2014年12月2日火曜日

ブラックサイト(2008)

ブラックサイト[DVD]

~ネットの普及と大衆心理~

〇想起する作品
・「SAW」
「SAW」は事件に巻き込まれた当事者たちの選択で生死が決まるのに対して、この映画は閲覧者という第三者に生死がゆだねられる。

〇こんな話
 あるサイトで動物が死ぬ様を実況中継していた。その殺され方は主に薬物投与で、その投与量は閲覧者の数で決まる。それがある日対象が人間となり、警察も事件として捜査をはじめる。サイトの閉鎖は不可能で、事件を止めようとする策も閲覧者を増やすことへの宣伝にしかならない。はてさて・・・。

・ざっくりと 
 匿名だと人は調子にノる。

 結局最後殺人に意味を持たせてしまうのがなぁ・・・。意味というか殺人の動機か。要は当てつけの復讐ということになる。それを自らが裁くのではなくネットの映像の閲覧者数でと。自らが裁いたのではなく多数の共犯がいたと。う~ん、できればトんだサイコ野郎であって欲しかった。殺すのは誰でも良かったと。

〇大衆心理とネット依存 
 大衆心理とネット依存が生み出した、この映画内で起こった事件に関しての相乗効果を、勝手に要点を絞って考えていきたい。 

・ネットという環境 
一、作業が簡単という点
 サイトへのアクセス手順。URLをコピーして貼り付けるか、誰かしらがリンクを貼っておけば、ワンクリックで犯行現場に辿りつくことができる。これにより年齢性別関係なく少しばかり知識があれば、パソコン・携帯で閲覧が可能で、誰でも見ることができる。
一、匿名性という点
 対象と相対しないというアドバンテージ。何かあればすぐに逃げ出せばいい。ウィンドウを閉じる、回線を遮断するなど出口は常に開かれている。アクセス数が多すぎることもあり、閲覧者の身元がわかったところで摘発はできないだろう。そしてただ映像を閲覧していただけでは、視聴者も殺人に関わったという罪の意識もほとんど芽生えない。

・非現実性 
一、 殺人と言う普段の生活では得られない何か刺激的であり、人間の興味をそそるような事象であるという点。
一、殺人の方法として、閲覧者数に薬物の投与量が比例するという点
「SAW」のジグソウという仕掛け人のように、表向きな慈悲が含まれているというところも考慮したい。 
一、画面の中での事象なので、直接相対するよりも現実味を帯びないという点

 なぜ上記三つのポイントがうまいのかというと、人間の「〇〇したい」という欲求を刺激する方法が巧みに取り入れられているからだ。「殺人(人の死)を見たい」「(何かしらに)関わりたい」という衝動を同時に刺激し、且つネットと言う情報と画面越しという状況でその欲求を満たす行為に出ることを簡易化する。違法な事象故に、罪悪感の軽減と言った方が良いか。自分で殺人を犯すことなく、事故に遭遇することなく、ただ画面を眺め、手をちょちょいと動かせば目の前に広がる今までに遭遇、経験したことが無い世界。あなたはそのページを閲覧せずに、ウィンドウを閉じることができますか。もうすぐそこにあるんですよ、自分の知らない世界が。その誘惑・興味に打ち勝つことができますか。 

