2014年10月25日土曜日

思い出のマーニー(2014)



~わ~

〇想起する作品 
 「チャイルドコール 呼声」(2011)
 「ジョバンニの島」(2014)

〇騙される心理 
 マーニーとは何者なのか、というのが一番の謎(鍵)となる。この謎を読み解くことがこの映画の最大のおもしろさ、ではないところがまた良いんですよ。

 途中から現実と虚構を行き来するようになるアンナ。ここからミステリーやサスペンスが好きな方は血沸き肉踊るのではないだろうか。アンナよりも先に真相に辿りついてやろうと。実際私がそうだった。故に最後短絡的だったと自分を恥じた。負け惜しみになるが、久子さんのマーニーについての語りでアンナより先に真相には辿りつきましたからね!!・・・。 

 まず原作ありきではあるが、この話の構成と演出のおかげで見事に喰いつかされた。アンナが子供の頃の演出。おそらく養子どうのこうのと大人の問題が発生している事態を見せる演出。ここでアンナが抱いているお人形さんが存在するのだ(予告編でも映っている)。これが金髪でマーニーが着ているような服をめしている。これが謎を読み解く上で必要となる証拠物件Aだ(以降証拠物件という名称は出てきません)。ここで妄想力に乏しい人(私だ)は、一つの真相が導き出せた。 

真相1:アンナは小さい頃に何かしらの虐待にあっており、空想のお友達を創り
     出した。 故にマーニーはアンナが抱きしめている人形である 

注意されたいのはこれはまだ一つの可能性であること。
 
 しかしこれだと後々描かれるアンナが経験するマーニーとの冒険と、マーニーが書いたとされる日記に共通項が見られることの説明がつかない。日記の中の出来事、つまり過去の事象を追いかけるということになるので、アンナが以前に経験していなければならなくなる。それを踏まえて物語をさらに追っていくと、この引っかかりを補うためにまたひとつ真相を導き出すことができる。 

真相2:アンナは虐待によりマーニーという人格を創り出した。これは夢の中の
     物語。 故にマーニー=アンナである 。

 真相2から先ほどの真相1の問題点であるマーニーが書いたとされる日記との共通項の存在の説明がつく。・・・しかしこれだとマーニーの出現はアンナが寝ている最中に出現しているという説明は出来るのだが、現実にマーニーが顔を出す(マーニーの出現と同時に現実の人間と会話している)説明がつかなくなる。ここでサイロに行く場面で、マーニーを認識しているのはアンナのみという情報を考慮に入れると、またひとつ真相を導き出すことができる。 

真相3:マーニーは実在した。しかし劇中でアンナと行動を供にするマーニーは
     アンナの創造の人物である。

 何らかのかたちでマーニーは実在しており、アンナと関係を持っていたということになる。この真相により共通項の問題は解消でき、アンナの見ているマーニーは自らも認めるが、アンナが創り出したとしているので現実での認識問題も解消できる。
 ここで最後のシコリとなるのが、いかに二人が関係していたかということだ。そこで物語の前後を探ると、あらゆるところに散りばめられている伏線・ヒントに気づくことになる。
・・・アンナの瞳の色、おばあちゃん(がいた)発言、アンナの引き取り手問題、人形の存在、マーニーの日記、髪留め、マーニーの歌・・・などなど盛りだくさん。
 ここまで来ればもう大丈夫。最後にしっかりと解説してくれますから、必ずや真相に辿りつくことができるでしょう。


・真相へのアプローチ
 一回目の鑑賞で物語にのめり込み過ぎ、慎重さに欠ける推理を展開してしまった自分は情けなく、そのために再び鑑賞することになる。ここからは物語の真相を知った上で鑑賞し、冷静に物語の演出を見つめ直してみた結果だ。 私の勝手な解釈であるが、真相に辿りつくチャンスは三回用意されていた。以下それを詳しく解説していく。 

1つ目 
 サイロでアンナがマーニーに置いていかれるとされるシーンだ。
そこにおいて、アンナが夢でおばあちゃんにあやされている夢を見る。そこでの鼻歌がマーニーとパーティで踊った時の音楽なのだ。ここでおそらく初めておばあちゃんとマーニーが関連付けられる。あやされるシーンの続きとして描かれるのが、サイロでマーニーがおじいちゃんに助けられるシーンでもある。このお話はおばあちゃんにあやされるときに聞かされた話でもあった。

