2018年1月22日月曜日

セル(2016)

セル


~行列に並ぶ~


〇はじめに
 この手の話を見聞するとまんまと私もハマってしまう口であるが、この作品には天邪鬼でありたいとする私が湧いた。



〇想起する作品
 「未来世紀ブラジル」(1985)
 「マトリックス」(1999)
 「インベージョン」(2007)
 「ブラインドネス」(2008)
 「ラスト・デイズ」(2013)
 「パンデミック・サイト」(2013)
 「最/終/感/染 ~アンチ・ソーシャル~」(2015)

 「アポカリプスの砦」


〇こんな話
 みんなやってますよ(ニッコリ)




〇行列
 SNS全盛、いや全盛へと向かう途上としておいた方が良いのだろうか・・・今やどこでも誰とでも繋がれるうんたらかんたら・・・

 今や携帯電話(スマホ)を片手に他人と話したり、ニュースやなんやら見聞きできたりするわけだけど、一昔前だったら公衆電話に人の家の電話を借りていたり、そもそも電話なんてなかったわけで。ほんの10年くらいじゃないですかここまでにSNSが広がったのなんて。そこに警鐘を鳴らすのはごもっともなんだけど、頷ける反面こんなん今に始まったことじゃないという反骨心も湧く・・・ まぁこういった時代の投影というのがホラーの醍醐味なんだろうけど。


 今よりも情報伝達手段が限られていた時代は確かに存在していて、そんな過去から今日を眺めることでメディアリテラシーだのデジタルデバイドだのってので批判されたり揶揄されたりってのはあるわけだけど、「ザ・リング」とかに代表されるように、テレビでも一時期こんな騒ぎがあったんだよ。テレビが人を馬鹿にするみたいなね。

 で、これの根源ってのはどこなのか?ってなことを考えてみる・・・

 最近一世を風靡した「この世界の片隅で」という作品の中でも描かれていたんだけど、何か行列ができていたので何かわからないけど並んでいますという件・・・

 行列があったら並んでみたくなる精神がわかる方なら良いんだけど、言うて私もほぼほぼ共感できない口でしてね。でもまぁ気になることは気になりますよね。並ぶとまでは行かずとも、何が起こっているのだろうかという少なからずの興味。

 子どものころに親を説得するのに使いませんでしたか? 「みんながやってる」「みんな持ってる」と。だいたい3人くらいなんですよね・・・

 日本人がよく世界中で笑いの種にされる長い物には巻かれよ精神ですよ要は。


 タイトルは忘れたのだが、数の歴史を取り扱った書籍がありまして、それが言うには数という概念(正確には10進法だったか?)が定着するまでは、1,2までしかなかったのだとか。数える必要が無かったというのもあるが、それ以上になるともういっぱい(たくさん)という括りになるのだそうな。

 このある程度以上のものは処理しきれない(もしくは処理する必要が無い)という機能が人間の根幹にはあるということで今の時代を見つめる。情報過多の時代とは言われているけれど、結局この人間の本質が変わらない限り扱える情報量ってのに変化は無いわけで。確かに社会的に見ると溢れかえっている情報ばかりに目が行くかもしれないけれど、実際問題それを判断するのは人独りなわけで。

 人間がその情報過多な世界において適応して進化していく(淘汰されていく)とか、とある境界を越えれば加速度的に進化するなんて話もあるんだけど・・・

 私が思うに、変わっているのは大きな括りでの世界というものだけで、人間は本質的には何も変わっていないのではないかという・・・

 今までは1,2という本質をを見極めるのに3ほどのものから判断していたのに、その3という括りが10に100に1000にとなったりしているだけで。

 「秘密」という作品でも触れたのだが、新聞やニュースに週刊誌でもなんでも構わないのだが、大々的な一面や見出しと小さく細かくびっしり書かれている内容とにはどれだけの差があるのか。トップニュースで扱うものと中盤終盤で扱う内容とどれだけ印象度が違うのか。ポジティブな内容とネガティブな内容とどちらが印象に残りやすいか。

