2015年5月5日火曜日

ビリギャル(2015)

~まずい、もう一杯~ 

〇はじめに 
 エスティーエーピー事件やハンカチ世代比較・・・etc において早稲田が潰れそうな(いや、潰れてるのか?)今、現役大学生Jリーガーだっている(いた)慶応アゲを。 
・・・ってな策略が裏で蠢いているのではなかろうかと。弟の野球や、父親の過去が原作通りかはわからないが、早慶戦という単語がわざわざ出てくるんですよね。父親は慶応を目指していたと言っているし、そこで活躍してプロへ行きたかったと。つまり早稲田を倒すと言うことでしょ・・・ 

〇こんな話
 「皆さん、〇〇をしましょう」
というメッセージがそこかしこに散りばめられた宣伝広告映画。
・・・でありながら、なかなかそれに気付けない人が多数おり、おそらく感動に浸ってしまう。そして言う。「そうだ、〇〇しよう」

 最近TVを観ていると突然流れ出す良い話と一緒だ(今もやっているのかな??)。いったい何の話だったのかと。あ~、あの商品のCMねと。

〇きっかけ 
 環境が合わず転校したり、母親の助言もあり、エスカレーター方式の中学に入ることで将来の見通しを立てた主人公。周りの誰よりも早くスタートを切ったはずだった。しかしそれが仇となり・・・ 

 今いる世界からの脱却という点で、この転校や中学受験を劇中のテーマとなる大学受験と掛けているのだろう。物語途中、大学受験がゴールになってしまっていると違和感を覚えた人はいるのではなかろうか。合格したら、今とは別の世界が広がって見えると。なぜか必ず成功するかのような言い回しや演出。しかし彼女は経験したはずである。転校や中学受験において、彼女や母親が良しとする方向には変わらなかったという事実を。

 確かに一見彼女や彼女の家族と、その周りの者たちの再生もののように描かれ、感動を呼ぶことだろう。しかし、それで終わらせてはいいものか。坪田先生が言っているではないか。ニュースや新聞の情報の取り上げ方や読み取り方で世論の考えは変わるうんたらかんたらと。この作品は閉じた世界での話でしかないことを忘れてはならない。よくよく考えれば、都合良く彼女の良いように周りが動いていることに気付くはずだ。公認で授業中に寝ることを許されるだと? 学校の勉強は受験には関係無いので、お塾を重視しますと。つまり、勉強は受験のためだけに、大学に合格するためだけにするものなのだということになる。大学に入ったら、フェ~イ!
真実はいったいどこにあるのかという思考を止めてはダメだ。 


 お塾結局のところ商売でしかない。合格者をアピールする反面、その何倍も不合格者がいることには目を向けさせない。株などで成功者の話しか耳に入ってこないために、必ず誰もが成功するかのような意識になるのと同じだ。大成功している人がいる分、その何倍も大失敗している人がいるが、声の大きさや仕入れる情報の量や質で見え方が全く異なってくる。

 一緒に勉強していた男子学生の不合格を映し出し、勇気づけることでそれは解消されているとするのか。お月謝を見せることで(じゅ、え?ひゃくまんくらい??)、親の苦労なり何なりと観て感動を誘われてしまうのか。同じ努力をして、誰もが同じように救われると思いますか?? そもそも同じ努力ができるのかというところにまで遡りましょうか・・・

 合格した人物のみをピックアップして美談にしてみれば、何ともすばらしい物語ができることは必然で。結果から過程を見つめてみれば、合格という結果に結びつく原因を、都合の良い部分だけで構成することができるわけで。そして何よりこの話のできたところは、結果を最初に提示していること自体にある。ビリギャルが合格したという事実。無意識にその前提を踏まえ、感動話に触れると人はどのような心象になりやすいのか。ここに最大の心理トリックが隠されている。

 この話の都合の良い部分だけしか見えない方々は、世界を変えるために、合格のために何が必要かと考えた場合に、どこに何に飛びつくのか。どこかで誰かがそんな者たちからたくさんお金をゲットだぜできる構造が出来上がっているわけで。

 ひとつの例だが、この作品に便乗したビリギャル、ビリボーイがこれに乗っかったとする。そんな人たちが仮に塾に通ったとしよう。おそらく勉強という努力をすることではなく、塾に通うことに満足をしはじめる。そんな停滞期が来たら、コース変更とかで新鮮味を与える。それを繰り返す。分福茶釜と。どうぞお金をじゃぶじゃぶ注ぎ込んでくださいと。

