会の今、映像何ていくらでも出回るだろ。その真偽の検証をしている素人たちを映し出してもいい。ウィンチェスター兄弟みたいな。まぁ出回り過ぎて皆信用が無くなっているとするのか。まぁ早く宇宙に飛び出したそうだったし、いらんか。それに侵略とはまた違うからな。


〇最後に
 映像革命というから、グレイモンがメタルグレイモンになったときのような興奮を期待していた。え、それはレボリューションじゃなくて、エボリューションだって??
っんなこたぁ~どうだっていいんですよ。つまんないんですよ!

 絵が下手でもおもしろい漫画か、絵が超絶にうまい画集かで、漫画を選択する人はほぼ確実につまらないだろう。絵と話との釣り合いでおもしろくもなくもなる漫画と、その画力だけで世界観を且つおもしろさを伝えねばならない画集。この作品は画集なわけだが、このレベルの映像で他の映画と差をつけられるほどでもない。革命と言うだけに劇場で堪能すべき映像かと問われれば、いや他の映画を観なさいと。

2015年4月16日木曜日

HUNTER×HUNTER The LAST MISSION(2013)

HUNTER×HUNTER The LAST MISSION[DVD]



~寝顔~

〇はじめに
 とりあえず材料かき集めたけど何を作ろうかと。全部一気にぶっ込めば、良くね?と。鍋じゃないんだから。しかも鍋の素も使わず味付けも自らやろうとしてるでしょ。まずレシピを確認しようよ。いや、何を作るかを、完成系をもっとイメージしようよ。


〇想起する作品 
「ドラゴンボールZ 銀河ギリギリ!!ぶっちぎりの凄い奴」 
「鋼の錬金術師」

〇こんな話
 ラストミッションだョ!全員集合

〇寝顔
 観たかったネタではある。天空闘技場やネテロの過去、ハンター協会の裏側。しかしやらない方が良いこともある。その目利きができなかったか。というより腕が足りなかったと言った方が良いだろうか。 

 光と影(闇)、陰と陽、怨と念、の関係性を描く上で必要な雰囲気や条件、設定を揃えることができていない。何とも軽はずみな、付け焼刃な感じのしてしまう話である。というのも話の中心となるゴンが無邪気すぎる。そもそも時系列的にG・I編の後の話でしょ。こんな心がガキのままでいられたんだっけか。ゴンの今までの冒険における精神面での成長はどこに行ってしまったのですか。彼の純粋な部分を最後に活かすのならば、その分どこかで帳尻を合わせるべきであった(怨の誓約だけでは足りんぞ)。暗殺一家であり闇の世界をよく知るキルアは何をデレデレしているのか。そして肝心の黒幕もさっさと殺してしまう始末。精神面を探ることができるセンリツは一切持ち場を離れない。要は敵となる彼らの怨の強さが見えてこないのである。見えてこず、いきなり赦すのである。拳を交え語りあったではないかと。殴り合いを通して理解し合うこともあるのだろう。そこには別に問題はない。問題は繰り返しになるが、怨という強さが見えてこないことにある。その程度のものだったのかと感じてしまう流れなのである。全盛期の半分以下の力しかないネテロと良いし勝負なのである(いや、敢えて受けたのか)。いったいこの赦しに何の意味があるのか。見ず知らずの人の慈愛に触れることで、その者の憎しみは晴れるのか。そこまで世界は疲れていますか。この傾向は人間として弱くなったのですか、強くなったのですか。強くなれということだったのですか。それともただの宗教的な意味合いを含んだお話にしたかったのですか。