 ここで是非とも繋げてほしい劇中の事実は、アンナがマーニーに対して秘密を打ち明けるシーンで「両親が亡くなり、おばあちゃんも亡くなった」と言っていること


2つ目 
 次に関連付けられるチャンスが、久子さんのマーニーに関する過去回想だ。
 マーニーの実際の姿と、その後どうなったのかという状況確認。かずひことの結婚から娘の存在、そして孫もいたと。孫は両親を失い、マーニーに育てられることとなるが、その後マーニーも死ぬことになる。

 1つ目で繋がる事実とも関連して、アンナにはおばあちゃんがいたことを念頭に置いて繋げていただきたい事実は、アンナは二回もらわれているということ。
「両親→おばあちゃん→現在の両親」
と二回引き取られていることになる。さらにはアンナがお人形を抱きしめているシーンが二回挟まれるのだが、それが両親とおばあちゃんの死をそれぞれ意味している。 1つ目のアンナがおばあちゃんにあやされているシーンのおばあちゃんの後ろ姿と、ここで描かれるマーニーの姿が似ているということからも、ここがおそらく一番に真相に繋がるシーンではなかろうか。

3つ目 
 最後にアンナが今のご両親に引き取られる際に抱きしめていたとされる湿っ地屋敷の写真を、アンナがおばさんから手渡されるシーン。
 ここでマーニーが何者だったかが確信に変わる。真相に辿りつくチャンスとして1つ目、2つ目などと書いてきたが、その真相にたどりつく手段は、我々視点でしかなく、アンナにとってはここで初めて全てが繋がることになる。

 髪留めの演出が為されるわけだが、その髪留めもするきっかけもちゃんと描かれている。まぁ「髪伸びたねぇ」っていう日常会話なのだが、そこからずっと付けているんですよ。愛用の品だったことは明らかになるわけで、何か特別な思いが感じられて然りなわけです。

・騙される心理の総括
 おそらくこの映画をご覧になった皆さんは、マーニーが何者なのかという真実及び謎についての真相解明を急ぎ過ぎ、私のような推理をひたすらにしていたのではないだろうか。そういう見方であると、確かにマーニーという真実についての何度もされる確認作業は、余韻や考える幅を狭くしてしまうのかもしれない。マーニーが何者であったかはもっとボかしてもよかったのではないかと。
 はて、それはどうだろうか。アンナがマーニーについての全容を知り得た、繋げられたのはどのシーンであるかをもう一度考えてほしい。(我々にとっての)3つ目のチャンスの時なのである。そしてこれは誰の物語であるのか。アンナの(成長)物語である。そしてマーニーの物語である。その物語を通じて我々に対する何かしらのメッセージを発する必要性はあれど、我々の彼女たちに対するこうあってほしいなどという願望や要望はどうでもいいものでしかない。究極我々に関与する余地などどこにも無い。故に私はこの真相への繋げ方がベストだと考える。

 さらには奇跡とも言えるような偶然がいくつも重なったが故に、アンナは一つ殻を破ることができた。そんなことが実際に有り得るのかと。
 ここで思い返してみてほしい。おじさんが潮の満ち引きに関して言及するシーンであるが、「月の力だよ、月の力」とさりげなくも念を押すように言いまわすのである。さらには彩香の「私、エスパーかもしれない」という台詞も気になる。これはおそらく人間が理解しようとも手の届かないような力を暗示していたのではなかろうか。つまり運命や天命と言ったものである。これを肯定的に捉えることができれば、アンナの物語は実に清く、潔いものとならないだろうか。
 まぁ、単純に月とマーニーを関連付けたかっただけかもしれないが・・・。アンナのマーニーとのファーストコンタクトの背景は月(三日月)であるが、最後の別れは太陽背景であるのだ。 何かあるんですかね~? 陰と陽? 暗い過去、明るい未来的な?・・・(適当)。