 私もネットニュースやまとめブログはよく見るが、ではどうやって読みたい記事を選んでいるだろうか。人を惹きつけるような文言は組み込まれていないだろうか。短くまとめられた見出しと、取り扱ったニュースの反応と、ソース記事とで受ける印象は変わらないだろうか。全体の一部を切り取っただけで正反対の印象を与えることだって可能。フェイクニュースも話題になっている。誰もが真実を伝えようとしているわけではないし、真実を伝えようとしても語弊を招くこともある。さらには同じ情報を受けてもその真実は捉えるものによって様変わりする。同じ映画を観ているはずなのに賛否両論巻き起こるでしょと。

 何かしらの意志が介在し情報は自らの元に届く。その意志とは情報を正確に伝えたいというものではないことが多い。まとめブログなんかは人の気を引くことをまず第一に考えているだろうし、マスコミなんかは印象操作や偏見の刷り込みが念頭にあるだろう。普段使用しているだろう検索サイトは普段閲覧している内容から勝手に傾向を探られ表示される情報が偏るなんてこともある。時折画面の端に表示される広告が自らのニーズにマッチしていることがないだろうか。

 情報が溢れ返る中何を指標にどうやって真相を探ることができるのか。専門知識の無い中情報にアプローチする人が多数いるわけで。それを小難しく説明されてもわからないとなれば、何かに例えたり噛み砕いて説明された方がわかりやすくあるわけで。ただその情報を変換する過程でその変換する人間の主観や偏見は確実に盛り込まれることになる。これが善意で行われるのか悪意を以て行われるのかの問題はあるわけだが、どちらにしろ自らにとってわかりやすいとする情報に飛びつきやすくなっているのである。


 〇〇について知りたいと思ったとする。そのワードで検索をかけるとありとあらゆるものが出てくる。〇〇入門という本でどれだけのものがあるのか・・・

 これもどっかで書いたんだけど、大体同じようなことが書かれているんだよね。そりゃそうだよね〇〇という題材は同じわけなんだから。それなのに何か見出しや煽りでこっちが良いかなこっちが良いかなと迷う。1冊じっくりと取り組めば大枠は掴めるはずなのにそれをする間もなく次に手を出そうとする。あ~そうだ参考書の話だわ・・・

 これしかない、これをやれば、みたいなのが溢れ返っているだけなんだよね。ほぼほぼどれも同じではあるわけだけれども、違いの方に目を向けさせられる。そのほんの少しの違いに不安を覚える。結局どれをやればいいのかわからなくなる。

 いや違いというものに着目し批判するってのは求められる能力ではあるのよ。情報過多と言われる今の時代には尚更ね。でもね、その違いってのは他の違わないもの(共通するもの)があって初めて違いとして認識できるわけで。

 ん~難しいんだけど・・・流行に流されることを例にすると。


 この感情ってのはみんなやっているから私もやる、という興味の反面、その共通項を見つけた事での警戒というものにも通ずる。行列に共感しない方ならこちらはご理解いただけるのではないか。何を大勢でそこまで夢中になってるのかと。行列を異様に感じる。これがこの作品の言わんとしているところで。

 ものの最初にやっているのよ。警官に主人公が話しかける。「携帯使わない方が良いですよ」と。「なぜだ?」という問いに、「凶暴になった奴は携帯使ってましたから」と。最初に映し出された光景が何ら違和感の無いはずだったものが、たかがゾンビと化しただけで異様な光景と成り果てる。このギャップは見事だった。


 ざっくりとはみんながSNSやってるからと流行に乗っかってるけどこんなんでええんか?と。傍から見たらこんなんやぞ・・・



 ↑これが揶揄なわけだよね、見えにくいな・・・。

 携帯を使用するのに電波を探し求め、電池が切れそうになるとコンセントにごった返し、流行に乗り遅れまいと群れを成し・・・


 我々はどこに向かうのでしょうか・・・




〇最後に
 いやSNSって便利ですよねホントに。


 ではでは・・・


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