2016年12月7日水曜日

0:34 レイジ34フン(2004)

0:34 レイジ34フン


~当たり前~


〇はじめに
 これ映画館で観てたら泣いてたと思う。


〇想起する作品
 「ミッドナイト・ミート・トレイン」(2008)


〇こんな話
 終電逃しちゃった。



〇当たり前
 主人公ケイト(自称セレブ?)のやってやって体質が鼻につく。金にモノを言わせている感じ。金を払えばいいと思ってる。汚れ仕事は全て他人というより下に見ている人間にまかせ、自分は綺麗なところだけをすくいとる。

 これっておうえのかたがただけでなく、我々の究極系なのよね・・・

 「臭い物にはふたをする」

 綺麗にするために、保つために我々がとってきた手段だろう。日本は特にではないか。肥溜めが都会にあるか?


 おそらく最初の下水道の場面で我々に落としているのだろう。様々な形態をとってきたわけだが、今やトイレは流すものである。流せばもうそこにそれは無い。その行く先は誰ぞ知る。そもそも我々は知る必要がない。追いかける必要もない。効率化を図りそういうシステムにしたのだから。

 ポイ捨てをする輩は多いがそのゴミは次の日には無くなっていたりする。誰が綺麗にしてくれているのか。ゴミの日にゴミを出せば収集車が持って行ってくれる。それはどのように処理されているのか。

 我々はこういった一連の工程を知らない。知ろうともしない。こうすることと決まっているからこうすればいいと無思考で動いているのである。故にこうしなければどうなるのかといった想像すらできないのである。故にルールを破るものが出てくる。そしてそれを的確に否定できない。どちらも貧困な頭の持ち主なのである。しかしそれが功を奏しシステムを円滑に潤滑に回してもいる。



 こんなシーンがある。

 水が出ていないのに手を洗い、




 手が綺麗になったとして蛇口を閉める。

 これは彼の手を洗うという一連の動作の習慣化と、蛇口をひねれば水が出てくるという我々の当たり前な事象を訴えている。水が出ないならばわざわざ蛇口をひねる必要が無いわけだから。手を綺麗にするという名目ならば別の手段を講じるべきだからである。しかしそれが為されていないというところがおもしろいのである。彼もまた我々を揶揄している。


 この辺りわかりにくかったらアニメの方なのだが「干物妹!うまるちゃん」の第10話のコーラをこぼす話を観ていただければと思う。モノは違うが今当たり前にあるものが無くなったらどうするのかというところを、ネットありき(依存)の現状でコミカルに描いている。



手を洗うというところを扱ったのでそこと関連するものを少し・・・


 散々な主人公なのだが、最後彼女の手が汚れているシーンが映し出されている。



 これも狙っているのだろう。向こう(英語で)は「手を汚(す)」して、「手を洗う」。彼女は基本お金で解決自らは手を汚さない他力本願志向なのだが、そんな彼女がこの手なのである・・・ 

 こんな画もある・・・

 手でものを食べている。まぁモノによってはベトベトになりますよ。


 彼女が挙げた手に反応しないタクシーも何かあるのか?


 「手」ってところを強調したいのは伝わってくる。 しかしセレブ志向はこれでもかと見せられるが、この手を見せるならば事前にもっと変に清潔感を気にする様は見せてもよかったのではと思えてしまう。




 最後ホームでボロボロになったケイトがお恵みをもらうわけなのだが、これも当たり前というところだろう。最初に彼女とホームレスのやり取りは観せられた。最後のところで彼女の立場が逆転したことで彼女にとっては当たり前ではない(ホームレスではない)ことを示されるわけだが。当たり前な日常とはどのように始まるのか・・・ 



 そしてここではホームレスの日常だけでなく、おそらくはお恵みを与えた人間の方の当たり前というところを意識させたいのだろう。我々は彼女がどんな人物なのか、あの場に至るまでどんな修羅場を潜ってきたのかを観せられた。その上であの対応を観せられるわけである。最初の下水道の件で我々に落としているとしたが、最後の最後でまた念を押しているわけだ。


 なぜ男は彼女をホームレスであると認識したのか?


