2017年3月29日水曜日

パニック 脳壊(2000)

パニック 脳壊


~終わるものなんてない~


〇はじめに
 ウィリアム・H・メイシーの物悲し気な表情が活きた作品だね。





〇想起する作品
 「マッチポイント」(2005)


〇こんな話
 アレックスという独りの男から見つめるナニカ。



〇始まりと終わり
 アレックスという人間を見つめなおすということがひたすらに行われていく。

 1つはセラピーにおいて。セラピストとの会話が大筋ではあるが、初診でその診療所のシステムに慣れていくという段階で1人の女性と出会う。その女性に惹かれるという男としての本能的な話がまずあるわけだ。というより人が人に惹かれるという人間としての本能かな。してそこから関係を築いていくということ。深めていくということ。人と人とはまず出会いによって始まるわけだ・・・



 そして新しいシステムに移行する、慣れていくということ。自分という存在の立ち位置を探る必要があるわけで。そして何より誰もが皆何かしらにおいて初めてがあるということだろう。その初めてにより物事は始まるのだと。



 1つには息子との会話。父に疑問を投げかけてくる。当たり前だと思っていたことを。今まで考えなくともそれが当然だと思っていたことをだ。正確には普段考えないようにしていることか。考えようとも思わなくなったこと。





 家族というもの。両親、妻子。選べなかった人生と選べた人生と、今まで築いてきた関係を今ある関係を、その始まり(初めて)を通して新しい出会いと新しい環境に触れることで見つめなおしが図られていく。


 殺し(殺し屋稼業)というところで描いたのは人の始まりというところの究極の対比となる死という終わりを描くためだったのだろう・・・か。

 男女関係と同性愛とを見せているのも終わりに対しての始まりというところを意識してだろう・・・か。




 まずは銃を撃つことから、そしてリスを殺すことから始まった。それが数ある仕事をこなしていくことで究極は父親を殺すことに繋がってしまった。もしその始まり(初めて)が無かったらというところが息子サミーへと作用している。繰り返されてしまう、また始まってしまう何かがあるかもしれないと。そのしがらみをここで断ち切らねばならないと。それまではそんなことを考えたこともなかったわけだ。ただ言われるがままに要求されるがままに生きてきた人生。


 映画の始まりからアレックスという人間の変化の兆しはあるものの、自他共にアレックスという自己を見つめているようで実はただ内的な本能的なものと父親という外的な圧力により流されているだけなのではということが段々と明らかになっていく。それが自らを見つめてくれた他者を見つめることでやっと自己を見つめなおし下した決断。下さざるをえなかった決断。


 息子のサミーが締める。終わるものなんてないのだと。

 始まるものに必ずしも終わりがあるわけではない。彼は見えるものとして終わりを定めていた。終わりがないなら見えるはずがないと。しかし父親の死後彼は自らの中に父親を捉えている。そして父親を知るサラという存在との出会い。

 人は始まりというものに何か期待と不安を覚える。そして終わりを意識し始めると不安だけが取り残され恐怖を覚えるようになる。では始まりとは何なのか、終わりとは何なのか。我々が捉えているそれは果たして・・・

 というより普段そんなことを意識しないで生きている。意識しないように生きている。考える余裕が無いとも言えるのか。そこをふと立ち止まってみることをさせたいのか。

 見えるものとしての始まりに対しての見えるものとしての終わり。そして普段何気なく捉えているだろう見えるものだけが全てではない、その見えないナニカ・・・というところを1人の男の迷いから見つめる、見つめなおす。これがこの作品の言わんとするところか。




〇最後に
 本文とは全く関係ないですけど・・・


 こういう服の脱ぎ方できないんですよね・・・ どうでもいいか。


 ではでは・・・

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