2014年11月29日土曜日

パワー・ゲーム(2013)



~情報格差~ 

〇はじめに 
 正直盛り上がりに欠ける。といのも鑑賞者として追っていくものがあまり見えてこないからだ。しかし情報社会における情報戦争で実際に追うべきものは、劇中で描かれるような人物たちの動向ではなく、その人自身が持っている情報であり、それはなかなか可視化できないものだ。その人物たちの動向はヒントや手掛かりでしかない。それを踏まえて観るとまた違った味わいができるのではなかろうか。 
 「社長>主人公」という構図がなかなか崩れない、崩れていく兆しが見えてこないというのもある。ここが長いから退屈に感じる人も多いと思う。 

〇想起する作品 
「ラッキー・ナンバー7」
 なんとなく、二大巨頭に立ち向かう感じが。

〇こんな話
 とあるスパイを強要された男のお話。

〇位置 
 ある一人の男に対する映像と、その背後に聴こえる他者の声という演出が、その男の現在位置を示してくれている。いや、不確かさか、これからの兆しか。思い悩む男の背後には無邪気な子供の笑い声であったり、全てを失おうとしている男の背後には嘲笑ともとれる周りの笑い声であったりという風にだ。主人公が扱っているシステムが3DPSという位置情報を確認するシステムであったので、現在位置で良いような気がする。 
 世間や社会において、その者の位置というのを決めるのは、決して自分ではなく他者である。ここでいう位置とは、その者に対する価値や評価といったところだ。如何に才能や能力を持っていたところで、そこに他者から価値を見出してもらえなければ何の意味もない。受け入れられる努力をしなければ、何もしていないのと同じこととなる。他者との差異など無いに等しい。 

〇壁 
 彼の辿りつく答え。一発逆転を狙うことより、地道にコツコツと歩むことが一番の近道であると。格差社会を皮肉っている映画であるが故に、この1つの答えは勝者の戯言に聴こえてならない。この世には生まれながらにしてでは決して越えられない壁があり、その壁を越えるには一発逆転に賭けるしかないという境遇の者もいる。近道であるという努力が出来ないからだ。それは個人の問題か、周囲の、環境の問題かは人それぞれであろう。そしてそんな弱者たちを糧に生きている者たちもいるという。


〇情報媒体 
 アイコン社が開発しようとしているシステムは究極人間がいらなくなる。というのも、現在我々が使用している情報端末と人間という関係性を、究極全くの逆にしようとしているからだ。それは情報媒体にもう一人の自分を創り上げようとしているシステムであり、情報の正確さ、速度で言ったらオリジナルである人の形をしたものを超えるであろう。人が電子機器、携帯端末といった情報の媒体を扱うのではなく、それらの情報の媒体や媒介に人間が用いられることになる。しかし結局は人間がいてこそなのだが、今のところは・・・。

〇情報社会の行く末 
「見えている者と見えていない者」 
「見ている者と見られている者」 
「見ようとする者と見ようとしない者」 
というのが今日の情報社会における構図であろう。より全体を、先を見通した者が勝者となる。スパイという境遇をうまく利用した主人公。二大企業の情報を知り得たのはスパイである彼だけだ。情報量において彼は勝ったのだ。もちろん彼の才能や力量もあるが。 
 ところどころで言われる、宣伝力、広告、需要(ニーズ)などといった言葉。さらには主人公がパスワードを覗き見ていたり、システムの情報を全て公開しなかったり、最先端ならではの自動充電機能が仇になったりと、見方を変えることでその情報の価値はいくらでも変わる、もしくは変わったように見えるということを交えて、メリットとデメリットの演出がふんだんに為されている。主人公のその業界における才能は申し分ないものの、スパイに抜擢されたのは、主人公に見出された価値が技術開発におけるものではなく、社長に対して見せた反抗心や野心によるものからだった、というのも1つの例だ。
 情報というのは持つ者、見る者によっていくらでも価値を変えることができる。そしてそれを(提供者は)いかに有益なものに見せるか、有益なものとして使うが、情報戦略の鍵だ。消費者(受け手)は情報の真意を見抜かねばならないか、知らぬまま盲目に生きていくかだ。情報社会においてそれに関わる者自身が持つ情報の量、質というのが重要で、それが原因で生まれる情報格差。誰も丁寧に1から教えてくれるわけではない。知ってて当然だろと突き放されることもしばしば。そこにはある程度の水準が存在する。それに追いつけるのか追いつけないのか。結局は自分次第である。
 時折映し出される監視カメラの映像も、そんな情報社会の構図を示唆させているのではなかろうか。

 そもそも我々人類と言う存在も情報という産物に過ぎない。知識や経験、知恵などがそうだ。さらには才能と言った先天的なものも遺伝と言った情報に過ぎない。容姿もそうだ。それをただ生殖により後世に残しているだけだ。そこに感情を持ち込むから人間を何か尊く感じるのであって、価値を見出す者がいなければ人間には何の価値も無い。
 最後に主人公とその周辺の人物における、友情や愛による復活劇、成功劇のように観せ、何とも痛快に終わるわけであるが、この作品においてはそんな不思議な力をもたらす現象は何ら意味をもたない。愛や友情といったものも先ほどから述べているただの情報に過ぎないからだ。血のつながりといった家系。お互いに価値を見出すからこその友人や恋人といった関係性。どこまで情報を共有するのかという情報なわけだ。線引きの仕方によりその表現が異なるというだけで。
 つまり彼らは最後に明るい未来を手に入れたわけでは決してなく、評価されるべく、必要とされる新たな1つの情報を手に入れたに過ぎない。そこに価値を見出すか否かで、作品としての評価が分かれる、というのを改めて感じさせていただいた。

〇最後に
 スパイものというと007シリーズなどが浮かび、よりスリリングでアクションが目立つ作品が多い。それらの作品に対してこの作品はなんとも静かであり、且つ見えてこない部分が多いために物足りなくも感じてしまう。しかし情報戦とは見えてこないからでこそ際立つものがあり、扱う題材も情報媒介・媒体に関してで、前の項でも言及した情報社会についても考えさせるような演出が為されているので、その辺は解消されているようにも思う。まぁ、でも物足りなかったなぁ。

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