2014年12月26日金曜日

アタック・ザ・ブロック(2011)

アタック・ザ・ブロック[DVD]



~ケダモノ~

〇こんな話 
 若者ギャング(ケダモノ)  VS  エイリアン(ケダモノ) 

〇演出 
 子どものギャングたちがエイリアンに立ち向かっていくわけだが、エイリアンの大群が襲来してきた際、捕獲すると息巻き武器となるものを各自の家に取りに戻る。最初のシーンである女性に対してカツアゲをしたり、ヤクの売人と繋がっていたりする彼らではあるが、家に帰ればこんな扱われ方だよという、ギャングと言う集団での立ち位置、家での立ち位置という他方の見方を一気に観せていく演出は物語をより深くする。

〇正義と英雄 
 正義はどこに存在するのか。英雄とはどこに現れるのか。
・・・それは、君の心の中さ~。 

 最後の警察に連行されながらも、主人公のチャントが絶えない。これは何を意味するのか。作品をご覧になった方ならばおわかりだろう。エイリアンの団地への襲撃は主人公が最初のエイリアンを殺したがためという、要は自業自得なのだが、彼はその責任のため、団地の平和のため、正義のため、守るべき者たちのために戦った。それがいかようなことであろうと。その人物がカツアゲだろうと、麻薬所持だろうと、後から来た無能な警察官に逮捕されようと、我々は英雄が誰か知っている。その名は・・・

〇ケダモノ 
 カツアゲの被害にあった女性がエイリアンの死闘の末に主人公に対して、赦しを与えるような演出がある。劇中確かに助け助けられ、共通の敵のもと協力していた。しかし、府に墜ちない方も多々いると思われる。 

 はじめに描かれる、カツアゲ被害者の女性とそれを保護してくれた老女の会話を思い起こしてほしい。彼女らは、彼らを「ケダモノ」と表現していた。団地内で迷惑三昧。邪魔者・厄介者扱いされているのだ。 しかし、宇宙からそれを超えるケダモノが現れることになる。カツアゲや花火騒ぎどころではない。命を狙ってくる連中だ。警察が機能せず、頼れる者はモーゼズを中心とするギャングたちのみ。共通の敵を排除するため、彼らは協力し、1つになる。
 悪に対して、より悪なものが出現すると、はじめに悪としていたものの悪が軽減するという不思議。ギャングたちの境遇、差別的な見られ方の演出で、彼らのカツアゲやヤクの売買に手を出さざるをえないというのはわからなくもない。そこですでに彼らという悪は軽減されつつあるのだが、自分の命を守るために、どちらかのケダモノにつかなければならないとして、命を狙ってくる相手(エイリアン)と、大切なものを奪ってはいくも、命は助けてくれ被害を金品だけに留めてくれる連中(人間)だったらどちらにつくだろうか。そしてギャングたちのカツアゲを見てからの、エイリアンが人間を惨殺するシーンを見て・・・、どうだろう、カツアゲがかわいく見えてこないだろうか。いや、実際かわいくもなんともないですがね。
 真っ当な人間に頼りたいところだが、こんな状況ではケダモノにすがるしかないという皮肉。そもそも真っ当な人間が生き残れるのか。いや存在するのか。そしてエイリアンとの戦いを通して、最後絶賛ヒーローになったカツアゲ男を赦してしまう、そんな女性もいると。
 悪には悪を。悪と悪がぶつかったとき、どちらが悪だったのかと比べてみると、どちらかの悪が軽減して見える。そんな不思議が彼女にも起こっていたのです。

〇最後に
 モーゼズ!! モーゼズ!! モーゼズ!!

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