2016年8月13日土曜日

64-ロクヨン-後編(2016)


~地道~


〇はじめに
 前編はドラマ要素十分、後編はサスペンス要素十分。

 個々で観ればそれなりに評価されることだろう。しかしこれを分けざるをえない事態が、今の日本映画界のしがらみであり実情であり実力であると嘆かざるを得ない。

 どうせなら原作同様三上という視点に絞って一本にまとめてほしかった。



〇地道
 これを繋げるなら前編で落としたところの意味が無い。記者クラブへの熱弁が、三上の覚悟が、三上への信頼が霞む。

 三上を焦点に板挟みを見せたものが、記者たちへも適用されている様を観せたいのはわかる。警察の内輪揉めから、広報官を通して記者クラブよりさらに外へと広げる。結局どこも責任の擦り付け合い。結局誰かが悪者。自分に都合の良い正義に対しての悪を見つけ出したいだけなんだ。自分が正しいと言う主張は決して自らが発する正義によって成り立つのではなく、誰かを悪として定めたからこそ際立つ正義なんだ。そんなものになんの意味があるのか。その中で恰好の的となってしまった柄本佑はすばらしかった。そしてゴミを撒き散らしていった記者たちの後始末をする画も皮肉めいていて効いている。

 一本の作品として見せるべきだったんだ。誰が正義で誰が悪かなんて論拠は不確かで曖昧なものであると繋げるのならば。それが64の犯人における三上の見方捉え方にも通ずるわけで。女の子を殺した過去がある64の犯人として見るのか、娘が誘拐された父親として見るのか。全く見え方が異なってくるわけだ。



 前編にて革靴の件で触れたが、なぜ刑事としての汚れを描かなかったのかと思ったらどうやらこの最後が描きたかっただけらしい。「ストレイヤーズ・クロニクル」でも気になったのだが、瀬々監督はどうも人間ドラマとして地べたを這いずり回る姿を描きたいようだ。最後の追いかけっこと取っ組み合い。ピカピカだった革靴で荒野を駆け回り、川で大乱闘。

 この辺りは広報官直々の捜査指揮車への乗り込みや雨宮宅への挨拶、トイレにだって籠ったひたすらに現場に赴く広報官の姿と、ただ部屋で悩み悪態をつき、勝手に意気消沈する赤間部長の姿との対比で事足りているのではなかろうか。いや必要だったとして、64当時を映し出す際にもこの泥臭さは必要だったのではないのか。そもそもここに至るまでに、事前に見せておく要素だと私は思うのだが・・・

 結局のところ「人対人」なのだというところを描きたいのはわかる。赤間部長の言う携帯やネットの普及による世界との繋がり。64事件ではそれぞれの場所に設置された固定電話が模倣事件では携帯電話になっていた。そして前編でひたすらに描かれた個人というエゴが形成する組織の軋轢。結局は全て「人」なんだ。「独り」からなるものなんだ。
―――――
 大げさに言えば、愛とされるモノでつながったはずの夫婦でさえ、血のつながりのある親子でさえ、時にすれ違う。それが他人となれば・・・ より大多数となれば・・・ そりゃストレス抱えるよね、どっかで発散したくなるよね、その過程で誰かが潰されるよね、
―――――


 これと関連して、無言電話の正体として電話張にてひたすらの三上を観せた後の展開は見事だった。個人というところに落としてからの、雨宮のひたすらに地道な犯人への糸口。雨宮にしてみれば犯人へと収束していく展開でありながら、我々からしたら広がりを見せるというミステリー展開。昭和64年に取り残されているという演出としてもすばらしい。当に時代錯誤。しかし我々が見失いがちな、本来人間にとって重要なモノでもあるわけだ。

 雨宮だけが犯人の声を聴いていた。その雨宮が犯人を突き止めた。これを証拠として扱えるのか否か。ここなんだよな、問題は・・・



 全体的に三上主体だから、三上視点だからこそ活きる作品なんだよな~これは・・・

〇最後に
 題材は本当に一級品だと感じる。今だ原作を読み終えない私が言うのもなんだが。

 あと小田和正って作品じゃないんだよな~ これは後編を観終わっても変わることは無かった。


 ではでは・・・
 

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