 この映画との比較対象を挙げるために少し話を飛躍させるが、仮に 
いつ・どこどこで・こうこうこういう風な殺人ショーをやります 
という広告が出て、その内容が 
集まった人数に応じて被害者は死に近づきます 
というものだったら、あなたたちはその現場に赴くだろうか。行く人は行くだろうがネットの中の人数よりは格段に少ないだろう。それはなぜなのか。大きくは地理的な問題が外せないだろうが、非現実性というものも大きいのではないだろうか。ある疑いの余地のある事象に対してのアプローチの仕方。実際に現地に行って確かめるのか。気にはなるものの一時だけ注目し、謎のまま忘れ去るのか。大半が後者であろう。情報を自ら探し求めはしない、それが容易でなければ。しかし自然と入ってくる情報には敏感で一喜一憂する。そしてすぐに忘れ去る。ある一時だけ事件を騒ぎ立てるだけ騒ぎ立て、人気・視聴率が取れなくなればまた次の問題へ、といった無責任な報道関係者の姿勢に怒りを覚えるというのが動機だった。我々もそれに踊らされている一人だ。いや逆に踊らせているのか。
 つまりわざわざ自らの腰を上げるほどではない、というよりこの場合は自ら行動することで不利益を被る問題に対してどのように視聴者を稼げばいいのかと。先程挙げた3つのポイントが大きい。殺人と言う非現実的な事象であること。自分の閲覧という行為が少なからず被害者の死に関与するということ。そして画面越しということだ。この3つがうまく絡み合うことで、自分が殺人に関与したという実感はあるが、それは罪の意識に大きくつながるものではない。 よって直接現地に赴いて閲覧するより確実に閲覧者数を稼ぐことができる。 手を煩わせることなく、確かめさせることができる。これ本当?みたいに興味本位で映像を見てしまう。そして人のリアルな死などそうそうお目にかかれるものでもない。しかも残酷な。生が奪われていく状況をリアルタイムで楽しむことができる。再度言います。その誘惑に勝てますか。

・広告・宣伝 
 事件の抑制・抑止力のための記者会見が仇になる。サイトの閉鎖が意味を為さないため、ただのサイトの宣伝にしかなっていない。
 自身の経験上ネット住民(これは現実でも言えるか)は何かしらに関わりたい、誰かしらとつながりたいという欲求が強い。現実の自分のスペックではうまくいかないからと、ネット上に理想の自分を作り上げ、匿名性という利点を活用しその世界に浸る。究極、ネットの中は現実とは違い評価され認められる。お互いに目隠しという場合も多いが、この映画の事件は被害者の顔を見ることができ、閲覧者の顔は見られない。そう、閲覧者にまったくの危険や被害はなく、覗きをすることができる。そのおもしろさといったら・・・というような心境か。傷の舐め合いや、普段は相手にされないような相手からも相手にされる。その快楽を求めてひたすらに欲求は大きくなる。ネット依存のはじまりはじまり・・・。最悪認められなくとも、相手側をディスることで構ってもらえたりする。自虐ネタに奔る人もいれば、喧嘩になることもあるだろう。その程度の繋がりですら求めているのかというほどに、世界はつながりに飢えている。

〇罪 
 最終的に考えるべきところは仕掛け人一人が悪いわけではない、というところ。確かに仕掛け人がいなければこんな事件は起きないし、事件に関して罪の序列をつけるのであれば仕掛け人が一番に悪い、ということになるだろう。しかし、助ける方法は簡単にあった。誰も映像を見ないこと。こんな簡単なことがなぜできないのか。それは先述の罪の軽減による。私一人ぐらいなら・・・という心理がはたらく。そして怖いもの見たさ。さらに言うなれば、この殺人事件が起こってしまった原因を作り出した社会という点も忘れてはならない。最初に映画としては是非とも無慈悲な殺人を期待しているような事を書いたが、社会問題として取り上げるのならばこの復讐要素は切れない。

〇打開策 
 住所を叫んでる被害者がいた。しかしその者は捕まる時に一回気を失っており、当ては外れる。犯人にしてはうまい回避策だった。途中相棒の男がボーイスカウトだったら目でモールス信号を送れるのにと言うところがある。そしてその相棒は捕まり実際に試みるのだが、サイトの人気の急上昇もあり、時間的余裕が無くやむなく失敗する。そして相手の趣味嗜好による弱点の演出。見事に犯人の手中にハマるとその辺も見事。 
 劇中の者たちにより、巻き込まれた際の打開策は描かれているので、ここで話したいのは捕まった時の打開策ではなく、人間の興味本位による閲覧で人が死んでしまうという状況をどう打開していくのかということ。スーパーコンピュータかなんかで映像が配信されている住所を特定してくれと、ある組織に頼み込むところがある。しかし、それはコンピュータがどれほどの力を持っているのか情報が漏れるという理由で協力の要請は拒否される。全世界同時ネット切断でもやればいいんだ、と言ってみる。それに伴う莫大な影響と損失は?となるだろうが、知ったことか。人の命が関わってるんだ。手段なんて選んでる場合じゃない・・・となる世界ではない。と私が答えられてしまうほどに世界は無関心だ。いや違うな、適切な判断をただ下しているだけか。人一人の命よりも重く、大切なものなどいくらでもあるという世界で。うん、そうだな。 
結局打開策の話にはならなかった・・・。 

