2016年8月28日日曜日

砂上の法廷(2016)

砂上の法廷


~真実~


〇はじめに
 弱いな・・・ これが観終わっての感想。


〇想起する作品
 「推定無罪」(1990)
 「真実の行方」(1996)
 「ディアボロス/悪魔の扉」(1997)
 「ニューオリンズ・トライアル」(2003)
 「リンカーン弁護士」(2011)
 「ダウト・ゲーム」(2014)
 「ジャッジ 裁かれる判事」(2014)


〇こんな話
 とある裁判のなんやかんや・・・


〇騙される心理

・ 94分、あなたは騙され続ける

・ 全てが覆る衝撃のラスト11分、法廷の禁忌が破られる


 こんな文言が書かれているわけだが、この手の騙されるをウリとしている作品はどうも肩を張って観てしまう。結論ありきで観てしまう。

 しかしこの作品のウリはラストの逆転劇では決してなく、それまでの裁判におけるある1つの真実の形成過程を眺めてみての、じゃあ本当はどうだったの?という今一度真相を見つめなおしてみると・・・ってなところにある。そこで人はなぜ嘘をつくのかというところが際立ってくるのである。


 陪審員が判断するのは有罪か無罪かだけということと、それゆえの裁判における陪審員へのアプローチは見もので、ここは踏まえるべきところだろう。劇中の真相へのアプローチは、裁判における証言を繋げて作られるイメージ(及びライン)と、それに情報が補足されたカタチでの再現映像によるイメージ(及びライン)で行われる。陪審員制度においてそれはどこまで抉られどう判断されるのか。どこに影響されるのか。


 前者において嘘がつかれていたのなら・・・、として後者を観せていくわけだが、この嘘、嘘、嘘と来ての弁護士にすら黙秘を続けていたマイクの衝撃の真実の告白の流れはうまかった。そしてもう一件も。マイクの晒されている状況からの判断なわけだが、口を開くまではマイクの意思は全く介入せずに話が為されている。当事者抜きに真実が形成されていく。断片的な真実が都合の良いように組合わされていく。

 我々はこの外に存在していることがおもしろいところで。証言者の証言による真実の形成と、実際とされるものが映し出されるわけであるが、ここでそれを比較できるのは我々だからなのである。そこにマイクが一石投じることで気付かされるのである。我々も同じように断片的に都合の良い真実を組み合わせ真相を探ろうとしていたことを。最終的には前後関係をも訴え始める。明らかにされた真実の因果関係が狂わされるわけである。

 これの何がうまいのかというと、結論ありきで話が為されているというところを突いたことである。裁判においてはマイクが父を殺したということ。これありきで動機を究明する事が焦点になっていく。そしてその動機を陪審員に訴えるのである。情に訴えるのである。これが裁判なのである。陪審員裁判なのである。


 最初に弁護士による裁判の概要説明から入るのは意図してだ。要所要所で彼の見解が挿み込まれたりもしている。彼の情報をベースに裁判にアプローチさせられる。前提(結論)をまず踏まえさせられるわけである。


整理すると・・・

 1,証言者による証言

 2,実際とされる映像


 裁判においては1のみでの判断であること。1と2を比較できるのは鑑賞者だからということ。1を都合よく組み合わせ陪審員の説得にあたる弁護士と検事のやり取り。これと1と2を比較して真相に迫ろうとする我々のやり取り。このアプローチの仕方が同じであることに気付かせるのがマイクの衝撃の真実の告白なのである。そして振り返るのである、裁判にて何が話し合われていたのか。何が目的とされていたのか。そして辿りついた真実とは何だったのか。




 極論だが、そもそも真実なんてのは主観的事実を繋ぎ合わせた客観的とはほど遠い代物で。この作品で陥るべきは騙されたという爽快感ではなく、いったい法廷では何が話されていたのかという喪失感で。どこかでも書いたが、裁判とは事実を解き明かすべき場ではなく、真実を創り出す場なのである。




〇最後に
 いや~おもしろかったな~。煽り文句が無い方が親しみやすい気がする。変に緊張させると負けまいとする感情が先行してしまって素直に観れないのよね。2回観たが肩を張らずに観た2回目の方が全然楽しめた。

 ではでは・・・



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