2015年11月15日日曜日

グラスホッパー(2015)



~邦画~ 



〇はじめに 
 グラスホッパーどうのというタイトルで、劇中に群集相ってな単語を出しておきながら、よくもまぁこんなとっ散らかった作品を撮るよ。終始何がしたいのかわからんかった。いや、それこそが狙いだったのかもしれない。この作品こそが、過密する情報社会の体現だったんだ。レビューが凶暴になる。  


〇想起する作品 
 「ゴーストライダー」(2007) 
 「藁の楯」(2013) 
 「ジョン・ウィック」(2014) 

〇こんな話
 渋谷でわちゃわちゃしてとっ散らかります。

・・・ハロウィン騒ぎでゴミだらけになった街は宣伝だったんだな。


〇擁護 
 とりあえずこの作品ではなく、邦画に対しての擁護から入る。 

 邦画と洋画。映画好きであればどうしても洋画に寄ってしまう。日本人がなぜ自国の映画に魅力を覚えないのか。私の勝手な見解を少し。

 日本人で日本に住んでいれば、ほぼ確実に日本語を話し、日本語を聴き、日本人の顔を見る。常にだ。それはどういうことなのか。

 さらに日本人は長いものに巻かれろ気質。雰囲気や空気に気を使い、顔色を伺う。

 我々は見慣れてしまっているのである。環境や境遇は別として。洋画よりも情報を多く入手してしまう。洋画は字幕を追う分、制限されることが多い。ここは吹替えがあるではないかと。それはまたどこか別のところで議論したい。

 つまり、邦画と洋画を鑑賞する上で、情報のスタート地点が違うのである。土台が違うのである。と同時に、入ってくる情報量も異なる。その画から、役者の台詞のトーンや動き、表情をより読みとってしまう。そこにおそらくマイナスに違和感を感じてしまうんだ。シーンとのギャップをより強く感じてしまう。ひたすらに粗さが気になってしまう。

 ってな感じでどうでしょう・・・



〇過不足・バランス
(注、わたくし菜々緒さんは好き寄りです) 

 演技の良し悪しは別として、登場人物に主役級を使いすぎている。ここからとある人物がどのような人物なのであろうかと言うことがほぼ確実に見えてくる。

 一番に菜々緒が原因だ。彼女がどうしても画として濃い。彼女の演技が映えるだけであれば問題は無い。どうしてもくどいんだ。そもそも上手くない、しつこい、さりげなくない、わざとらしい、大げさ。故に彼女を強調しておきたい訳があるのだろうと勘繰ってしまう。

 序盤に、登場人物たちを提示していく過程で、殺し屋家業の者たちと鈴木とが、寺原親子にアプローチしていくカタチができあがる。この構図・相関図を一旦理解してしまうと、1人おかしい奴がいることに気付いてしまう。 

・ 自殺屋「鯨」(おっつぁんゴーストライダー) 
・ 切れたナイフ「蝉」(ガキんちょ) 
・ かごめかごめの「槿」(冴えないリーマン) 
・ 潜入教師ピエロ「鈴木」 

 この男たちが一斉に寺原にアプローチを開始する。そこに奈々緒という悪女の存在、女を意識させる。と、ここで一旦登場人物を眺めてみた時に、足りないピースに気付くんだ。男だけの殺し屋と、寺原サイドの菜々緒。いや単に男と女で見た場合。釣り合わないんだ。釣り合うにはどうすれば?と考えてしまう。すると見つかる1つの道。そのままだった。これは擁護できない。 


 このキャストで行くのならばだ。馬鹿娘をもっとさりげなく見せるべきだった。教え子だとすんなり我々に刷り込ませるように工夫すべきだった。ビジュアルには気を使ったのかもしれない。しかしフレミングの法則だけでは浅い。ちょべりばだ。これだけ、これくらいしか授業内容が印象に残っていないという馬鹿要素よりも、それこそ主人公が一時期勤しんだキャッチセールスと同じ要素を感じるのだ。誘い文句、謳い文句。誰にでも通用するような、懐に入り込むために洗練されたであろう嘘臭さ。怪しすぎるんだ。

