2015年5月5日火曜日

風に立つライオン(2015)



~がんばれ~ 

〇こんな話 
 ミケランジェロ・航一郎・ンドゥンガ

〇響き 
 一人どこかへ向かって「がんばれ~」と叫び続ける主人公がいる。これは誰に向けたものなのかと。「がんばれ」とは何とも奇妙な言葉で、励ましの言葉ではあるものの、人によっては他者を引き離しているようなニュアンスにも受け取られる。それをどのように解消するのかと。・・・自分を鼓舞する言葉であった。 
 劇中英語での会話が多くある。その中で、ワカコや子供たちとの会話の中に時折日本語が散りばめられている。そこが何とも安心させられたり、勇気づけられたりするのである。おそらくこの作品は言葉というものの発音や意味するところ、そして何よりもその言葉が持つ力というものを重要視していたのではなかろうか。主人公の高校生時代の話において、吃音症という設定にしたのは、そういった意味合いもあったのだと思う。あとはンドゥンガという名前の発音に困ったりする主人公が描かれていたりする。名前が持つ意味合いも重要ですからね。そして日本人にしてみれば、「がんばれ」や「大丈夫」といった聴き馴染んだ発音に対して、聴きなれない言語よりも過敏に反応してしまう。意味を理解しているからこそ、その言葉の意味や真意を汲み取ることができる。そして力強さを感じるものである。故に劇中での彼らの言葉が、とても心に響いてくるのである。

〇命
 アフリカと日本における命の関わり方の対比が何とも興味深い。
大人たちの勝手な都合により傷つき、病院に運び込まれてくる多くの才能豊かな
 少年たち。
・医療の行き届かない過疎化(若者の流出)の進む僻地で、唯一の診療所を頼る老
 人たち。
 この両者の対比を最初は医療行為の勢いの差から、アフリカの子供たちの命の方が重いのかな?と思ってしまうのである。医療行為だけでなく、死んだ者の弔いや嘆く者がいる様を描く日本は何とも幸せだと。一人の命を嘆くことのできる余裕とでもいうのか。しかし違うのである。どちらも同じ命であり、そこに差は無い。ただ生まれてくる場所が、過ごした環境がたまたま違っただけなのである。ただそれだけで・・・
 そんなところをうまく描いているように思う。

*補足
 「命は重い」という概念が、それぞれの命に差別化をもたらしている。というより、命に個々の人間の有する能力を結びつけている。いずれどこかで取り上げよう。


〇責任 
 法律に縛られるが故、目の前の命を救えない。そしてその法律は命を守るためのものでもあるという矛盾。そこで彼は院長に訴える。看護師にも権限を与えてはと。さらにはまだ病気が治っていないとし、病院に患者を置き続ける。さらにはワカコまでもが、孤児院建設を訴えるのである。これを彼ら二人だけの視点で捉えるならば、確かに善人による善行ととれてしまうのかもしれない。しかし実はこれらの行動の大きな立役者としては、この病院における院長があるのだ。つまり統括者の存在。彼が何かしら動いていたのだろう。しかしその努力は劇中決して見えてこない。見る必要が無いものだったのかもしれない。いや、見せるべきではなかったのだろう。病院を守るためにすることは、現場の医師が関与するべきではない。人の命のことだけに集中させたい。
 実際のところどれだけの用心棒がこの病院には常駐していたのだろうか。いや、本当にいなかったのかもしれない。最初の戦闘シーンや、地雷原を歩かせる様子を観せてからは、あまり銃の存在を直接観せなかったように思う。しかし危険地帯であろうことは運ばれてくる患者たちの様子から想像に難くない。そして最後に航一郎を襲う銃声は何とも恐ろしいものになっている。人を救う、守るために働いている彼に銃を向ける存在。そんな者たちに彼はどのように立ち向かったのか・・・

 院長は最初運ばれている患者を「ゲスト」と呼んでいる。患者が主体の命を救うための最善の選択ではなく、医者が主体の患者の命を救うための最善の選択。 そんな院長が彼らの要求を呑んでくいくということも、その病院における変化に含まれている。そこまで是非見てほしい。

〇最後に
がんばれ

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