〇マーニーとは 
・マーニーと人形
 勘違いされている方もいるかもしれないが・・・(私が勘違いしているのか?)、マーニーがどんな姿だったかは直接(第三者視点)描かれてはいない。ここが一番のポイント。マーニーの日記や久子さんの証言(アンナが描いたマーニーの絵を、昔の友人に似ているという証言もある)、アンナのおばあちゃんに関する思い出はあれど、絵や写真などで客観的に描かれてはいないのだ。アンナが描いたものは出てくるが、あれはアンナが描いたものであるから除外する。つまりこの映画で登場するマーニーは、アンナ自らも認めるが空想の産物でしかない。日記に書かれている、且つ久子さんにより語られるマーニー自身がこうありたいと望んだ姿を体現したに過ぎない。それはアンナの幼少の記憶に刷り込まれたもので、自らの境遇を呪い無意識にこうありたいと望んでしまったが故に出現した幻ということになる。 

 故に導き出される一つの結論。先ほどの真相1とも関連するのだが、マーニーのモデル(アンナVer)はおそらくアンナが抱きしめていた人形だと思われる。幼少期のアンナの腕に抱きしめられている人形。両親の死、おばあちゃんの死の時に必ず抱きしめていたくらい大切な、そして頼りな人形。その人形は後ろ姿しか描写されない。常に寄り添ってくれていた存在。そんな大切な人形にマーニーを投影するのもうなずけはしないだろうか。 
 さらにこの説を決定づけるのは、アンナとマーニーが抱き合うシーンはいくつかあるのだが、アンナからマーニーを抱きしめるシーンでは、マーニーの服装は幼少のころアンナが抱きしめている人形の服装が同じということもある・・・多分。

・伏線と事実
 久子さんによる語りと、劇中のアンナとマーニーの体験を照らし合わせることで見えてくる、マーニーについての伏線と事実。

 湿っ地屋敷にて開かれたパーティにて、マーニーはばあやを自らの部屋に閉じ込めるわけであるが、ここで明らかになるドアの鍵が外側についている事実。マーニーは常時か定期的にか閉じ込められていたのだ。最後にボートのおじさんもマーニーを「閉じ込められた少女」と形容・表現していることからも伺えるだろう。ここからマーニーがアウトドア派であったはずがないことが伺える。

 アンナがマーニーの絵を描いているわけだが、それを見たマーニーは自分の絵を描いてもらったのは初めてだと言う。お嬢様、お金持ち=肖像画のようなイメージがあるのに、その経験が無いという発言はちとおかしい。お嬢様ならではの経験が抜け落ちているという矛盾が浮上する。

〇わ 
 学校における集団意識と、それに順応できず孤立する者として主人公が使う「わ(輪)」という言葉。
 最初に主人公であるアンナが使う言葉「わ」という言葉を基にこの物語を追ってみる。「わ」に当てる漢字は「輪」で決まっていただろうが、この物語を追っていく上で私が勝手に解釈した「わ」というものを紹介していく。 


 まず最初にアンナが使う「わ」はおそらく「輪」というものである。 「輪」は自分と他人との壁という意味で用いられる。最初に自分は輪の外だという台詞がある。他人との関係性で見た場合は外であるが、自分という殻に閉じこもっていると見ると、「輪」の中にいるともとれる。公私という輪の内と外。そこがまたおもしろいのだが、それはまぁいい。ここでは殻を破れないのではなく、輪の中に入っていく勇気が無いと言った方が妥当であろう。全部を全部許容しているわけではないが、うまく関係性を築ける者たち。割り切るって言葉が妥当だろうか。アンナはそういうのが許せない。なぜに許せないのかというと、アンナの境遇や悩みもあってか自分を他の子とは違うのではないかと、自分の存在を否定しているからだ。そこからマーニーという存在を通してどのように変化していったのか。


 次に出現するのがつながりといった意味を擁する「環」。これはアンナとマーニーの出会いから始まる他人との関係性。さらには自分という存在の再確認にも関連する。形式的・表面的な繋がりは最初からあるし、アンナも最初から閉じこもっていたわけではない。ある事情から自分という存在理由を疑い始めるに至る。マーニーというきっかけで知り合うに至る存在がおり、そこから解き明かされていくマーニーの正体と真相。そして自分の境遇。改めて自分という存在を見つめ直すことができ、他人に対して心を許すことができるまでになっていく。  


