2014年10月17日金曜日

ふしぎな岬の物語(2014)

~人と人とのつながり~ 

〇はじめに 
 割と低評価の方が多いようなので、私の意見を先に少し言っておくと、この作品は人それぞれ映画に何を求めているかによってかなり評価が分かれる作品だ。そんなこたあ全ての作品に言えることなのだが、これはそれがより顕著というか・・・。 

〇こんな話 
 最終的に(いや、最初からかな?)、吉永小百合と愉快な仲間たちになってしまう話。

〇つながり
 群像劇と言いましょうか、吉永小百合を中心に岬の人たちの関係を描いていくわけであるが、何とも薄いというか深みが無いというか・・・。そう感じるのも、まず序盤の話の作りの段階で、カフェや吉永小百合の位置づけがよくわからない。そしてそれぞれの人物における背景や関係性がはっきりと見えてこない(そこが入っていきにくかったんだよなぁ)。・・・とは言うものの、敢えて見えない、語らせないということをしていたように思う。それは全て最後の吉永小百合の独白に最高潮をもってくためだ。まぁ一応言っておくと、それぞれの人物を関連付けるというか、世界はつながっているという演出で、カップ、包丁、灯台の明かり(としての役割)、などなどありましたよ、あからさまに。

 我々が作品として見始める時点よりも前にも後にも、それぞれの登場人物に過去があり、背景がありと、まぁ様々な問題を抱えているわけで。それが見えてこないとなれば何とも共感しがたい物語が出来上がるもので、この作品がいったい何を言いたいのかというのはまるで見えてこないでしょう。そんな方は是非、これを映画としての見方ではなく、自分たちの日常生活に当てはめてみてはいかがだろうか。 

・・・とその前に、映画は基本的に鑑賞者を感動させるために、共感という手法を用いて鑑賞者に訴えかける。それのほとんどが、それぞれの人物に焦点を当て、こういった過去を持っていますと映像という描写を交えて丁寧に説明してくれる。しかしこの作品はそんな描写は一切ない。過去が映像として描かれない。現在という時間において登場人物たちから語られるだけに留まる。これがおそらくは評価を分ける要因であろう、ということを言っておく。

 戻ろう。あなたは、あなたに関係する人全ての背景、詰まる所のその人物を形作っているもの全てが見えていますか、見えてきたことがありますか。ただぼーっと眺めているだけでは、わからない。心開いてくれる人などいないのです。思い返してみてください。あなたの周りの人物を。全てとは言わないまでも、そのほとんどが表面的な関係を保っているに過ぎなくはないですか。嫌われたくないからと、あまり自分を出さず多少を我慢して怯えてはいませんか。事無かれ主義ではないですか。ただ衝突を避けるために、あきらめてるだけの人もいるでしょう。心を許せる人以外の人物との関係はこんなもんじゃありませんか。我々には到底見えてこない背景がそこには存在するのです。現実に群像劇として観たところで、そこに至るまでの背景を誰かしらが要点をまとめてくれ、編集してわかりやすくして観せてくれるわけではないのです。そこを我々の勝手な想像でどう補っていくのかというのが大切なのです。それこそが、つながり(ここでは共感しようとする試みとでもしておくか)となるのです。

 この描き方ができる、といよりそう捉えようとするのも、人間の行動には何か理由が伴うという前提があっての解釈になることを理解されたい。故に登場人物における背景と言うものを、鑑賞者は役者の演技力から勝手に探っていくしかない。そしてそれがどう読み取れるのか。これが全てを分けるのだろう。ここが面倒でわかりにくくあるのだが、ここにこの作品の人間味を感じてしまうのである。

