2018年5月13日日曜日

ヴァイラル(2016)

ヴァイラル


~本能と理性~


〇はじめに
 可愛いなぁ~・・・



 かわいいなぁ~と観ていたんですけどね。



 「MIA」のSofia Black-D'Eliaだった。





〇想起する作品
 「アイ・アム・レジェンド」(2007)
 「フェーズ6」(2009)
 「クレイジーズ」(2010)
 「コンテイジョン」(2011)
 「ザ・ハロウ/浸蝕」(2015)
 「AIR/エアー」(2015)
 「ライフ」(2017)



〇こんな話
 感染という広がりを小さくはウィルス(パンデミック)、大きくはゾンビ(バイオハザード)という描かれ方が為されるわけだが、この作品は大きさとしてはその間の寄生虫を題材に扱った作品。




〇本能と理性
 人前でディープキスする輩がいきなり映し出されたり、姉は妹の前で彼氏とキスをかますが周りに馴染んでいるだけだと開き直る。父親が母親(妻)との電話を切る際に娘やその友人が聞いている中で「愛しているよ」と口にする・・・

 これらは全て愛情表現の1つなわけだ。私はあなたを愛しているよというその当事者間の確認。私たちは愛し合っているのよという他者(部外者)への承認




 ではなぜそのようなことが行われるのかというところを考える。単純に好きだからという話であるわけだが、ではなぜ人は人を好きになるのかと。率直に生殖行為へと繋げるためである。子どもを作るためである。自分のDNAという情報を後世に残すためである。ルシファーのタンポンの件が1つそれの示唆であろう。

 そしてそれを守るべく家族という形態を形成するわけだが、では本能によって結ばれた男女が形成する家族という形態とは一体何なのか?? 本能と理性とでどちらが優先されるのか。寄生虫をベースに考えてみよ!ってのがこの作品の根幹で…多分。




 人間は本能を理性というもので抑えることをしているわけだが、時としてタガが外れることはある。これの補完として1つパーティという大衆心理(アルコールもか)と、そして父親の教え子との浮気という隠匿行為というものを描いている。皆がやってるから~、というのと、誰にもバレないバレない、というものである。後者は意味合いが異なる気もするがまぁいいや。

 エマとエヴァンとの恋物語が主として描かれる。そんな中に姉を見捨てずに助けようとするエマという存在を見つめることになる。異性を好きになるというのは本能に従ってのことだが、ではなぜそれに準じない姉妹という存在で助け合いが為されようとするのか。寄生虫に抗おうとする姉という逆も然りだ。いやむしろこちらが本筋か。身近で手近な妹を食さず裏切ったとする本能で繋がったはずの彼氏を食すのはなぜなのか。

 姉との別れは最終的には訪れることになる。その際の妹の姉への行為がある。本能に忠実になるのであれば、本来これがあるべき姿なわけだ。例え身内だろうと自らが生き抜くために危険が及ぶものは排除する。しかし問題はそれを即断即決即実行できないことにある。絶対的な措置を引き延ばしに引き延ばしにする策を考え出そうとする。それは一体なぜなのか。




 ネズミに寄生する虫に関して話が為されている。猫の腸内へと入り込むためだけにネズミの猫への恐怖心を捨てさせ自らを猫に捕食させるのだとか。それが生き抜くための道だからである。自らが生き抜くためにネズミを切り捨てているわけである。しかしここで注意したいのは、彼らは決してネズミを殺すことが目的なのではないということである。

 人間の感情として姉を撃ち殺したケースを考えてみると、襲われて自分に被害が及びそうだったから仕方が無かったという正当防衛という言い訳(理性)が先行するわけだが、そもそも本能として観ればその言い訳など必要無いわけである。仕方が無かったのではない。そうする他無かったのではない。それが必然だったのである。殺してしまったという理性(後悔)ではなく、自らを守った、いや守るという本能が優先されるべきなのである。優先とすると語弊があるのだが、そもそもこの比較事態が存在しないのである。




 感染者に対しての措置に、この作品のラストの様な姉と妹との別れという絶対的なものがあったとして、そこに辿り着くまでにどういった経緯を踏むのか、そもそも辿り着けるのか。いや考えが及ぶか。そして自らとの続柄に間柄を踏まえることでそれはどのように変化するのか。


 人間という本能と理性とを極端な見解で比較したが、果たしてそれらはどうあるべきものなのだろうか?・・・と疑問を投げかけ締めておく。




 
〇宿主
 後部座席にて父親の運転で家に帰ってきた2人が、ラスト運転席と助手席にて彼が運転するという構図もシャレている。

 そういえばと思い返す。車とは移動手段であるが、誰かしら何かしらを運ぶ(運搬する)ものとして捉えることもできる。これがそのまま寄生される宿主というものの象徴として観ることができるのではないか。

 父親が運転する車によって姉妹は移動していた。父親の意志によって運ばれていたわけだ。では父親の意志とは何か。家に帰ることである。そして共通の目的を有している者が娘に当たる姉妹であり同乗している。

 そしてここで何が起こったか。姉の冷やかし及びお節介という名の親切によるもう一人の同乗者の出現である。この親切は妹ではなく姉の意志によるものであることにも注意する。ここでさらにバスというものを印象付けているわけだが、これも狙っていたのだろうか。とある段階まで、ある程度まで同じ目的を有した人間が乗り合わせる代物。家に帰るという意志及び目的を持ったそれぞれの者が同乗するもの。

 ではバスの運転手はどういった意志を有しているのか? 家に帰ることだろうか? 乗車している人間を指定された場所まで運ぶことではなかろうか。

 ここで運転している父親に考えを戻してみる。確かに父親は家に帰ることを目的としているわけだが、父と娘という関係を考慮するとそれよりも娘たちを家に送り届けるということを主としているのではないだろうか。

 娘が父親の意志を尊重するか否かが姉妹にて対称的に描かれたりしている。そしてこの街に引っ越してきたのも父親の都合だった。

 こういったところで宿主と寄生生物の様々な共生関係の在り方を示唆するのはうまかった。


 時折俯瞰的な視点が映し出されるのが気になったのだが、こういった所々の示唆を鑑みると、地球の資源を貪り尽くし這いまわる人類自体が地球の寄生虫であるってな皮肉に繋げようとしているのかもね・・・







 穴や隙間から覗き見る演出が幾度となくあるが、これは寄生虫にとっての感染経路がこれで十分であるということを狙った演出であろうところを関連させて恐怖演出としているのもよかったと思う。





Sofia Black-D'Elia
 貧乳イジってたのは・・・



 それなのに晒したのは・・・


 お尻がどうとかってのは・・・



 観せてくれないの??



〇最後に
 これ観て想い出したのだが、「フェーズ6」(2009)を誤解したままいろいろ書き連ねてた気がする・・・ あちらは本能と理性とをルールという基準を設けてその葛藤を描いていたわけなんだよね多分・・・ 車に同乗しながらってのも何かあったんだろうな・・・ まぁいいか。比較して観てみるといいかも。

 ではでは・・・



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