2015年6月17日水曜日

神は死んだのか(2014)

神は死んだのか[DVD]


~NO MORE 悩み無用!~ 

〇はじめに 
*哲学も宗教にも無知な自分が少し粋がります。そして宗教を全否定しているわけではありません。悪しからず。  

 神はいるしいないんだよ。そこを踏まえて議論していかないと。 
そもそもひとえに神を否定肯定しようとしてる時点で議論としてナンセンス。様々な論点からアプローチをしているように観せているだけ。なぜなら作品全体で神はいますというメッセージを漂わせているから。馬鹿だろ。最初から教授を悪者として描いている時点で、主人公が勝つであろうことは見えていて、偏った描き方をしている。なぜ逆転劇として描いたのか。そしてなぜか議論に呼応して起きる怪現象。最終的に辿りつく神の有無ではなく人格否定(そこまでは言ってないか)。屁理屈の応酬。へ~、神ね~。 
 私みたいなひねくれた人間がこの作品を観ると、神は差別しますと言っているようにしか思えなくなる。それならもちろん信仰者たちもねって話になるわけで。神と人の関係ってのは、結局は派閥なんすよ。宗教(間)戦争なんていくらでも起きてるわけで。それって人間が小さいころからいくらでもやってる集団意識と照らし合わせることができて、自分の所属する集団以外は敵視する傾向にあるという・・・。仮に唯一絶対神なるものがいたとしても、その信仰している人間は全員違うでしょと。もう矛盾してるんですは。あなたがたが信仰している神は全て一緒ですかと。あ~、どうぞ反論してくださいな(小声)。 

〇想起する作品 
 「ザ・マスター」(2012) 
 「ラスト・ワールド」(2013) 
 

〇こんな話 
 ざっくり言えば、エスティーエーピー細胞があるかないかの議論と同じ。
・・・いや議論になってないからな~。信じましょうって話。

〇信仰 
 宗教というカタチでこの信仰というものを見つめてみると何とも嫌悪感を示すものだが、ただカタチを変えてこれと同じようなことは皆やっている。しかしそれを考慮してもこの作品は頂けない。偏りすぎている。そっくりそのまま返してやりたい言葉がある。 
この作品は、 
 「答えありきの論法である」 
 「証明すべき結論を前提としている」 
つまり、神はいますよという結論を前提として、キリスト教徒を善人として描き、自称無神論者どもを悪人として描いている。そしてそれを聴く聴衆は有神論者って何?と聴いてる輩がいるように単なる馬鹿(盲目)として。教授の主張を否定するのに用いられる言葉の数々が、なぜか彼には適応されないのも付け足そう。


---これ以降屁理屈をこねくり回します---

 
 神が善悪・道徳的な基準となるならば、自分の判断が間違っているって概念が無くなるんじゃないのか。自分の判断は全て神が示した道なのだからと。
 例えばだ、 
神はいると訴える者を無神論者が殺したとして、それは悪なのかと。神がいるとする者たちは悪とするのだろう。しかし極論無神論者は道徳的である必要がないと言う。ならばこれの見え方が変わってこないかと。キリスト教徒が無神論者に殺されることを選んだと。つまり誰が誰を殺すというのが、いや死が、殺す側の意思によりもたらされるものではなく、死する者の意思なのではないかと。故に殺人という罪は存在しないことになるんじゃないのか。
 これを主人公と教授に当てはめてみよう。
クリスチャンが無神論者に神を否定される
⇒ クリスチャンが無神論者に神を否定されることを選んだ
⇒ クリスチャンが無神論者に神を否定されることを望んでいる

つまり彼が神を否定されることを望んだにも関わらず、教授を全力で非難しているのである。これが何を意味するのか。神は自らの存在を証明するためにわざわざ敵を作りだしているのである。無神論者は元々有神論者であることが多いと教授も指摘していることから考えるに、神は信仰者すら差別するのである。自分の存在を認めてくれというエゴからだ。神は、神がいるのかいないのかという議論が展開される限り、存在が不明確なものになるのである。シュレーディンガーの猫的な? で、これを曲解すると

