2014年10月2日木曜日

地球、最後の男(2011)

地球、最後の男[DVD]


~私は、誰だ?~

〇はじめに 
 最近あまり口を開けていない方オススメです。閉じられなくなりますよ。 

〇こんな話 
 任務のために宇宙ステーションに滞在する男。ある時地球に帰すことができないと報告を受ける。そこから対話型の交信から、録音メッセージによる通信に切り替わる。ステーション内でひたすらに孤独を味わうことになる主人公。はてさて・・・。

〇私(お前)は誰だ 
 項目名が少しきつめかな。「自分(あなた)は何者」という言い方なら差し支えないかな・・・。 

 最後の人類との接触実験との言葉。人類、機械、あなたとは共生関係にあると。人類というのはあなたと関係のある(もしくは関係の無い)人物、いわゆる他者の存在であろう。機械とは現在のコンピュータという科学技術が発達した社会。あなたというのは鑑賞者である我々を指しているのだろう。 つまり現在に生きざるをえない皆さまの、現代の人間社会における人と人との関係性。の中に自分を見出す必要性や必然性。そしてそれを可能にするものは愛である、という説法をしてくれているわけです・・・多分。 

 劇中でちょくちょく説かれる結び付き(関係性、つながり、対話など人と人とを繋ぐものの総称とする)の必要性。最後に結び付きという言葉が使われるのでそれを採用する。 結び付きが無かったら・・・ 
 ある者は互いが無関心になり平和な世界が築けるだろうと言う。しかしそれは人類が望む形では決して無い。 
ある者は人間は生きる上で周囲の環境に存在を依存されるが故、結び付きが無くなると現実感がねじ曲がると言う。

よくわからないことを言ってみる。 
「人が人であるためには、その人を人として愛(認識)する人が必要」 

 結びつきとは個人の存在を確認し合う行為なのである。対話であれば、言葉づかいや姿勢といった、お互いの対応態度によりどんな立場にあるのかという互いの認識が為される。先輩後輩、上司部下といた上下関係にあたるのか、友人といった対等な関係(上下が常に入れ替わる)にあるのか、あとは店員と客、主人と(招待)客、とかか。おっと、愛というものにおいて一番重要な親と子、男と女という関係を忘れていた。

 結びつきというものによって我々はお互いに、あなたをあなたと認識していますという証明行為を行っているわけである。故に私は、私を私と認識できる。 
 好きの反対は無関心とはよく言ったものだ。この対立関係が成立するのは認識の有無に由来する。好きとは対象の認識に関する1つの方法に過ぎない。対象を認識してから自分が対象をどう思うか判断しているからである。故に嫌いも認識の1つの方法に含まれることになる。つまり好きという言葉を認識の有無という観点に立って考えてみると、無関心という単語は反対語として成り立つということになる。 嫌いの反対についても同じことが言えるか・・・。

 彼は任務完了より6年間宇宙に放置されている。やることは生命維持活動のみ。巨大建造物が目の前に現れる。その中である真実・理解に達すると思われる。

 人類最後の男となった人物が、究極的に宇宙における人類という種の存在の意味や意義に達するのかと思いきや、これはそうではないのだろう。命はその生命体の死により完結するのではなく、記憶により生き続けるというようなことも語られている。ある人物が死んだとしても、後世のものに受け継がれるものがあると。そしてそれは生きている上での繋がり、結び付きといったものでもある。と同時に自分の存在を証明するものである。自分と言う存在は自分で確立するものではなく、周りが確立するものというような風潮が存在する。記録・記憶に残ることでその人物が生きていたことは証明されるわけだ。人間関係において自分が何者であるかを例にとってみよう。

「あなたは かつおよろし さんですか?」 

と問われたときに何を基にそれを証明できるであろうか。身分証明書が一番か。それとも私と交流のある人物、こうこうこういう人物ですと話してもらうのがいいか。しかしその証言は証明のための媒介でしかない。つまり「かつおよろし」という人物を証明するには、証明するものだけでなく、私が「かつおよろし」という人物であるという認識や認証をする人物が必要なのである。

 この作品における男のように、仮に地球(人類)最後の男となったとしよう。そして異種と遭遇したとする。宇宙から見たら、ある種に対して異なる種が存在することは必然と言える事象である。が故に、異種遭遇においてはなんら疑問は無いとすると、
「お前は何者だ?」
という疑問が昇ってくる。それに対してこの男は、同種間で通じていた自分と言う証明が通用しないということを考慮し、
「私は人類という種の最後の生き残りである」
と種を強調し答えるであろう。しかし先ほどの結びつきというものを考慮すると、そこには人類最後の一人であるがゆえに、誰がそれを証明するのかという問題にも直面することとなる。人類という存在が本当に存在したのかと。だが異種から彼を見つめた場合彼の存在において、人類の存在自体は証明がされてしまうわけだ。彼一人の存在で、人類という種の存在を証明するには十分なのだ。彼は異種から、
「彼は人類である」
という種を強調して存在証明が為されるわけである。つまりこの場合、自分がどのような人物(存在)であるか、という認証や認識をするのは同じ人類という種ではなく、異種ということになる。しかし現実問題(同種間の世界)そううまくはいかない。最後の一人という状況で必然的に為されてしまう自分が自分であるという証明を、人間は他者との結び付きに重点を置くがために見失いがちになっているのである。他者との結びつきを基に、自分という存在証明(自己主張とも)を自分がしなければならない。なぜなら今日の社会において生き残るためには、同種(間)であるが故に、他者との何かしらの差異をつける必要が出てくるからである。競争社会の誕生である。自分が上に登るために、他人を退ける。周りから認められるという行為を、自らが率先して行う必要があるのだ。なんか面倒くさいな、そして辛い・・・。

〇余談
 ステーション内になぜか存在する書物(日記)も、記録により過去と未来は繋がれるといったことの暗示なのか。


〇最後に
 (まぁ前提として集団に属しているというのがあるのだが・・・)つながりという集団の中における自分と言う存在を意識せずに生きられたら、いったいどれだけ自由を感じられるのだろうか。今の境遇における窮屈さから解放されたがっている人は山ほどいるだろう。人付き合いが苦手な方、相性が最悪な人の存在など、問題は山積みだ。そんなものは全部取っ払ってしまいたい。しかし、そんなことをしようものなら一斉に排除が始まる。新たな関係性を傷けるなどほぼ皆無。あったとしてもそれはただの傷のなめ合いにすぎない(それでも良いわ、別に)。そして何よりそれは自由と言えるのか。おそらく、集団の中に身を置き自由を望んでいる者の本当の願いは、つながりという関係性の解消ではなく、集団の中において自分という存在の我儘を押し通したいという欲求ではなかろうか。自分が相手に抱いている好きも嫌いも、相手が自分に抱いている好きも嫌いも、対象を認識することによる同じ存在証明であるのに、大抵好の方は好まれるからだ(当然っちゃ当然であるが)。ざっくり言ってしまえば、ここで言う自由とは、相手の自分のイメージを嫌から好へと転換したいということになる。しかし、自分を含め人類全てを好きになる、人類全てから好かれる、なんてことは絶対に不可能であり、うまく自分をコントロールして生きていくしかない。それが人生だと割り切り、あきらめて生きるか、それとも新たな道(自由)を切り開くかはあなたの選択に委ねられる・・・。
終わります。

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