〇最後に 
 「殺すのは誰でもよかった」という動機による殺人事件(未遂含む)を最近よく耳にする。そんな犯罪に対しイライラが募ったので、ここでその気持ちを少し昇華していきたい。
 殺人を肯定するわけではないし、認めてもいないが、殺人事件の犯人が「殺したい」という衝動で殺人を犯してしまうのはわかる。しかし犯人の「誰でもよかった」という動機に関しては勘違いがある。なぜならこういった犯罪の動機が公表されるには、犯人が生きており、犯人が自らの口で動機を語る必要があるからだ。ここから何が言えるのかというと、自覚か無自覚か、殺したい者の対象から自分を除外しているという事実だ。正しく動機を示すのならば「自分以外を除外した全人類の中で誰かしらを殺したかった」というような感じか。つまり誰でもよくはなかったのだ。自分を除外するということは少なからず自分を特別視していることになる。それか自分が同じ人間という自覚が無いか。そして殺人を犯した後、犯人は生きており、取り調べでのうのうと犯行の動機を語るという状況から、勝手に動機を付け加えさせていただくならば「自分という存在を実感したかった・認められたかった」というような感じか。犯罪という行為をすることで、逮捕され、報道され、裁かれ、罪を償うに至る。その犯罪という事象で良くも悪くも犯した人物は認識される。全国で・・・だ。つまりそれらを罰するがための行為は、彼らの犯罪(認められたいという)行為を正当化するにしか至っていない、ということだ。
 一言で片付けたくはないが、なんかさみしい世の中だな・・・。そんなことで?理由で?犯罪を犯すに至るのか・・・。

 先ほども書いたが、世界はつながりに飢えている。何せFacebookやTwitterが蔓延するような世界ですからね~(白目)

 「十人十色」「みんなちがってみんないい」というような言葉がある。これを肯定化するならば、その犯罪を犯した者も肯定されていいはずだ。その人物は人を殺すという特性を持ち、人類の選定を行っている・・・などと。
 しかし実際問題そうはならない。ルールを守る者もいれば守らない者もいる。それを全て認めるわけではないのだ。ルールを守った上で、その人の違いを認めるという暗黙の了解がある。ルールという枠の中でならば好きにやっていいと。要は都合のいい解釈なのだ。ここでいうルールは集団において秩序をもたらすものとでも言っておこう。このルールというものに関してはいずれ上げるであろう「チェンジング・レーン」という映画の中で考えていきたい・・・。(予告:ルールの中に存在するルールとは)
 まあ要するに、他人に良くも悪くも自分の存在を認められたいという理由で、殺人を犯してしまう世の中だということ。私の経験というか偏見が大きい見解なのだが、殺人をするに至るには、その対象へのそれなりの憎しみが必要であり、そしてその怨恨を悟らせないことが必要不可欠だ。殺人という事象を知られては法により裁かれるからだ。しかし、ここ最近は公にそれを行うようになってきた。前述した理由からだ。完全犯罪などの知的犯罪ではなく、公然と行われる痴的犯罪にシフトしてきているのでは?と報道の偏見・格差をそのまま受け止めてみる。いったい我々に何が起きているのだろうか。ただ情報におもしろおかしく踊らされているだけなだろうか・・・???

 長くなりました。ここまでお付き合いいただいた方、ありがとうございました。この辺で終わります。

0 件のコメント:

コメントを投稿

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...