2016年9月3日土曜日

ゆずの葉ゆれて(2016)



~繋がり~



〇はじめに
 走るというところに1つ駅伝を持ってくるのであればくどくても良いので全体で一貫して走りを繋いで欲しかった。父親が駅伝の選手であったこと、ジイちゃんがその監督であったこと、そして国体に出るまでの選手であったことで最終的に繋がってはいる。しかし駅伝を意識させているからこそ、途中走るというタスキが途切れているような感覚に陥ってしまう。これがジイちゃんとバアちゃんの過去回想にてうまく絡められなかったところだろう。申し訳ないが路面電車を追いかけるシーンでは賄い切れていない。

 でも多分違うんだよね。ここで捉えるべきは時代の変遷を匂わせながらも私が途絶えたと思ってしまったタスキが最後武へと、今生きている者へと確実に繋がれたということなんだ。

 ラスト同級生の女の子に武が決意を語るシーン。個人的に待っているのではなく後ろから武が走って来てほしかったわけだが、これも駅伝と掛けてるのかもしれない。彼女が武へ想っていたことがあったわけだが武はそれを受け止めきれなかった。しかし女の子を待つという行為で覚悟が現れ、彼女が武のところまで来たことで想い(タスキ)が繋がれ、想いを受け止めた武が走り始めたってこととしても見られる。

〇想起する作品
 「奈緒子」



〇繋がり
 武の走る場面から始まった分途中混乱を来した気がする。武が走ることが中心なのではなく、飽くまでもジイちゃんという存在が中心である。

 小学生にとって墓地とはどんな場所であるのか。その空気の中で武にとってのジイちゃんという存在を位置付けたのはうまかった。そして流れ星である。いつ降ってくるかもわからない。降ってきたとして願い事を3回言うなどほぼ不可能。それでも縋りたい武を観せられれば否が応にでも伝わってくる。


 どこまで意図したかはわからないが、ジイちゃんとバアちゃんの名前というところを葬式という滅多にない親戚が一堂に会する場面で描いたのもうまかったように思う。娘たちですら滅多に帰ってこれないようだった。親戚なだけに下の名前でのやり取りが目立つ。バアちゃんは娘や孫娘を名前で呼ぶ。そしてタケちゃんと。そんな中ジイちゃんにはおとうさんという呼称である。

 私の勝手な見解だか、親戚の名前を全ては覚えていない。話の中に出てきてもすぐには照会できない。そもそも全員と会ったことはないし、覚えようともしていないわけだが。何たる白状か・・・ 挨拶はするしされれば返すくらいだろう。しかし武の姉もバアちゃんの名前は知らなかったようで、田舎(地元・過疎化の進む町?)における時代の変遷や若者意識を問いたい面もあったように思う。地元という繋がり・・・

 柚の木もこれと関連しているのだろう。その地に根付くということ。若者が都会に出て行ってしまう時代だという話は為されていた。バアちゃんは逆に若くして田舎に嫁いできたわけでね。



 繋がりというところで勝手な憶測を少し・・・

 武の父親がジイちゃんの娘(長女)を空港に迎えにいく場面があるのだが、その際に父親は長女に後部座席に座るように促す。それを長女は助手席で構わないと。上座をどこに設定しているのか。運転席の後ろか助手席か。ここで父親が長女に対して距離を置こうとしていることが気にかかる。この2人には以前何かがあったのではなかろうか。

 ジイちゃんが駅伝優勝の祝勝会(打ち上げ)後に倒れる場面。1人で帰路についていることが気にかかる。ジイちゃんの家は隣だと武は最初に言っていた。つまり父親の帰路とジイちゃんの帰路は同じであったことになる。発見時の状況は定かではないが、親代わりに育ててくれたジイちゃんが独りで倒れるということ。これは何を意味するのか。

 ジイちゃんは男の子が欲しかったと長女の口から語られている。親代わりになり、駅伝(陸上選手?)においても教え子であった。そんな男が娘と結婚すれば義理ではあるが息子ということになる。

 葬式に訪れた孫たちは3人とも女の子だった。そんな中、武とジイちゃんの姿は本当の祖父と孫の関係に映る。ジイちゃんは武をそれはそれは気に掛けている。

 この辺りから推察するに、もしかしたら2人は以前恋仲にあったのではなかろうかとしかしジイちゃんが倒れたことに関して父親は何か負い目を感じている。一緒に帰っていれば、付き添っていれば、もしかしたら倒れなかった、あるいは症状は緩和されていたかもしれないと。それであの距離感を保とうとしている・・・。

 

〇疑念
 お姉ちゃんが玄関のドアを閉めたり、親戚が座敷から移動する際に湯呑を片づける画を見せたりと細かな配慮は見て取れる。それに対し娘家族が席を離れる際に湯呑が置いてけぼりなのが気になったが、家族が集合する上でのきっかけとして機能していたのでホッとした。

 こんな配慮がありながら、総体的にもすばらしいと感じた作品だけに気になってしまう箇所が多々ある。もったいない。

 例えば畑に囲まれた家。毎日毎日埃が舞い上がるような場所であんなに綺麗なわけがない。掃除が行き届かない箇所は確実にでてくる。益してや介護、農作業に加えの家事である。生活感を出してほしかった。

 農作業に関して。丁寧に何をしているのかをそのシーンではっきりと描きたいのはわかる。しかしオクラの収穫の際一個一個をあのスピードで間に合うわけがない。ジイちゃんが畑仕事をできなくなり、バアちゃんだけで支えていたと見せるのならばそれこそ手際の良さを見せなくてはいけない。

 さらには作業における格好。映画において画を観せるという上で、格好(ファッション)がモノを言うのはわかる。農作業をしましたという汚れた画ではなく、農作業をする上での格好を描くことで彼女の仕事を想起することを狙っているのかもしれない。しかしエプロン(割烹着)がまるで今卸したかのように綺麗なのはさすがにいただけない。ここで想起させるべきはその場での、今日一日の農作業ではない。ジイちゃんが倒れて何とか1人で支えてきた農作業なのである。バアちゃんの年季を感じさせなければ。

 そして道具のしまい方。あるべき場所があったようでそのあるべき場所に道具をしまっていたが、あの段階でもう次の日に動けるようにしておくのがプロというものだろう。時間が限られる中で動いているとしたら尚更効率を意識すべきところである。あれでは次の日にまた一から道具を揃えなければならない。明らかに手間である。仮にバアちゃんの性格として描きたいのならば他の箇所で描いても何ら問題は無かったはず。ここで描くべきはバアちゃんの性格よりも経験による知恵である。


 ジイちゃんが亡くなったことでそれまでの日々から解放されたとして娘(婿)がこれからの生活を考えなければと詰め寄る。これに対してバアちゃんは苦労なんかこれっぽちも想ったことは無いと。今まで独りでやってきたのに、葬式だけ来て何さという意地があったのかもしれない。これを想うと私もバアちゃんの言葉に感動するところはあったがやはり上記の事が引っかかってしまう。
ここに繋げるのならば是非とも詰めていただきたかったところだ。





〇最後に

 イマイチ柚子の理由がわからなかったが、鹿児島は柚子が有名なのかな。柚子の木にまつわるエピソードを絡ませても良かった気もする。

 所々気になる箇所があるものの、それを加味しても「想い」というものが伝わってくるすばらしい作品だった。


 ではでは・・・






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