2015年5月29日金曜日

プリデスティネーション(2013)

字幕翻訳:長澤達也

~フタナリパラドックス~ 

〇はじめに 
 それぞれの人物のつながりを描いていくのが非常にうまいと感じる。しかしそのつながりを演出する流れが何とも退屈だったりするのである。 
 そしてこれはループに陥っている様を楽しむ作品であり、どこから始まって、どこが終わりなのかという議論を持ち出すと、あっちゃこっちゃすることだろう。

〇想起する作品 
 「トライアングル」(2009) 

〇こんな話 
 「人は1人で生きていけるのか」
というテーマの究極系。

〇宿命 
― 運命は変えられる ―
― 運命には逆らえない ―

 タイムマシンの完成や、時間というものが何なのかということがはっきりしてからでないとこの答えは出ないのかもしれない。しかしこの哲学をする上で、1つだけ明確なことがある。運命を変えられるのか、変えられないのかという議論が成立しうるのは、この作品にも言葉として登場するが、終点(終着点)が定められていてこそなのだ。つまり確定された未来の存在。自分はこの時間にこんな状況でこんな存在であると確定している事項だ。現在に生きる我々にはこの確定事項が事細かに見えない。将来のビジョンを持っているということとはまた少し違うので注意されたい。

 この「運命は変えられるのか?」という哲学は、現在からの視点で未来が変えられるのか、という議論になる。しかしこれは未来が確定しないために議論の余地がない。故にこれを、現在という確定事項がある中で、過去に戻り、過去を変えることができるのか、という議論に据え変えることで落ち着けるのである。

〇時間 
 日本(だけではない)は年功序列型社会だ。年上は重んじろと。年寄りは大事にしろと。いつからか先輩やら後輩やらと年代を意識し始める。ざっくり言えば、上の者には逆らうなといったことだ。この思考はいったいどこから来るのであろうか。
・・・とここで考える。時間とは過去から未来へと流れるものであるとし、運命は変えられないものとして定義したらと。時間とは縦社会なのではないかと。未来の下に現在、過去というものが入る。というより時間と言うものをそのようにしか認識、理解できていないのだと言った方が良いのかもしれない。時間というものに関する認識及び理解の仕方が人間関係に影響していると。 

〇疑念 
―双頭の蛇― 

 観終わった後、どうもしっくり来ないのである。全てが繋がったということは納得しているのだが・・・ 
 バーでジョンとジョンが会うわけなのだが、この二人がどうしても繋がりにくいのである。別の者として観てしまうのである。おそらくジェーンとジョン、ジョンとボマーという二つの繋がりが衝撃的すぎるからだろうと勝手に解釈している。バーでの会話において二人の共通項を見出していくのはさすがであった。しかし彼らの接点はこれだけで、決定的なものに欠けるのである。いや、これから同じ道を辿っていくだろうジョンの暗示としてはこれがむしろベストなのか。 

 二人のジョンが主軸であり、ジョンが(バーテン)ジョンへ向け、(バーテン)ジョンがボマーへ向け、未来が開けた(確定した)ことがこの映画の決着である。 

「赤子 ― ジェーン ― ジョン ― (バーテン)ジョン ― ボマー」 

 この繋がりをもっと同格に扱ってほしかった。全部が繋がるインパクトはすごい。しかしそこに優劣がどうしもついてしまう。それは致し方の無いことなのかもしれない。観る者の主観が入るからだ。もう少しどうにかならなかったものか。 

「女 ― 女(ふたなり) ― 男(転換初期)男(火傷及び整形) ― 男(障害者)」 

 女と男、そして正義と悪という二人を結びつける衝撃。そこの間が容姿の変化なのである。その変化における繋がりとして、顔という言葉がキーワードとして持ち出されていた。それを含め、それぞれの人物をつなげる、会話に散りばめられているジョークがポイントになってくる。 
・お袋が見ても俺だとわからない 
・ボマーだと思われるぞ 
・son of the bitch (完全に男という対象で見られている) 
さらに、
 火傷を負ってからの目覚めと出産後の目覚めであったり、
 両者互いにタバコを吸い始めたり、
 互いの口調や声のトーンを意識させたり、
 赤子を奪った犯人について「あなたと私のような細身」と体格についてまで共通項を見出している。

 いやむしろ容姿の変化こそが、顔(表情)の変化こそが一番に我々が意識してしまうところであり、タイムトラベルを絡め移動する者の視点で思考させることで、性別及び善悪を際立たせ、調整が図られているのか。
 おそらくは作品の理解においてそれがネックになっている。我々の視点はジョンとバーテンジョンである。この生き残った二人にばかり目を向けてしまうと、この作品は終点に辿りつくことなく終わる。終点が見えた(見通せた)ところで終わってしまうのである。しかし実際は終点に辿りついている。運命が確定したところが終点なのである。ボマーの死が終点なのである。全て同一人物であるからだ。正確には生と死が繋がった瞬間か。彼が、彼女がどのように生まれ、どんな人生を歩み、どのような死を迎えるのかという。
 原作はバーテン男が終点であった。映画ではボマーという未来が付け足されている。これがつながりをおもしろくもし、おもしろくなくもしているように感じられる。 

 途中から過去の自分へのメッセージを吹き込むことから、メッセージを聴いているようになったのは何とも秀逸だった。 

〇余談 
-- 自分の尾を追う蛇 --
 輪廻の蛇というのが、自分を自分で追いかけるというより、自分の中に自分を入れるということを意味しているととってもいいのだろうか。要は自慰を超える自慰だ。 
「NOT セックス YES 自慰」 

〇最後に
うむ、ソフトが出たら再度鑑賞しよう。

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