2016年12月11日日曜日

クローズド・サーキット(2013)

クローズド・サーキット


~情報化社会~


〇はじめに
 まぁ何がおもしろいって何やかんや取り繕ったところで未然に防ぐことができていないことですよね。未然に防げたものは表沙汰になることがないから単純には比較できないわけだが。それに対して情報操作や隠蔽は手早い。この手慣れてる感は防げている事態の方が圧倒的に少ないことを意味するのではなかろうか・・・ともとれてしまうわけでね・・・


〇想起する作品
 「マーシャル・ロー」(1998)
 「フィフス・エステート/世界から狙われた男」(2013)
 「ブリッジ・オブ・スパイ」(2015)



〇こんな話
 防犯カメラか、監視カメラか・・・



〇監視カメラ
 防犯カメラによる犯罪抑止とは、単に見られているという緊張を与えることで行動を制限するだけでなく、防犯カメラがあるという前提で対策をしてくる連中に対しての監視という機能も備わっている。防犯(事前対応)と監視及び追跡(事後対応)と二重の意味(効果)があるわけだ。ざっくりとは犯罪者予備軍の抑止と、犯罪者の監視及び追跡。これがモノの見事に裏目に出ているとして描いたのがこの作品である。いや裏目に出ているのではなく、裏をかき真実を闇に葬ろうとしたと言った方がいいか。 

 劇中カメラに映し出されていたのはいったい何者だったのか。犯罪の抑止になり、監視と追跡を可能とする機能を持ち合わせているカメラはいった誰を追いかけ、誰を捉えようとし、誰の行動を抑止しようとしていたのか。ラスト肝心の犯行現場を映し出すカメラだけが暗転する様も「防犯カメラではなく、監視カメラだ」という皮肉に見事に効いている。



〇情報化社会
 爆破テロの現場における監視(防犯)カメラの映像から始まる。これが秀逸だった。カメラの映像は段々と分割されていく。当然だが映像と音声は同時に入ってくる。しかし分割されていくごとにどこからのものかと判断がつかなくなってくるのである。探してしまうのだ。そしてこれらは全て同じ場所をただ違う視点から映していることを爆破テロで決定づけるわけである。


 まず2分割



 母娘が会話をしているわけだが、これはすぐにわかる。左に2人が映し出されているからだ。彼女らが話しているのだろうと。そして右にも彼女らは映っている。



 4分割
















 母娘をそれぞれまた別の視点を加え捉えている。まだ大丈夫か。

 ここでふと思う。何の情報も無く、ただ漠然とこの映像を見せられたところで、右上の母娘を確認し残りの3視点ですぐに2人を捉えられるか。そもそも映っているという考えに至るか。多角的な視野を繋げられるか。



 そして6分割
















 母娘以外の情報が続々と付加されていく。



 8分割






 男の声、女の声、話されている内容等々判断材料はひたすらに与えられている。しかしわからなくなっていくのである。ただ1つそれだけ個別に示されているならば問題は無い。それが交錯している中でそれが瞬時に判断できるのか否かが問題なわけである。情報が飛び交う。いったいどれを捉えるべきなのかと。


 12分割
















 何かが起ころうとしていることはわかってくる。その捉えるべき情報が示されているからだ。しかしその異変に気付いている人はカメラの中にはほとんどいない。カメラの映像を観ている人にもいない。


 15分割



















 そして爆発が同時に映り込む。




















 町中をカメラが覆っている。全てではないにしろ現場を多角的に捉えている。しかし未然に事態を防げない。なぜなのか・・・

 まず我々が最初に行ったカメラの映像に対するアプローチだが、何かが起こるとして行ったアプローチなのである。異変や違和感を探すことを主としている。故にその異変に気付くのである、捉えることができるのである。

 ではそれが現在進行形で何もわからない状態で観せられたらどうだっただろうか?

 では何故その事態に陥ったのかをあの映像だけで理解できただろうか?


 肝心の手がかりとなるボイスレコーダーに吹き込まれた少年の言葉。理解できない主人公女があった。単語すら、文字にも起こせない。情報を与えられたところで活かせなければ意味が無い。これがこの定点カメラの映像に対する1つの皮肉である。




 簡潔にまとめてしまうのならば、結局それを判断するのが人間だからである。限られた時間ではこの膨大な情報を選別・処理しきれないのである、行動に移すまでの決断をしきれないのである。

 突き詰めるならば、如何に多角的にその現場を捉えたとしてもそれは結局ただの一面に過ぎないからである。事後の現場にて爆発前後の経緯を整理する主人公男が1つ皮肉になっている。結果があり、そこからやっと全体へアプロ―チを開始する、できるようになる。結果から繋げられる事実が見えてくる、目を向けるようになる。

 そして「見るものがないだけ」と主人公男。これは物理的にその場に何も無いというのと、その事態に陥るまでの事象がそこからは見えてこないということ、さらにはカメラは見る必要の無いものまでを捉えている、といったことを意味している。

