2016年8月28日日曜日

怒り




※もっと早くに載せる予定だったのですがタイミングが掴めずに今に至りますm(__)m


〇はじめに
 普段ほとんど読書をしない人間であり、今まで読んだものなんて片手で数えるほどだが、とある人間に強く勧められ手をつけてみた。


〇想起する作品 
 映画化が決まっているそうで・・・ 2016年9月公開か・・・ 割と近いな・・・

 「きみはいい子」(2014) 
  ・・・原作の中の3作品を繋げて観せた感覚が近い。 

 「白い沈黙」(2014) 
  ・・・刑事視点を入れたことによって、物語の中盤から我々読者が情報的に事件
    を先行するカタチとなるところ。 

 「あん」(2015) 
  ・・・偏見や差別という観念をどら焼きの生地とあんとで観せた作品で、理解とい
    う項目で少し取り上げてみる。 


上記3作品が強く浮かんだ。以下テキトウにその他もろもろ

 「容疑者Xの献身」
 「ゴーン・ベイビー・ゴーン」
 「ゴーン・ガール」
 「僕だけがいない街」
 「ブリッジ・オブ・スパイ」
 「(劇場版)金田一少年の事件簿2 殺戮のディープブルー」



〇総評
 まず総評から。

 抜群におもしろい。はじめに愛子という人間を描き出すことでグッと引き付けられた。その描かれ方から、最初愛子という存在を小さな女の子であると錯覚する。そこでOLと同い年?と。ギャップを提示されるわけである。我々(というより私個人)が勝手に抱いていたイメージと。

 我々は他人(ひと)をどう判断するのか。愛子という人間にはじまり、これが物語全体で頻りに描かれていく。第一印象、ファーストコンタクトから、だんだんと他人の輪郭が定まっていく。そしてさらに深いところへ深いところへと。果たしてそれは本当に深いところへと向かっているのかと。とあるギャップで、一瞬にして浮上し、抱いていたイメージは崩れ去る。

 これが山神一也でいう単純に整形というところ、そして動機となる部分と掛かっていて、刑事視点で明らかになっていく彼という人間像、そしてとある者たちの間で描かれた彼という人間像が照らし合わされていくことで我々は混乱していくこととなる。とともに考えさせられるわけである。しかし思考が追いつかない。追いつけない。余裕が無いんだ。見えないものがあるんだ。

 最初、3者の中で誰が犯人なのだろうと、関わりを持っていく人間たちと同じ目線で疑いの目を向けていく。しかしそれが、北見という刑事視点が織り交ぜられていることにより、とあるところで転換点を迎えるのである。事件に関する情報にて、読者が先行するカタチとなるのである。ここから我々に彼らが直面する事象に関して幾分か余裕が生まれ始める。なぜ彼らはそのように行動したのかと。信じられなかったのか、信じられたのかと。そしてそれを深める刑事にとっての数ある中での1件と、それぞれに振り回された1件としての見せ方。この転換がほんっとうに秀逸だった。前半で誰かが犯人であるとして共通点を探し出させ、相違点を見つけ出させてるから効いてくるんですよね。いや~おもろかったな~。


・補足
 
 犯人の「怒」の、殺人の動機が結局わからずじまいでつまらないとして低評価とするレビューを見かけたが、全く的を射ていない。しかしそんな人間がいるということも、いや、正確にはそのようにしか理解できない、感じられない人間がいるということも、この作品は全体のテーマとして描いており、彼らのような人間をも抱擁しているのである。高評価の方は反発することはない。いや、それを受け入れている人が高評価なのだから心配いらないか。

・さらに補足
 では犯人は何に怒っていたのか、何で怒っていたのか・・・ 殺人の動機は???

 言っちまえば、そんなんわかるか~いってな話でして。で、そこであきらめるんですか?探るんですか?。動機となるであろうことはひたすらに散りばめられていましたよね。でもでもそれって必ず動機に繋がると言えるのでしょうか? 結局は想像でしょ? だからってあきらめるんですか? では答えの無い事象にどうやってアプローチするんですか? してきたんですか? この辺を一旦考えてみましょうよ。

 そんな感じで割り切った。


 その工程というか何というか・・・、次の項目で取り上げてみる。


〇理解
 他人の本気は見えないというやり取りが為されていた場面があった。そして尺度としてチベットの僧侶の焼身自殺が挙げられていた。

 人は物事を決して理解などしていない。ただ「理解した」と割り切っているだけなのである。

 そこにその人に対する信用や信頼というものが関わってくる。ここがなんとも難しいのである。面倒くさいのである。

 何をもって信用するのか、信頼するのか。その尺度はどのように築かれているのか。



 例えば・・・

 ・猫好きに悪い人はいない

 これはどう理解しようとするだろうか? 割り切るだろうか?


 に焦点を当ててみよう。

という動物の特徴や性格を考慮し、好きになる人間に悪い人はいない」

と書き換えてみたとする。するとどうだろう、猫という動物に信用・信頼を置いていることがわかる。


 では悪い人ではどうだろうか。

 悪い人は猫を好きにならない、ということになると、悪い人に信用・信頼が置かれていることになるのである。


 では最後に、好きは? 

 好きという行為(感情)をどのように把握しているかだろう。好きをどのように表に出すのか、表現するのか。もっと言えば、愛情というものをどのように理解しているのかと。必ずしも愛情が人を傷つけることにつながらないとは言えない。  


 北見は言う。信じたいのだと。信じられると信じたいのだと。

 優馬も言っていた。疑うということは、信じているのと同義なのだと。

  ・・・この辺りの解釈は「ダウト ~あるカトリック学校で~」を観ると良い。



 「あん」という作品でも少し書いたのだが、その人間の本質をどこに見出すのか。単なる容姿か、仕草や態度か、喋り方や言葉遣いか、声色声質か、常識やマナーか、食事の場面か、仕事や趣味嗜好か・・・etc  そしてそれのどこにどのように信用や信頼を置くのか。さらにはそれらの重要度を如何に自らを律し、序列化し、さらには判断をするのか。

 我々は経験上無意識に意識に無自覚にも自覚にもこれをやっているわけである。

 ここに、そんな日常に一旦立ち返らさせる描き方がこの作品は秀逸なのである。




〇最後に
 映画化へ向けての激励を・・・

 如何に3人の男を印象付けるかだろう。とある場面を迎えるまでに人間像を形成させる。それによって前半部分は誰が犯人なのかと疑心暗鬼に陥りながらもサスペンス・ミステリー要素を楽しませられることだろう。

 そして転換点。

 犯人が判明した時の恐怖を植え付け且つ、そこから犯人ではないとわかった他2人の周辺で見舞われる事象で如何にやきもきさせることができるか。ここが一番に力を入れていただきたいところ。この辺りは上にも挙げたが「白い沈黙」、同監督の作品で「デビルズ・ノット」という作品がおもしろかったので付け加えておく。

 泉がとある事態に巻き込まれての胸糞悪さ、そして「怒」の恐怖。ここがどうなるのか・・・

 期待している。しかし不安でもある。この味が出せる人間が日本にいるのかと。監督の前作を観ておこうかな。厳しい目で鑑賞させていただく。

 ではでは・・・





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