 これが最初にケイトが拒絶したホームレス



(ここで小銭恵まないで、小銭が無くパスが買えずにマンディから20ポンドで買ったってなところで、ラストのお恵みなのよ。)



 そしてパスを売ってくれたホームレスのマンディ





 そしてこれが最後のケイトである




 比較してみてどうだろうか?

 とある情報によりその括りで見るということ。要はジャンル分け。人付き合いにおいて誰しもやっていることである。経験則による特徴判断故に基準は人それぞれであるが、例えば気の合う者とはつるみ、苦手な者はなるべく遠ざける(距離をとる)といったことをしていないだろうか。これは自らの生き易さの向上のために人を区別するという行為なわけだが、同情といった感情を生み出す反面、究極偏見や差別にも繋がってもしまう。

 まずその人を認識するのか否か。そしてその人をどう認識するのか。そしてその認識でその人にどういった対応するのか。

 ケイトはまずホームレスを認識していなかった。話しかけられてホームレスだと認識した。そしてホームレスだとして悪態をついた。

 男はというとケイトを認識し、ホームレスだと判断し、お恵みを与えた。

 このお恵み紳士は彼女の人付き合いをひたすらに見せられての対立候補なのである。人付き合いという習慣化における彼女~紳士という幅を見せたわけである。

 途中マンディが死んでるのか否かというところもこの認識・判断というところだろう。 認識するか否かの次のどう認識するのかというところの究極系が生死の判断である。


 そもそもケイトが事件に巻き込まれる原因となった最初の寝過ごすシーンなんてのも彼女の習慣というか習性を当に謳っているところで。誰かが起こしてくれるでしょ感覚ですよ。この考え方は劇中おそらくイライラした人続出だろう彼女の行動でひたっすらに示されたわけで。

 この辺り日本ではありえないと思えてしまうのかもしれない。電車の中は清掃員が入り、駅も最後ちゃんと見回るでしょうし・・・。駅員さんが朝寝坊して駅が開いてないとかってのはたまに話題になるけど。

 でもそれは外から見た人間の考えなわけでね。まず寝る人の思考を辿った方が適当なのよ。

 なんで寝てしまうのか? 眠いからに決まってるわけだが、まぁ寝ることに抗えなかったからなわけだが。本来寝てはいけないという絶対的な条件があったのならば、事前に寝ないように対策を講じるわけだよ。でも彼女はそれをしないんだ。酒を一杯引っ掛けているのがそれに当たる。





 つまりこの結局寝てしまうというのは、誰かが起こしてくれるだろう安心感があるということで。要は慣れなのだが、そんな日常が当たり前になっていたということで。しかし世界がちょっと違えばあれま~これま~。寝る前と後のホームの人のあるなしの対比もこの日常的な安心感というところで日常の光景を知っているからこそ中々に怖い。彼女が嫌な顔をしようがしまいがそこに他人はいたんだ。

 下水道の件でベテランと新人で見せているのもこれ関連なのかもしれない。経験豊富で習慣づいているモノがある人間と、全くのペーペー。世界の見え方が全く異なるわけである。それが上記でも書いたが、当たり前というところに目を向ける思考につながる。ここが見えてこないと辛い。


 有り得ないという感覚ってのはその個人の主観でしかないわけで。ニュースで時折飛び交うでしょう、なんでこんなことが起こってしまったのかってな事件が。それを後からこうすべきだと手段を講じる云々カンヌンなんとでも言えるわけでね。

 なんでも便利になった今日、この辺りの感覚が乏しくなってきてるんだよね。この映画はそれを言いたいのよ。まぁわからん人はいいよ。ま、ブーメランなんだけどね。



〇最後に
 当たり前というところを訴えるのがこの作品は抜群にうまい。「トライアングル」という作品を撮った監督なのだが、この作品で一気にファンになった。クリストファー・スミス監督。追いかけますよ~。

 ではでは・・・


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