2017年11月18日土曜日

ゴースト・イン・ザ・シェル(2017)

字幕翻訳:松崎広幸
字幕監修:三谷匠衡



~男子たるもの紳士たれ~


〇はじめに
 ミラ・ジョヴォヴィッチをひたすらに魅せたいとする「バイオハザード」シリーズと、質感というか色合いというか上辺だけを取り繕った「カイト/KITE」の匂いが充満している作品。



〇想起する作品
 「マトリックス」

 「ザ・セル」(2000)
 「リアル ~完全なる首長竜の日~」(2013)
 「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」(2013)
  ・・・スカヨハという存在の捉え方はこちらの方がうまかった。

 「ターミネーター サラ・コナー・クロニクルズ」  
 「ALMOST HUMAN/オールモスト・ヒューマン」

 「RD 潜脳調査室」
  ・・・キャラの捉え方という点でこの作品を参考にしてほしかった。


〇こんな話
 スカーレット・ヨハンソンを愛でるったら愛でる。


 



〇男子たるもの紳士たれ
 少佐の内面的なところを描く上で、彼女の扱い方捉え方にもっと気を遣ってほしかった。

 「自分とは何者なのか?」という問いに対して、まず視覚というものからとっついたのはよかっただろう。自分が見ているものは果たして何なのか。今現実に起きているものなのか、過去の記憶なのか、はたまた観せられているものなのか。これを区別する算段が存在しなくなっていると。

 これをバトーの失明と目のみの義体化?にて印象付けている。そして唯一縋る、自分という存在を確かなものとするためのルーツ・・・とされていたもの。記憶というものへと迫っていく。究極行動原理というところに行き着くわけだけが、ここへの繋げ方は丁寧だったと思う。

 しかし自分という存在は何も自らの内の葛藤だけで定められるものではない。劇中で取り上げられる名前というものに想いを馳せてみてほしい。「少佐」という呼称で一人の人間の認識を共有しているわけだが、果たしてその「少佐」という像は全員同じものだろうか・・・。

 「草薙素子」というところへオトすことで「少佐」との差別化を図りそれを描こうとしたのは見えるが、ここに至るまでに桃井かおりが認識する「草薙素子」と対立する「少佐」という像を描き出さなければならなかった。バトーにとっての「少佐」、トグサにとっての「少佐」・・・etc 呼称や愛称を変化させたってよかっただろう。彼女の内面へと迫る上での架け橋として、事前に少佐自身に自覚の無い少佐という像を構築させるべきだったのである。

 いつも辛口な人間が突如口にする弱音を聞いて何を想うか。自分よりはるかに実力が上の人間、しかも身体はロボットである者に助けが必要だと思うか。ピンチだとして駆けつけようと思うか。こういったところがアニメ版には多数存在している。

 ではこの作品が作り出した対立すべき「少佐」という像はどんなものだったか。なんかエロい、たったこれだけである。まぁこれは私自身の感性に依存するわけだが・・・




 スカヨハが脱ぐシーンが幾度となく挿入される。そしてほぼ全裸に見える義体での闘い。後のシーンでは服も光学迷彩が適用される人間が描かれているにも関わらずスカヨハは羽織っているコート?を脱ぎ捨てる。

 この幾度となく晒される彼女の裸を観て、スカヨハが服を脱ぎ捨て全裸になったのを見て、我々(男目線)は何を想ったか・・・??

 ここが問題なんだよ。何よりもだ。

 「少佐」をリスペクトすべき女性として紳士的な対応をしようと一歩引いて見ることができたかどうかだ。少佐自身が自らに見出している価値と我々鑑賞者含む周辺人物が抱いている彼女の価値というものを照らし合わせることができたかどうか。ここにギャップを観たかどうか。葛藤したかどうか。

 おそらく大多数の男性陣が「あっ、俺も脱がなきゃ」となったのではなかろうか。失礼、そこまでイかなくとも彼女のお姿から心から目を背けた者がどれだけいるだろうか。

 この作品は、スカヨハを、いや少佐を、いや草薙素子という一人の女性を立てるのではなく、男を勃ててしまったのだ。これがこの作品の致命的なバグである。いや意図的ではあるわけだが。