・・・キャッチの下手な鈴木との対比だったのか。


 仮に教え子且つ馬鹿娘を強調できたとしてもだ。序盤はまだ良いが、その後の展開が下手糞過ぎる。この二者のコンタクトの際にわざわざ菜々緒に彼女をひたすらに馬鹿呼ばわりさせる。二者を比較対象であるとくどく観せてしまっている。徐々に明らかになっていく悪女菜々緒の無能っぷり。この逆転要素で露呈してしまうものがある。悪女菜々緒が無能馬鹿とするのならば、はじめの対比に何の意味があったのかと。さらには先ほどの菜々緒のくどさがそれに拍車をかける。

 鈴木側もだ。せめて名前を聴くなりしないとな。疑うくらいなら、そして気遣いを見せるなら、思い出そうと何かしらのヒントを引き出そうとしてほしかった。謎にしておきたいのが見えてしまう。




 何より全体的に登場人物の絡ませ方が何ともうまくない。自分の中で勝手に描いてしまった流れに作品がついてこない。こんなムラムラを監督も感じていたのだろうか。

 こんな序盤からすんなり入り込ませない仕様、さすがだな。「邦画はこれだから・・・」ってなことを言われてしまう原因の1つだろう。とても残念だ。


 途中にパンプキンヘッドも出てくるしよ~。そいつ口開かへんねん。兄貴の方に鈴木とひたすらにコミュニケーションをとらせる始末。声聞かせないためなのは明白なんだよ。あれしゃべってたっけか? どっちでもええわもう。



〇不自然 
 謎の部分。物語のテーマ・芯となる部分。これの提示の仕方も何ともお粗末なんだ。全てが台詞、会話の中で提示される。さりげなくならまだマシだ。今お前に話てんねんぞというカタチでお説法が始まる。そして先ほどの主役級の人間たちがそれを吐くことで助長される。それは確かにテーマを気付かせる上では分かりやすい。しかしだ、そこで終わってしまうんだよ。比喩、例えとなる部分を先に出しておき、そこに後々事例が伴って我々は関心し、納得するのである。しかしだ、この作品にはそれが無い。台詞が全てになってしまう。ただ台詞を、字面を追うだけの印象しか残らない。 


 そもそもグラスホッパーだよ。そんなん東京で見かけます~?。馴染みが無いでしょと。最初のバッタの画で???だったのに、いきなり群集相ってさ~。話題としても突飛なんだよ。渋谷のスクランブル交差点を見せている時点でゴミゴミしているなとは誰もが感じていたでしょう。それにあのハロウィンのお祭り騒ぎだよ。どうせなら、彼らをゴミだと、イナゴの大群だと言うように形容する人間を出しても良かったんちゃいますか。寺原ジュニアが言ってたっけか? でもちゃうねん。我々と同じ視点で、高層ビルのような高い所から見下ろして言うから意味があるねん。近しい存在に言わせて意味が発生するねん。なぜに薬中を強調してまうよ。いやこちらにも意味はあるのだけど・・・。そしてバッタの大群がなぜか飛んでいく・・・・はぁ・・・ 

 どうせなら誰かグラスもって十六文キックでもすればいいんだよ。あれは「ハッパー」か。そして水平打ちの時の掛け声なのか。「元気ですか~!?」これは猪木か。


 アクションの位置づけも不明。

 「強さ」の1つの象徴かとも思ったが、特に他に比較する表現が無かったので・・・。




 全体的に謎の問いかけに対して補足説明やフォローが多すぎるんだよ。何その確認作業の数々。心配性過ぎだよ。勝手に鑑賞者に考えさせときゃええんだよ。わざわざさっきのはこういう意味だったんだよ。わかった? 大丈夫? じゃあもう一回やってみるねって・・・。そんな馬鹿じゃねえよこっちは。

 まぁこれは日本人の気質なんだろうな。良く言えば丁寧、勤勉、几帳面。そんな確実性や完成度を求めるあまり、心配性な面が際立ってくる。確認作業がひたすらに入る。確かに、確かにそれは日本人が世界に誇れる気質だろう。でもこの分野はそれが逆効果になることに、そろそろ気付こっ。お願いします。

 しかしそれが侵され始めた時、何かしらの危機感を覚えるべきなのか。いや最近は既にその気が見え始めているのか。偽装問題の数々。いやそれは別の国からか・・・。




 日本ならではの世界観や宗教観ってものが中々に見つけにくいってのが原因なのかな~。
浸透度合いも違うだろうし(知らんけど)。




〇最後に

 原作を読んでみることにする。


 ではでは・・・ 



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