 恨みという点で、クラピカの緋の眼発動時の念能力:エンペラータイム(全系統100%使用)と怨能力を関連付けたのは良かった。念能力でも憎しみは生まれている。復讐に駆られる者は怨に導かれるといったような暗示。念と怨は決して交わることのないものではなく、つながっているものだと。ただ両極端に位置するもの同士なだけなのだと。ネテロも最後にそんなようなことを口にしている。しかしだ、映画全体として漂う雰囲気は表の面が強すぎる。表しか描いていないと言ってもいい。にも関わらず、表裏一体という主題歌を用いていることが何とも気にくわない(しかもただ明るい感じなだけの歌だし)。いや、最後のゴンの発言の方が気にくわないのか。二つの主張が矛盾するのである。これは狙ってのことか。
 ネテロとジェドはただ道を違えたに過ぎない、違えざるをえなかった。単純な個人の力量の所為なのか、政治的社会的な要因の方が強かったのか。しかしコインの表と裏のような関係で、同じコインであることには違いはなかった。しかし劇中のような事態に陥ってしまった。それを解決してゴンは言う。これから怨が出てこないように、世界を変えていくのだと。なぜ怨という1つの事象を排除しただけで、世界の全ての影がリセットされているのか。この世界観で言えば、幻影旅団(流星街)は? マフィアは? まだまだハンター協会にも影は残っているではないか。それを首謀者、真犯人を倒しただけで世界はま~るく収まる。影を生みだしている世界情勢が良い方向に進んでいることになる。ネテロ会長の実力や権限、威厳を持ってしても、影は生まれていたのだろ?? むしろ必要としていた節が強い。制御できる場合に限るが。表を司る裏、裏を司る表。自分たち表の部分の存在をアゲアゲしている分、裏も大きくなる。それほどまでに担っているものは大きい。その部分を、影を排除したことで空いてしまう穴をどう埋めていくのか。具体的にこれからどういった対策を練っていくのか。その辺を丸投げる。典型的な根性論だ(まぁゴンに言わせていることに意味があるのか、他の連中は何かしら違和感を感じているわけですし)。
 ネテロたちの過去と、ゴンたちが選択する道を対比したかったのはわかる。しかしだ、そうなるように仕組んだのは、機会を与えたのは誰だったのかと。道を違えることを選択してしまったネテロではないか。過去の失敗から新しい世代へと伝えるメッセージ。ゴン自らに念か怨か選択するチャンスを与えた。ここなんだよ、大事なところは。過去の失敗から学んだことを、後世の者が同じ道を辿らないようにと手助けをしてやる存在。それを軽視してしまいがちな終わり方である。せっかくそれを描いているのに。描いたことに意味があるとプラスに受け取るか。
・・・これからの世界を担っていく彼らの心の中で、強い意志として残っていればいいのかもしれない。未来はこれから彼らが創っていくのだから。
・・・でもね、この終わり方だとね。蟻編の覚悟につながらないではないですか。最終的にピトーを倒すために選択したことに。ゴンの純粋故の危うさとやらは、いったいどこに行ってしまったのでしょうか。ゴンとキルア(+2人)の関係が、ただの馴れ合いに見えて仕方ないのです。基本的にこういった劇場版はパラレルワールド的なノリだから何でも良いだろうと。じゃあこの作品は誰に向けて作っているのですかと。まぁ大人の事情ですか。やめましょう。


〇疑念 
 怨能力の制約と誓約の全否定をゴンがしているのだが、これはどうなのだろうか。クラピカは?、そしてヨークシンシティにおける旅団との戦いにおいて、クラピカに自分の心臓にも念の刃を刺してくれと言っていたのは無かったことになっているのか。  

 あとバショウって死んだの??

〇最後に
 まぁなんだかんだ書きましたが、そんなことはどうでもいいんですよ。私が一番に怒りたいのは、なぜあのエレベーターのお姉さんを出さないんじゃ!!、ということです。
・・・そうか、原作と新しい方のアニメには登場していないのか・・・
・・・フロアマスターの彼女、観たかったな(しくしく)・・・
・・・フロアマスター・・・
・・・床マスター・・・
・・・床zy ・・・
これは、少年漫画です。

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...