 スカヨハを魅せたいとする意志はこの上なく尊重する。もうこれでもかとありがとうとエールを送る。しかしこの作品の肝だっただろうところはそこでは無かったはずだ。そこまで彼女を変態的に捉えられているのだからこそ、あとほんの少し気を遣うだけで全く別物になったはずなんだ・・・

 我々が捉えた彼女に対して何かしら一石投じるカタチを描けていれば・・・

 例えば水の中に潜った後舟の上でダイバースーツ(ウェットスーツ?)を脱ぐシーン。ここに脱ぐぞ脱ぐぞと期待を高められるわけであるが、少佐は脱いでいるところでバトーに話しかける。そしてバトーは脱ぐ間凝視した後にうつむく… ここを少佐がバトーに話しかけた後脱ぎ始め、バトーが目を逸らすと観せたらどう見えただろうか。



 全裸で戦うシーンは幾度となくあるわけだが、例えばラスト傷だらけの少佐をバトーが抱きかかえる支えるシーン。バトーが少佐に何かしらの羽織るシーンを描いたらどう見えただろうか。



 たったこれだけで「少佐」という像が違って見えてくるはずなんだよ。


 電脳通信等で情報の共有が為されていることを背景に、秘密を作りにくいといった印象がある中でこそ描けるギャップがあったはずなんだ。皆に見せる一面、誰かにしか見せない一面、誰にも見せない一面、自らも知らない一面。これを繋ぎ合わせることで自分という存在は確立する・・・可能性があることを示さなければならなかった。



――――――――
 アニメ版はちゃんとあるやん・・・
















 横乳は再現してたな・・・

















 そっちじゃないんだよ、こっちだよ・・・


















 バトーの捉える少佐と、トグサの捉える少佐とってのギャップもうまかったね。

―――――――――

 

 「少佐」という存在をもう少し丁寧に扱って欲しかった。キャラというものが描けていない。そもそもどうやってキャラを見出そうとするのか、見出せるのか・・・

 実写とアニメとの隔たりが一番大きくあるわけだけど、この作品はさらに人間とロボットとの隔たりが存在している。実写とアニメ、人間とロボットという段階的な隔たりを経て我々はそこに違和感を覚える。この違和感というギャップをどう埋めていくのか・・・、ここが試されているところだった。作中の言葉を借りるのならば、ゴーストの正体である。

 少佐ほどの頭脳や実力がありながら見せる弱気。浮き沈みの激しさとでも言おうか。衣装を脱ぎ捨てるというのも、それに対応する武装があるからで。海に潜るなんてのもそのまま潜水と浮上でしょうよ(多分)。これを単に水の中が無でどうとかでラストの死を印象付けるだけで終わってるし。

 要はツンデレだよツンデレ・・・ 


 現実世界においては見えにくい、独りの人間の表と裏。そして周りの人間のそのキャラに対するそれぞれの評価の照らし合わせ。ここに感じ取れる差異が、人間とロボット(義体化)との違いや、実写ではなくアニメならではってのとマッチしたんだよ。ってかマッチさせたんだよ。これが昨今アニメという媒体で根付かせた「萌え」という文化の礎だろ? ここをもう少し読み解かないと。これが1つゴーストの正体だよ。

 そしてもう一つ大きくは声である。起伏のある感情のこもった声を聴いている内に、そこに一人の人間が見えてくるのである。キャラに息が吹き込まれるのである。アニメだろうがロボットだろうがそこに人を見る事ができるのである。これがまた1つゴーストの正体だ。



 この作品は漫画及びアニメと実写との境界線を理解していない。この踏まえるべき前提を考慮していないのが仇となってしまった。



 吹替えで観ると多少なりとも変わるのかもしれない。やはり日本語の発音における起伏でないと感じ取れないものがある。正確には普段から慣れ親しんでいる言語。そういった配慮を踏まえて、その人物をどう捉えているのかによって異なってくる行動として、些細でささやかながらも感じ取れる気遣いというものを描かなくてはダメだったんだよ。







〇最後に
 円盤で吹替版を鑑賞したけどやはり多少なりとも印象は変わる。でもこれにあと一歩踏み込んでほしいんだよね。スカヨハ堪能する分にはこれ以上は無いんだけどさ・・・


 ではでは・・・


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