2014年7月20日日曜日

ブラックホール 地球吸引(2006)

ブラックホール 地球吸引[DVD]


~Impossible

〇こんな話 
 粒子加速器による衝突実験によりブラックホールが発生。どこかの空間と繋がってしまい、エイリアンが現れ、あわてふためく。はてさて・・・。 

〇原因と対策 
・原因 
 原因はもちろん衝突実験。ブラックホールが出現したことによる、異空間との接続。穴がパックリ開いてしまったわけです。ひとつ気になるのはブラックホールという表現だが、ブラックホールは光も抜け出せないほどの吸引力。ダイソンもお手上げなほどだ。それを地球で観測できるという? 発光している。発光というか電気関連のものを破壊していく際に出る何かだったり、プラズマみたいなものなのだが。まぁ言いたいのは人間の目に捉えられる、カメラに映るというのは光がその目やレンズにまで届いているわけで、まあ矛盾しているわけです。まぁ世間の言葉を代弁するのであれば、真っ黒な穴を見せられるよりも、綺麗な穴を見せられた方がいい・・・(意味深)。失礼しました。気分を害した方すみません。何も感じなかった方、そのままで結構です。 どこかに排出先があってそれは同時に地球に現れるのだとか? ホワイトホールですか。つまりブラックホールを爆撃しようと、そのエネルギーは吸収されてしまい地球のどこかで排出される。そんなところからエイリアンがひょこっと現れるわけです。笑えます、ツボです。

・対策 
 エイリアンのエネルギー吸収率とブラックホールの膨張率のエネルギーが一致する。エイリアンはブラックホールに向けてエネルギーを供給している。つまりエイリアンとブラックホールは繋がっている。故に二つをぶつければ宇宙に放りだせる。エイリアンをブラックホールまで誘導だ。捕獲してからぶつけるそうな(見事に失敗)。ブラックホール特攻作戦へ。 
 ぶつけたときの反応として、作用反作用って言ってるんだけど・・・、二つは正反対の物質というかエネルギー体だから、それが衝突することで莫大なエネルギーが発生し、空間にねじれが発生するということか。どっかの空間と繋がるわけですね。出ました、空間における最短距離は「NO,直線 YES,点」  これは是非とも「空間を繋げる最短距離は直線ではなく、点だ」といった映画「イベント・ホライゾン」を観ていただきたい。 

〇疑念 
 ブラックホールとエイリアンの両者をぶつけることでできるはずの空間のつながり(ワームホールとしよう)。気になるのはワームホールによって移動するものが、エイリアンとブラックホールに限られるというところだ。そもそも両者をぶつけた時点で二つの存在は消滅するのではないだろうか。消滅とは言わないのか、エネルギーが発生しているから。空間のつながりができたことで移動してしまうのはむしろ地球の方ではないのだろうか。
[ブラックホール + エイリアン = ワームホール?]
ぶつけるから足し算ではなく、掛け算か? まぁもっと複雑な現象なんでしょうが、この式を考えたときに、ワームホールの素材となったブラックホールとエイリアンはどうなるのかということ。よく合成や合体と言った表現を使う場合は素材が残らないではないですか。可逆・不可逆とかにも関係するのかな。まぁ現実に生物における新たな生命を生み出す行為は異なりますが・・・。両者の衝突により生み出されたはずのワームホールに、エイリアンとブラックホールが巻き込まれるというのは有り得るのかと。有り得るとして、なぜ地球は呑みこまれないのかと。 提案として、最後は地球が太陽系ではなく別の宇宙空間に移動し、全て真っ暗で太陽はどこだと探したりして終わればよかったのだ。 全てスッキリ終わってこそのこういった映画なんですけどね・・・。

〇最後に 
起こり得ない(impossible)という表現について
 最初に粒子加速装置による衝突実験における危険性の示唆みたいな説明が入る。そこで使用される「起こり得ない」という表現が気になる。科学者があらゆる問題に関してあらゆる可能性を調査するのはわかる。しかし、科学者がその調査の末に「起こり得ない」という表現を使用してほしくない。調査において観測されない事例もあることだろう。条件設定の段階で見落としている可能性すらあるわけで。この映画の場合はブラックホールが出現するか否かでというところが論点であった。最初の説明文も演出なんでしょうけどね。実際にもいるじゃないですか、絶対(に大丈夫)とか軽く使う人。 どうも科学者や研究家ってのは都合の良いデータだけを摘み取って、都合の良い解釈をしているだけに思えてならない(メディア露出の多い科学者においてだけかもしれないが)。その分野における常識とするところの大筋や本筋を決めることは重要であるのはわかる。しかし研究の目的が世のため人のためのものではなく自己満足になっている印象を受けてしまうのは確かでなかろうか。別にそれを否定するつもりはない。その自己満足という探求心こそが人類の発展を促したのは事実だからだ。しかし、それを自己満足というところの自己の利益に固執するところが許せない。所詮金が全てか・・・。お金が無ければ研究が出来ないという状況だから致し方がないのか。本来の研究とは個人の好きな、興味のあるといったような、研究者の意思が反映されて然りであると思う。しかしそれら全部にお金は回していられない。お金になる研究を、となるのは必然でしょう。そこで研究者に問われるべき問題として、研究のためにお金が必要なのか、お金のために研究をするのかといったことがある。このお金ありき研究ありきという根本的な考え方の違いで、研究過程、結果、取り組む姿勢に精度の違いが現れることは確実であろう。そんな今日の状況を打破できないものだろうか。切に願う。

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