2016年12月28日水曜日

戦場ぬ止み(2015)



~現場判断~


〇はじめに
 まずこの作品を観て思ったのが、店員と客(クレーマー)の関係。双方通そうとしている筋が違う。一見衝突しているように見えるが、それは物理的なもの(身体的な接触)であって、議論するべきそもそもの論点及び前提が食い違っている。



〇想起する作品
 「ザ・タウン」(2010)
 「わたしはマララ」(2015)



〇こんな話
 米軍(辺野古)基地問題。



〇現場判断
 反対運動を制止するから賛成ではない。

 デモを制止する警察が悪者の様に映ってしまいがちだが、彼らは仕事をしているに過ぎない。正確には、反対運動を阻止することを目的とした職務ではなく、ただあの現場における治安維持を目的とした職務だろう。その治安維持活動が結果的に建設を推進させることになっていたとしても、ここを捉え違えてはいけないだろう。この辺りの配慮はもっと欲しかった。

 とある場面、私には完全に反対運動の人間たちが悪者に映った。「ザ・タウン」という作品にて全く同じ手段を以て銀行強盗が行われていたからである。お前の家や家族は全部わかっているのだと脅しをかけていたのだ。責めるべき場所が違うのである。

 そして同じ場面であるが、機動隊を罵る男と機動隊とを遮っていたのはALSOKのヘルメットを被る者たちだった。彼らはもしかしたらアルバイトの若者たちではなかろうか。さらに県外の者もいたかもしれない。実際のところどうかはわからない。劇中においては彼らに対する発言は見られなかったものの、これからの世代を守る戦いにおいて、その矛先を向けているのが若者であるという構図(矛盾)に我々は何を見るべきなのだろうかと問われている気がする。



 劇中登場するのは、言い方は悪いが全て下っ端連中である。語弊はあるが、何の権限も持たない者たちである。基地の移設建設埋め立てにおいて決定権を持たない者たちである。そんな者たちがひたすらにひたすらにやり合っている。いったい彼らは何と戦っているのか。彼らの想いを踏みにじる者たちに、なぜ届かないのかという悲痛な叫びを訴えている。

 しかしだからこそ彼らのもっと根源的な反対理由を明確に示すべきだったとも思う。「わたしはマララ」でも気になったことだが、子どもに反対を主張させるという行為。これは子どもでも間違っているとわかることとして、ターゲットとする大人が嘘つきである間違っている)ことを際立たせたいがためだろうが、ではなぜその子どもは反対しているのだろうかというところを説明できるのか。ただ漠然と、従うべき大人を見聞し流されているだけではないのだろうか。
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 ざっくりとは根っからの阪神ファンの家系から巨人ファンが誕生するのか否かといったところだ。

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 悪い事を悪いと言う姿勢を否定しているわけではない。悪いことを明確に悪いと定める作業
が難しい場合が存在することを考慮に入れるべきであると感じているだけだ。この作品はどうしても反対側だけの主張、一元的な見方をしていると感じさせてしまう節がある。

 ものの見方捉え方というのは、教育においてとある段階をショートカットできるわけである。悪く言えば親から子への、大人から子どもへの洗脳である。つまり価値観を押し付けているのではないかともとれてしまう。

 今行われている反対運動の引き合いに、歴史的な活動が取り上げられている。こういった運動が繰り返されている、定期的に開かれていることを意味し、受け継がれている意志があると見て取れる。つまりは、ただ何かしらに「反対すればいい」という主張だけ残っているのではなかろうかという懸念を抱かせることに直結する。


 しかしそんなひたすらに反対を主張する彼らを映し出すからこそ、彼らを説得していない、いや説得できない、もっと正確には彼らの前に立って堂々と説明できない姿すら見せない者たちが尚更馬鹿に思えてくるのである。ここまでがこの作品の本来の意図かどうかはわからないが。



 次の世代のために戦う。しかしそれは今の生活を保障できてこそ為し得ること。まずは今の生活である。とある家族の住む家は大きな家だった。つまり反対派の人たちは現状それなりの余裕がある人たちなのだと映る。

 そこに補償金問題。これが生活を保証するものではなく、口止め料となっている節がある。国からの圧力だけではない、反対派からの圧力もである。魂を売った連中であると。そんな確執が見え隠れする。


 その反面、困難な試験や訓練を潜り抜けて来た者たちが反対派を食い止める。彼らはなぜその職に就いたのか、耐えられたのか。反対派からそれを問われる場面があるが、それは言わずもがなだろう。いや反対派の人たちもわかっていて敢えて聞いているのか。

 反対派を捉える海保の人間の中に結婚指輪が光っていたり、ところどころで反対派とそれを止める者たちとで寄り添う場面があったりする。なぜ海を守りたいのか。なぜ仕事として反対派を止めるのか。互いに守るべきものがあるはずなのに、それは同じであるはずなのに衝突を繰り返している。この事実を受け止めなければならないだろう。




〇反応
 反対運動における主な目的の1つは、反応を引き出す事である。警察の場合、事が起きなければ、ある程度の事態にならなければ介入できないという制約を逆手に取っている。これがある種パフォーマンスとして機能し、且つパフォーマンスとして受け取られているのが現状だろう。そしてそのパフォーマンスが独り歩きしている面もある。県外の人間がただ騒ぎたいのみで参加しているデモ活動も多いのではなかろうか。そんな情報を鵜呑みにし、外野がワ~ワ~言っているのがネットにおける論争であろう。しかしこれが悪い面だけではないのがまた複雑な(おもしろい)ところで。

 注目をさせたいという目的が達成できているわけである。賛否両論巻き起こすことがそれに繋がるわけである。注目を集めれば、議題に挙げることがまず第一なのである。

 1人の漁師が本気で反対するなら陸路のゲートを封鎖するよりも、海に出て守るべきだと言っていた。確かに現地人からしてみたらその方が効率的であるのかもしれない。しかし何分県外の人間からしてみたら地味である。ならばゲートを塞ぐ、押し寄せる民衆という構図を観せた方がインパクトは出る。それを見越しての活動なのだろうことは伺える。

 それと共に先ほども書いたが、そんなパフォーマンスという要素が独り歩きしている感が否めない。なぜ反対しているのか。ここをもう少し掘り下げて描いてほしかった。






〇最後に
 何のために辺野古に基地を作るのか。何のために反対しているのか。この辺りをもう少し掘り下げないとダメだな個人的に。勉強不足。これをきっかけとしたい。


 ではでは・・・





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