 この作品を無理やりまとめると、個人で勝手に背景を補いつつというのはさんざん書いたので置いといて、人と人とのつながりは者や物によって、互いに認知することが無くともつながっており、そのつながりが新たなるつながりを生んでいくと。故に我々は独りではないと。そんな感じか。現実世界では自分という存在であるが故に、主観的視点であるが故に、この世界における全ての事情を把握している人など存在しない。そんな世界を群像劇(客観的視点)として観せ、且つ敢えて過去回想などの丁寧な説明をしない今という視点で観せていく。そこから見えてくるものがあるのやら、ないのやら。
 こう書くと、「LIFE!」という映画を思い出す。あれはおもしろかったなぁ。これはというと・・・。いろいろ書いたが、結局は製作者たちが力不足なだけだったのかもしれない・・・。

〇余談
 「ふしぎ」という単語は劇中の台詞で使ってほしくなかったな。ふしぎってのはこれがふしぎだって宣言するものではなく、自然と醸し出すものだと思うんですよね。偏見ですけど。

 吉永小百合の最後の爆発は中盤で想像がついてしまったなぁ。何か人との付き合い方が達観的で、全てを分かっているかのような発言と行動が癪に障っていたからこそかな。皆を支えているようでいて、実はその人が支えられていた。そして支えを一番に必要としているというのを醸し出すんですよね。意図的なのかな。だいたい他人に弱さ(脆さ)を見せずに、優しさを与える存在というのは、一番に弱さ(脆さ)を知っているというか、弱い(脆い)存在なわけです。これも偏見です。

「だいじょーぶ」「おいしくなーれ」 
といったような吉永小百合曰く魔法と呼ばれる鑑賞していて何かこちらが恥ずかしくなるような演出が為される。そして感情をむき出しにするような演技もだ。ふと思う。いつからだろう、こういった人間性をさらけ出すことを恥ずかしいと思い始めたのは。素直でまっすぐに生きることが、何かかっこ悪く感じてしまったのは、いったいいつからだ。

〇最後に
 この作品は宣伝で、あなたは独りじゃないということを謳っている。人と人とのつながりがテーマであるわけだが、そこに無理に感動する必要は決してない。感動するもしないも、鑑賞者の自由だ。共感すると言う人もいれば、全く理解できないと言う人もいる。1つの映画においてここまで評価が分かれるということが大事なのだ。そしてそれぞれの意見に耳を傾ける、目を向けることがより大事となる。あなたと関係する人、すぐそばにいる人で、この映画に対して賛否が様々あるわけで。そんな中に独り自分という存在がある。そんな人たちと生きている。これが人と人とがつながっているということなのである。
 くどくなるが、この作品に登場する人物たちの関係を追っていったときに、浅い・薄いと感じる人もいれば、深い・厚いと感じる人もいる。これが何を意味するのかと言うと、人と人とのつながりに意味を見出すのは、それぞれの主観であるということだ。人それぞれに違った感情があり、考え方があり・・・、この違いこそが人と人とをつなぎとめる。違いを是正しようとするためだ。そしてそれは100%相互理解に達することは決してない。達したのならばそれはおそらくつながりとは言えない(何て言うんだろう? 一致?)。逆に違い故に争いも起こる。勘違いされがちだが、それもつながりだ。人と人とがつながろうとする時点で、衝突も調和も避けられない。そこのとことを頭に入れ、ある程度割り切る必要がある。注意されたいのは、これは世間から見ればあきらめととられてしまうのである。なんでわからないかなぁ・・・、とこれもまたつながりだ。
 脚本がなってないという人もいるだろう。我々の人生を振り返ってみたときに、起承転結しっかりついていましたか。伏線をフラグを張り巡らしていましたか。そしてそれをきっちり全て回収してきましたかと少し反論してみる。こんなんでいいんですよ。人生が予定通り、計画通りに進むわけはないんです。緩急があり、喜怒哀楽があり、驚きがあり、全てに説明がつくわけではない。理不尽なことだってあるでしょうよ。皆さんは生きてて楽しいですか。周りの人を気遣う余裕がありますか。わざと目を向けていないことがありませんか。そんなことを考え、心に余裕を持ってこの映画を楽しんでみてはいかがですか。
・・・・・全てブーメランだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
ではでは。

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