2016年5月9日月曜日

吐露かつお 2貫目

~グラスホッパー~


 原作を読んだので感想を少し。

 半年かけてやっと半分という何とも自分には合わない作品であった。そしてそのまま本を置いた。 

 お断り 以下読了してない者による戯言ですので・・・

 映画の方でバランスという項目を設けたが、原作も当にこれを狙ってやっていた。職業柄や性格やら明らかに違うように見せていて、それが段々と収束していくというところがおもしろいのだろう。しかしこの極端に見せているからこそ、序盤登場人物が出尽くしたところで対比させたい事象が全て見えてしまう。故に思う。これはこれ以上読んでいておもしろくなるのだろうかと・・・

 そしてこの原作を映像化するのならば、俳優陣や観せ方としてはあの実写化は納得せざるをえない。評価を改めるべきだろう。うまく観せていたと感じる。 


 私に合わなかったというだけで低評価をしてしまったので、以下でこの作品に関して少し分析を行ってみる。



 複数の登場人物が入り乱れる、グランドホテル方式、群像劇がこの作家の持ち味だとか? そして若者に人気だと聞いた。それはなぜなのだろうと考えたんだ。 

 今の時代入ってくる情報が多い、否が応でも。そして多くはマイナスな情報が先行して入ってくるようになる。そうするとどうなるのか。自分をひたすらに過小評価するのである。自分という独りに価値を見出せなくなるのである。

  しかしそれが群像劇として描かれるとどうだ。相違点といったマイナス面の情報が先行して入ってきたところに、プラス面となる共通点が描かれたら。後者が際立ってくるのである。感情移入のしにくさはこれを狙ってなのではないだろうか。自分とはおよそ関わりの無い人間に、自分との共通項を見出す。緩衝材として鈴木が機能している。ごくごく普通の冴えない人間が、とある世界に巻き込まれていくことで。ここにおもしろさを示すのではなかろうか。正確にはここに気付けた自分に面白さを感じているのではないか。自分という存在に価値を見出せるからだ。


 大衆の中の一個人。選挙にて毎回のように話題になる若者の無投票。自分が行ったところでという過小評価。政治・政府への落胆は言い訳としか機能してないことが多いがそれはここでは控えよう。

 そんな若者が群像劇にて大いなる意志、大義や大局の中に自らが含まれているという構図を見せられたら。魅せられたら・・・

 伊坂幸太郎はここのツボを抑えるのがうまいのだろう。



 人と人との関わりが薄くなっているとはどこでもくどく言われている。時代の変遷としてそれは良くも悪くもあるので一概には言えないが、ここをもう少し深めたい。

 以前は離れた者との連絡手段として手紙という手書きのものが用いられていた。文書だってワープロが流行る前は手書きだっただろう。おま、新聞知らねえの?? いやタイプライター・・・、活版印刷まで遡るのかこれは? 人と人とのやり取りに限定しよう。

 しかし今日では年賀状が廃れてきているように、メールやtwitter、Facebookといったものが主流になりつつある。主流はLINEか。要はPCだ。そうするとどうなるのか。

 手紙であればまだ人が書いたことにより、その人間の個性が見えたんだ。大げさには顔が見えたんだ。悪く言われる誤字脱字だってその人の持ち味であった。代筆はどうすんだよと思われるかもしれないが、そこまで深く考えてはいない。字体に基準が持ち込まれたことで読みやすさや正確性が上がっただろと。だからそこまで深くは考えていない。

 わかった言い方を変えよう。他人に対するアプローチの方法が増えたんだ。そしてそれが楽な方向へと移行しつつある。手書きよりもタイプライト(こんな単語使われるっけ?)。直接、直面ではなく、文面そして画面へ。情報を捉えるのに頼りとなるものが直接の人間ではなくなったんだ。

 そのおかげか交流の幅は確かに広がった。格段にだ。しかしどうだ、メールでのやり取り。誰もが同じに見えるカタチの文字を使っている。人の違いが見えてこないのである。

 そして文章に幅を持たせる意味で絵文字や顔文字、スタンプが流行っていたりする。ファッションに例えればわかりやすいかもしれない。その時代の流行というものがある。それは誰よりも先に行きたい、違いを見出したいという欲求から来るものである。そうすることで自分が認められるからだ。正確には認められると思っているからだ。縋りたいのである。

 ネットが身近になった、いやネットにのめり込んでいる世代(時代)。それが流行るというのも、新しいものを先取りすること、トレンドを意識するというところで、他者との違いを求めるというところにつながるのではなかろうか。全てのものが同じに見える世界における、人間のあり方の現れなのではなかろうかと。

 そしてそれに追随する一緒でありたいとする焦燥。基準は有名人だったりと、大きな力に添うことで安心を得ようともしている。そんな感情に人は飢えているんだ。まぁこれが流行の巡りなわけだが・・・

 違いに飢え、且つ同じという安心も得たい。この欲求のあり方としての変化はない。ただその境遇が変化したんだ。人間関係を築くにあたり、Face to Face な関係から、Screen to Screen な関係に慣れてしまった者たち。人間から発せられる直接的な情報に対処できなくなっている者たち。コミュ障とでも言っておくか。そんな者たちが抱く人とは違うのだというアイデンティティと、違いを恐れ皆と同じでありたいという不安が混在する中、この作品はそんな欲求に見事にフィットしているんだ。多分。


 



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