 ビリギャルはどうだったか。受験に間に合わないとか何とか言われて、コース変更されてたでしょ。信用できるとする人の言われることなら何だってするようにうまく洗脳が為されているわけで。こうすれば、うまくいくと言ってどんどんハードルを上げていく。それを受け入れていく。なぜって、成功が約束されている(と思い込んでいる)からさ。それにおかしいでしょ。自分の力で道を切り開かせると言っているのに、結局は彼女を信じず、金の出所である母親を呼び出してコース変更。どうなのよ!?
・・・ま、受かった者勝ちであることには変わりないんですがね。
・・・そもそもこの映画の観せ方よ。ビリギャルが偏差値を40上げて、慶応大学に合格したという結果を先に知らせている。この意図を、メリットを考えないと。ざっくり言ってしまえば、成功が確約していることがあるからどんどんお金を使いなさいという刷り込みをだな・・・

 新たな門出というところで物語を閉じているのは、この辺のくどさや胡散臭さの解消のためだろう。そして何が待ち受けているのか、どう立ち向かうのかというのは結局のところ自分自身で乗り越えていかなければならないとしておく。自発的に行動に出るように仕向けている。つまり、この映画はきっかけでしかないことを強調しているのである。しかし滲み出てしまっているのである。お金の影が、匂いが。映画を見て次にどんな行動に移させることが狙いなのか。(原作)本を買うも良し。予備校や塾に通うも良し。名前もそのままだし、アプローチするも良しか。大人子どもと互いに何かしらを変化させようと働きかけをする者たちが必ずいる。そんな者たちに、金あれ。  


 まぁ何より、これをきっかけに何かを目指される方の合格や成功を祈る。
・・・そこまで行動しないか。寝て目が覚めたら元に戻ってるか。まぁ私を含め大体の人がこういった話に感動している自分に酔っているだけですしね・・・(偏見)



〇最後に 
 誰かを悪者にすることでしか、感動は作れないのか。 

 確かにクソみたいな人間は多く存在する。1人の教員が坪田先生との対比で描かれるわけだが、そこが何とも飲み込めない。大学受験を決意するまでの彼女の周囲からの見られ方からの脱却が、何とも勇気づけられたり、感動を呼んだりするわけであるが、原作はこの坪田という人なのだろう。自分が正論をぶちまくカタチで、自分を良く見せることは必然で。さらに心理学か何か専門とあらば、その見せ方は十二分に承知しているはずだ。実際物語の入り方として、自分に出会うまでは彼女から聞いた話とし、そこから二人三脚で歩んだ道は確かな真実であるかのような印象付けをしている(この印象操作はほんとにうまい、原作通りかは知らないが)。いったいこの男の口車に乗り、どれだけの人物が受験に失敗してきたのだろうか。果たして彼はどれだけの生徒を覚えているのだろうか。そんなことにも是非想いを馳せてみてほしい。歴史は犠牲の上に成り立っているのである。日本史のところでそこを触れていないのは勉強不足すぎやしないだろうか。おそらくはその思考の排除を狙って行っており、裏の世界に目が行かない鑑賞者たちに感動したとのたまわせることで、資金搾取をすることが真の目的であろう。 
・・・ま、私も鑑賞料金払いましたがね・・・

 そもそも受かった学部が英語と小論文のみのテストであったことをもっと強調すべきなのだ。しかしそれをせず、日本史を頑張ったような描かれ方をし、文学部の方は腹痛が無ければ受かったかのような演出をする。正直最初から胡散臭い話だなと思いながら見ていたわけだが、ここで真実味が一気に欠ける。文学部と総合政策学部を同義に扱いたいという良からぬ意思を感じる。これと前後して、駿台や河合塾といった名前がちらっと見えたりする。あ~これは皆で予備校へ行こうという宣伝・広告なのだと理解した。同じ日に「フォーカス」という作品を見たわけだが、その作品に則って考えるに、この作品は目や耳で、塾や勉強に関する言葉や思考を、鑑賞者に刷り込む役割を担っていることになる。少子化や、現役私立>浪人国立、という時代において経営に苦しむ塾は多い。そして5月という時期に公開するのも狙ってだろう。作品全体として、勉強法や努力の描写を詳しく描くのではなく、きっかけというところに重きを置いている。これが答えだろう。
迷っている皆さん、塾へ、予備校へGO!
さらば道は開かれん!!
あと本も買ってね。
お子さん、親御さん、友達、恋人、是非広めてねと。

 個人的に映画としての評価は最低としたいが、宣伝や広告・CMとしてこの作品を観るならば、最高の評価としたい。青汁を想起させる。

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