⇒ クリスチャンが無神論者に神を否定されることを望み、それを論破することで布
   教活動を活発化させるという欲を満たす

ってな感じになる。要は繰り返し。宗教も同じくマンネリ化する。そのためのこの宗教布教映画だそうな。宗教というものに疎い人はこの作品を観ても気分を害するだけだろう。
 


・存在しないものを憎めるのか否か
 はぁ~、存在ってのはどのように定義されるんですか。悪魔の証明の話はしてましたけど。実体を持つか否かですか。誰かが信じていればいいんですか。仮に実体を持つ者の場合、憎むべき対象を赦したとしたらそれはどうなんですか。憎むべき対象は存在しなくなったと言うんですか。それは彼の過去を全否定していることになりませんか。赦すに至った道(憎むに至った道)がなぜ築かれたのかという動機となる部分が無くなったら、その対象にはいったい何の意味があるのですか。
・・・罪を赦すんじゃない、人を赦すんだってことで解決する??



・死して神に会えるどうのこうの。 
 現実世界として我々が今生きている(としている)世界。いや生という状態としよう。生と死した状態とで、神は存在しているとしているんでしょ。それなのになぜ死した者が誰よりも先に神に会えるのかと。そこに神は死んでいないとする議論。冷やかしなの。??? 死んだ者はどっかに行くんでしょ。そこに神がいるんでしょ。死んだ者と神とは同じ状態なんでねえのけ?
・・・そもそも生と死の概念が違うんだっけか。魂的な話になるんだっけ?今の身体はただの器とかとか?
・・・じゃあさじゃあさじゃあさ、何で生きている内に神を信じなきゃいけないの?? 死んでから信じるとか言って、罪犯し放題はダメなの。そもそも無神論者にとっては罪なんてないんじゃないの(曲解か)。
・・・あとさあとさあとさ、神への祈りってやっぱり回数が大事なの。何でメールで祈りが伝わるの?? この回数の概念って、犯した罪より、一回だけ赦しを多く得れば良いって話にならないの?? そもそも祈りに大きさってあるの?? それって差別に繋がるよね。宗教って不思議だね~。


 最後無神論者殺すのも頂けない。いや、有神論者になったのか。神様ちょっろってならんのかいな。まぁこれは教授がひたすらに叫んでいた「神は死んだ」ってのと掛かってるんですよね。彼は講義においては私が神だと言っている。これを皮肉ってるのが胸糞悪い。そうだ、神は死んだんだ。
・・・この構図を新たな無神論者を生むことにつなげりゃ良いのに。これで繋がってるとするのか・・・



〇余談
 ひとつ褒めようと思ったことがある。主人公が紙媒体の本を情報収集の手段として用いていることだ。図書館を利用していることだ。
・・・と関心していたのだが、これってよく考えると聖書と掛けてるんすよね。とある記者だかは全開でPC使ってるし、クリスチャンである主人公もラインはやってるし。でも聖書は紙媒体で、み~んな持ってるお。・・・と。

〇最後に  
 なんだろう? 彼が語り始めた時からかな~、イライラする。 
 そもそも神って何よ?って話なわけで。はいはい、イエスイエス。これ日本でしかウケナイか。日本ですら・・・。 

 


2 件のコメント:

  1. オチは揚げ足取りと死ぬ寸前の奴に対する脅迫だったからなあ
    途中まで面白かっただけに残念
    教授が憎んでるのは神じゃなくて神に対する信仰心とか宗教なのにな

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    返信
    1.  コメントありがとうございます。反映と反応遅れて申し訳ありません。

       基本的に無知なもので詳しくは知りませんが、宗教のあり方が変わってきているようで。そんな中この作品が批判の嵐を巻き起こすことで、「神」と「人」そしてそれを繋ぐ「宗教」及び「信仰心」を考えさせることが狙いなのでしょう・・・か?
       この作品を否定する私のような存在が教授の立ち位置で、擁護する人間が主人公。この作品が無ければ起き得なかった衝突があるわけで・・・。
       宗教に目もくれない人たちにテーマを提供する上ではこの作品は功を奏している、とは思っています。

       それではまたご縁がありましたら。失礼します。

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