2016年9月13日火曜日

アナザー(2011)

アナザー


~いないもの~


〇はじめに
 まぁ何つうか、転校の手続きの際に学校側が気を遣え。3組以外存在しないのかよ・・・ 教師側もルール重んじてるんだろ。まぁ見えない力なんですよね。


〇想起する作品
 「ファイナル・デスティネーション」シリーズ



〇こんな話
 橋本愛と二人でいないもの同士~


〇ようわからんのよ・・・
 持病もち、都会から田舎への転校、田舎(村社会?)特有のルール 

 主人公の制約と学校(クラス)の制約(誓約)

 これらの要素をベースに人間の陰湿さが描かれていくのはわかる。恐怖から来る、恐怖を遠ざけるための事なかれ主義、責任逃れや転嫁、我関せずスタイル。当事者になりたくないのは誰もが同じだろう。それを決定付ける「いないもの」くじ引き。そして合宿における諍い。疑心暗鬼に陥る様を見せつける。

 しかしふと思うんだ。これは実は優しさでもあるわけなんだと。仲間(クラスメイト)の死を受け入れられないというところが発端だったわけで。受け入れられないというのは他者を想う、気遣うということが動機としてあるわけで。ここで死と生が曖昧になっているというのもあるのだろう。

 これがあっての見崎の死者を見つめるという迷いと決断なわけだが、お前がさっさと死者を見つけることに専念しろとしか思えない。

 主人公の性格と持病とはこの想いというところが双方通行であると観せるためのものなのだろう。大きくは看護師を巻き込んでしまったのがそれに当たり、この彼の気遣いだけでなく、気遣われる様をもひたすらに映し出している。しかしこれもあざとさしか残らない。


 死者の代わりとして「いないもの」を位置付けることから逆算するに、死を恐れるというのはただ命が失われることが怖いわけではない。繋がりが切れることへの恐怖なのである。生者との、生者としての繋がりの喪失。要は孤独という不安。死に様を痛々しく観せることで遠ざけるべきものとして定義し、そして死していない者に対しその孤独を味合わせることで、彼らの死に対する恐怖が際立ってくる。


 そこに例外の存在である。榊原恒一という転校生の介入。とあるルールの中にルール外のものが入ってくる。クラスからすればお節介。橋本愛と二人きりの時間を過ごしたいという下心。くっそ~。逸れた。真相究明と事態悪化のテンプレートはおもしろいが、これが見えてしまうのが辛い。

 一番は見崎の位置づけだ。いないものとしての定義が浅はか過ぎるのが気になる。他にやりようがあっただろと思えて仕方がない。学校に行く必要がそもそもあるのか。あったとして教室にいる必要があるのか。教師にもそのナニカは適用されていると見せるのが後々機能してくるのはわかるが、それこそ学校ぐるみでどうにかならなかったのかと。記憶の改竄としてしまえばそれまでなのだが、この適用範囲が街全体に掛かっているとしている場面もあり整理がつかない。そのくせ怜子を終始認識していない祖母?の存在。


 それがなぜ気になるのかと言えば、そうせざるをえないからそうする他なかったというので機能するだろうところが、そうするようにと霊的な現象で操作してしまっているからである。事前にそうなるだろうことを予見させる場が作りだされている不自然感。そのくせそれに持っていくまでを見えない力に頼り過ぎているというこれまた不自然。


 死というものと向き合ったが故から来る行動の制限。死から逃れるためにはそうしなければならなかったというある種の諦め、仕方なさ。これがあってこその作品なんだおそらくは。しかもそれがとあるグループ内、集団で行われるからこそまた狂気じみてくるわけで。イジメと関連させようともしていたのかもしれない。自分がいじめられないために自分がいじめる側に回るということを想起させたかったのかもしれない。

 でもそれ故に陥る事態が1つもないのよ。彼ら自身の選択で雁字搦めになり避けられない事態に陥るというのが真の狙いのはず。

 事前に(死の)場が準備されていくのを見せるのはいい。しかしそれだけでなく、彼らを起点にそうせざるをえなかったとして辿りついた場所だと見せないと。必然的であったと見せなくては意味が無いのである。この描き方ではゴールが最初から決められており、馬鹿みたいにそこに突っ込んでいっているとしか見えない。最悪自殺願望だよ。これって全く逆の事象だろ・・・ 飽くまでも主体は彼らなのである。見えない力ではない。彼らの選択故の結果なのである。死に方死に様を凝りすぎるのは嘘くさすぎて逆効果な場合がある。このジャンルで楽しみたいなら「ファイナルデスティネーション」シリーズで事足りている。

 雰囲気で説明すると。だってこうする他無かったじゃん、じゃあどうすりゃ良かったんだよ、っていうのが欲しいのよ。そうすることで死と向かい合うんだよ。死者と向かい合うんだよ。そして人と向かい合うんだよ。で、この現象がループするのは過去と未来を繋ぐという意味合いもあるのでしょきっと。なぜ彼だけ記憶が?というのは傷を見せていることで一応は解消されるのかな。





 「死んだ者を“いるもの”として過ごした一年間」

これが起点でルールとしてまとめるとおそらく、

 「生きた者を“いないもの”として過ごさなければいけない一年間」

というお話で。これを考慮すれば見崎が榊原の転向初日に登校している、その後も学校にいるという制約は解消するか。しかしね、授業を受けていなかったりってところは何なんだろうとも思えてくるのよ。

 いるもの=そこにそのものを認識している

 いないもの=そこにそのものを認識していない


 いるものとしていた時は授業中はどうしていたのよと。いるものという認識はどこまでの認識をいうのかという定義でまた変わってくるわけなのだが。

 認識をただそれを見るという行為で成立させたのか、話しかけるといったことでいるという認識を他者と共有することで満たされたとするのか。

 前者であればいないものの授業の欠席は解消でき、後者はようわからん。

 条件をもっと遡れば、そもそも学校にいるものとしての認識なのだから、いないものが登校や学校にいなければならないという条件がそもそも成立しないわけなんだよ。つまりいないものが何もしなければ何も起こらない。いや街規模でも作用してるんだよね・・・

 まぁそういう事を突っ込む作品ではないわけなんだけど。


 まとめると・・・

 死と生のお話で。そのバランスのお話で。なぜ連鎖が起こるのかと言えばそのバランスが乱されたからで。ラスト怜子が「生きなさい」なのか「逝きなさい」なのかわからない台詞を吐くわけであるが、繰り返されるのであろう余韻から、おそらくは前者であることがわかり、且つその理由としては死したはずの者が生きた者を助けた事に起因していて、この辺りは「デッド・コースター/ファイナル・デスティネーション2」を観ていただければと思うが、そもそも生と死の調和は測れるのかというところにおそらく還りたくて。ではそもそも怜子は本当に恒一を想って助けたのか、それともこれから繰り返されるであろう事態に備えたのかというところが問題になってきて。やっとこさ死を見つめ始めるという訳なんだよ多分。


 ま、どうでもいいんだけどさ・・・


〇余談

 死んでるなんてありえねえよ!! 温もりを確かめてやる!!
 


















 まぁここはわかりやすかったですよね。配膳も2つでしたし。





















 問題はここですよ。



 記憶の改竄ではなく書いてないという・・・















 いっちゃん最初は見えてなかったのでまぁね・・・






















〇最後に

 かわいい





















 ではでは・・・


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