 読み解くのに時間がいるのと、何かしら結果が出ないと因果関係をつかめないことが事態を複雑化させる。この描かれ方が本当にうまい。

 ここでまた皮肉となってくるのが、事後それを読み解く時間が十二分に与えられてもそうはしないという力が働く劇中の諍い。笑っちまうぜ。

 そんなこんなで劇中ひたすらに勘繰る必要性が出てくるわけなんだが、それを踏まえると最後裁判が開かれる準備の時に、ただ水が置かれるだけでそれすらも怪しいと見えてくる。何か盛られているのではないのかと。実際そこでは何も起きないのだが、いや何も起きていなかった、ただ水が準備されただけのこと。それなのに怪しんでしまっていることに気付く。判断ができていないわけである。焦点を合わせるべきはそこではなかったのだと。

 さらに憎いのが、その水を飲むシーンではなく溢すシーンを挿んでいることよ。結局何だったのかがわからない。闇に葬られたわけだ。勝手に謎を創り出し、闇に葬られたと陰謀論を疑る。

 ここでまた定点カメラに思考が戻る。情報がそこかしこで溢れている時代に、我々は何を見つめ何を判断できるのだろうかと。


 監視カメラによって街(国)を市民(国民)を多角的にとらえているというのに対して、裁判が非公開というのもこれまた皮肉だろう。裁判を監視する者は?

 何を基に何を以て何をどう判断するのか。前提とするところは正しいのか。前提の前提とするところは正しいのか。前提の前提の前提とするところは・・・? さらにその前提は? 究極何にもできなくなりますよ。信用に足る情報などどこにあるのかと。

 それを示したのがまず弁護人同士の関係だろう。裁判の始まりの部分。弁護人の選定と変更。非公開とされるだけで疑われているわけだが、法務長官はイギリスの司法手続きは極めて公平で透明性があると。しかし実際のところ弁護人の適格不適格かの判断は自己申告に委ねられている。その宣誓に基づきまず一つ判断が下される。公正な裁判を築く上でのルールが侵害されていると意識づけている。

 そしてそれはまた一面でしかないと見せるわけである。そもそも2人に関係があることで、弱みがあるから選ばれたのだと。前任が自殺したことになっていること、思い込んでいることもこれだ。最初に長官とのやり取りがあった。


 ここと関連して、裁判資料や証拠資料を基に推理する様やそれを疑う様をひたすらに散りばめている。資料よりも人を信用する場面も。弱みとされる部分、司法制度に対して透明性が無いとされる部分が逆に求めている真実を解き明かす面もあるわけだ。


 そしておそらくはここが一番肝心で、司法制度の透明性に胡坐をかいていたのは何も関係者だけではないということだろう。国民もまた同じく受け身の姿勢だったわけだ。入ってくる情報だけを鵜呑みにしていた。

 司法長官は何をやったところで変わらないと言うが、それは事を起こしていないから言えることで。今回の事件にて国民が目を逸らされてきた事実が明らかとなった。そうなると話はまた別だ。

 これが今作の情報化社会における警鐘であり、知る権利というところの主張である。透明性とは情報公開を待つことだけでなく、知ろうとすることであると。






 時折監視カメラの映像が挿入されるのだが、それだけでなくマンションを外から捉える映像も挿入されている。

















 そして彼女の一室を捉える画。

















 最初に映し出された監視カメラの図式と同じなわけだが・・・
 これも1つ時代を捉えたものなのだろうか。同じ住所同じ建物に多くの人間が住んでいる。区画整備を進め地名や番号を振り分けていったわけだが、これをさらに分割しているのが今の世界だろう。1,2,3・・・ではなく1-1、1-2・・・、さらには1-1-1・・・といった具合に。

 番地だけでなく建物を指定し、さらには部屋番号を指定する。そして究極は対象となる者の名前だ。一見個人(独りの人間)を重んじているようで、この細分化が逆に独りの力の軽視するという仇となっている。




 主人公男が嗜んでいるボートはタイミングが命なわけで。やみくもに漕げばいいってもんじゃない。一連の決まった動作をその時々でやる必要があるわけだ。そうしてボートは進んでいく。決めた方向へと進めることができる。

 これを踏まえ、彼は時折息子を乗せていることを想う。個人からの広がりとしてまず家族という括りということか。1人の時とはまた違ったことを意識せねばならない。そしてそこからさらに増えていったら? 家族という括りから親戚、友人知人、他人・・・と。


 船頭多くして船山に上る、なんて諺がある。しかし船が大きければ独りでは動かせないわけで。


 これが国を動かしている、守っている、舵取りをしているという自負のある、実はその世界へと足を踏み入れてしまったことによる呪縛から逃れられないだけのただの自己保身に奔っている連中を揶揄しているともとれる。


 独りでボートを漕ぐ、独りでボートを担ぐ。独りの力では・・・







〇余談
 イギリスは裁判においてカツラ(ウィッグ)を被るのか。



 非公開だからウィッグいらなくね?という裁判長の言葉も皮肉なんだよね。



〇最後に
 いろいろ書いたが当にこの映画もそれに当たる。詰め込み過ぎとは言わないが、一回では一見では判断しきれない。しかしこの監督の最新作「ブルックリン」ではものの見事に感じないのよ。ジャンルが異なるわけだが。意図してなんだよね。すげえよジョン・クローリー。


 ではでは・・・




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