 最後のオチとしてある「わ」は「和」であろう。主に和解。打ち解け合うといった意味でだ。 最終的にマーニーが何者なのかという真相に辿りつき、アンナはあらゆる感情をふっ切ることができる。ふっ切り始めたと言う方が正しいか。おばさんの援助金をもらっていることの容認と、久子さんへのおばさんの紹介が、母という呼称になるところからも伺える。 謎解きを一通りの解釈させてしてしまうのに疑問を覚える方もいるだろう。しかしこうも考えられはしないだろうか。アンナは自分と言う存在に疑いを持っていた。叔母さんがお金をもらっていたという事実。自分は愛されていないのだろうかという迷い。人に対する不信を抱きながらも差し伸べられる手には何か期待や希望を見出そうとしているような演出。しかし何分タイミングが合わない。人に対する不安や不信からくる迷い(がもたらす時間)がそれを許してくれない。それを確立するためにはマーニーと言う過去を明らかにする必要があったのだ。故に最後「和」に辿りつくことができると。  

〇余談 
・マーニーについて
 マーニーの髪ふわっふわだなぁ。
有村架純のちっちゃい「つ」の発音がうまいから、かわいらしさをとても感じる。
 マーニーがキノコに詳しいという設定。そしてお父さんと一緒にたくさんのキノコをどうのこうのと・・・。そんな邪な気持ちをこの作品に抱くでない。とは思ってみるものの、原作は日本ではなくイギリスであり、洋館という設定や、毎度開かれるパーティ、メイドたちにより閉じ込められていたなど、マーニーが商品として扱われていたという裏設定みたいなものは無いのだろうか。顧客のための接待要員だったのかもしれない。原作が児童文学であるため直接的な描写は無いにしろ、何かそのような意図が感じられなくもない。金持ちやお偉いさんには小児性愛者が多いという偏見が強すぎるのだろうか・・・。いやしかし、マッチ売りの少女も実は少女売春・買春という裏設定があるというではないですか。

・アンナについて
 アンナちゃんに泣きボクロつけてほしかったなぁ。
アンナちゃんの家に空気清浄機の描写があるのはさすがだなぁ。
 いつも濡れているアンナ。先ほども邪な気持からマーニーについて触れたが、思春期という時期や日常生活による様々なストレス、そんなアンナの置かれている(自ら置いている)環境を念頭に置くと、これも何かを意図しているのではないかと疑ってかかってしまう。自分の価値を知りたかったり、自分を汚してみたいとか、誤った方向に向かってしまう子供たちもいるではないですか。それを考えると・・・。

・その他
 十一さん(ボートのおじさん)もマーニーの過去に何かしら関係してるんじゃないかなぁ。ボートの漕ぎ方とか・・・。
委員長のこと最初先生か何かだと思ったわ・・・。

〇最後に 
 物語を紐解いていく上で肝心な下地がアンナとマーニーを繋げるまでにしっかりと描かれているからすばらしい。原作ありきなのかもしれないが、話の構成と見せる(印象付ける)場面の描き方がうまく、サスペンス・ミステリーとしても十分に楽しめる。しかしそれに固執しすぎると、何か物足りなくも消化不良感が否めなくなるかもしれない。決してそのような話ではないのだが・・・。

 ひと夏の事実や経験により一段と成長する女の子。経験ありませんか、夏休みを境に豹変した人たちを。大人しめだった女の子が茶髪だったり、ピアスなどのおしゃれをしはじめ、外見及び中身が別人に。今まで意識したことも無かった子に、今までに感じ得なかった魅力を感じ、何か意識してしまうようになるなど。経験を積むことで新しい世界を知り、一段と成長を遂げることができる夏休みという短くもあり長くもある特別な時間。そんな思い出に浸りながらも是非ともこの映画を楽しんでいただきたいものだ。 

 最後に念を押すが、このお話はアンナの成長物語であることを忘れてはならない。 
最初の 
「私は私が嫌い」 
という言葉に始まり、マーニーと出会い、秘密を打ち明けるシーンからの 
「私たち入れ替わっちゃったみたい」 
という言葉に繋がり、最後 
「あなたが好きよ、マーニー」 
という言葉に辿りつく。 ここからアンナは自分という過去を見つめなおすことで、だんだんと自分を好きになっていったということがわかる。セリフ間にはなんやかんやあるわけだが、それとともにアンナの成長をしかと見届けていただきたい。

 先立った両親や祖母への、私を独りぼっちにしたことを許さないという言葉からの、最後の許すという言葉につながるわけだが、アンナの成長物語として捉えるとこうも考えられるのではと台詞を少し取り上げてみた。

まぁ、この作品を一言で表現すると、
―自己陶酔による自己弁解―
ってな感じになってしまうんですがね・・・二言か。

・・・では。

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