2016年9月22日木曜日

君の名は。(2016)

~結び~



〇はじめに
 タイムパラドクス的なところで気にかかる部分は確かにある。だがこれだけは言える。私はこういう作品に出会うために映画館に足を運んでいる。

 OPの入り方といいテンポといい、アニメならではを最大限に活かした作品だ。身を委ねていいのだという流れが非常にわかりやすい。とても心地よかった。



〇想起する作品
 「12モンキーズ」(1995)
 「もののけ姫」(1997)
 「ユー・ガット・メール」(1998)
 「オーロラの彼方へ」(2000)
 「ほしのこえ」(2002)
 「アナザー・エフェクト」(2005)
 「デジャヴ」(2006)
 「イルマーレ」(2006)
 「天然コケッコー」(2007)
 「アルマゲドン2012」(2010)
 「+1 プラスワン」(2013)
 「イン・ユア・アイズ 近くて遠い恋人たち」(2014)
 「忘れないと誓ったぼくがいた」(2014)
 「イニシエーション・ラブ」(2015)
 「ビューティー・インサイド」(2015)

 「ちょっとまってて」青山剛昌
 「チャイナガール」青山景
 「結界師」
 「もやしもん」



〇結び
 唐突に東洋医学と西洋医学の話から入るが、西洋医学は死体を解剖することで理論的に人体を研究した。病気の原因となるものを手術により排除し、体を元の状態に戻すと。解体新書が日本にもたらした影響は知るところだろう。片や東洋医学は自然治癒。生というものを重んじた。生きている上で体の中を流れているとされるエネルギー。“気”ってな言葉は聴いたことがあると思う。その力を高めることで病と相対した。

 ざっくりだが、西洋医学は死体から生にアプローチしたのである。死体という結果から生という原因にアプローチしたのである。片や東洋医学は生をまず受け入れたのである。生という現象の解明に原因である過去へのアプローチではなく現在(及び未来)を見つめたのである。

 もっとざっくりと外科と内科でも良かったのだが・・・。

 何が言いたいのかというと、“輪廻”という概念である。死が終わりではないと捉えているのは西洋思想にもあるのだが、輪廻転生というカタチで世界が流転しているという考え方は東洋思想においてのものなのである。ここが下地にあるか無いかだけでかなり違って見えてくる。


 つまりは因果律というところをどう受け止めるのかというところだ。原因があったから結果が生じたという考え方は科学という分野だけでなく基本中の基本だ。実生活においていくらでも体験していることと思う。これを割り切るというのが宗教的価値観に通じてしまうのだが、東洋と西洋とでは根本的なところで異なるのである。
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 近似する作品として「アナザー・エフェクト」を挙げておく。これもタイムトラベルに関して原因は明かされないのだが、使命があるのだとして割り切っている。タイムトラベルの原因ではなく、タイムトラベルしたことに意味があると。

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 この作品は最初からそうなのだが、なぜ2人がリンクしたのか?という原因(過去)へのアプローチではなく、リンクしたなら決まりを設けようという現状受け入れ態勢に移行する。これがあちらとは少し違うところで。ここのスマホ使用は現代チックでうまかった。
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 似たような作品に「オーロラの彼方へ」というものがあるが、いや~あの作品もすばらしいのだが、過去改変がまず先行しないのがこの「君の名は。」の違うところで。だからこその彗星の件なのよ。これが抜群に活きてくるのよ。
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 で、何が根本的に(決定的に)違うんだよと。理由というところである。理由(動機)付け。基本的にこの手の作品はタイムトラベルの原因は明らかにされずともタイムトラベルには意味があったとして、そこに使命を見出すのである。神(誰かしら)が自らに課された使命。しかしこの作品はそこに明確な使命観は持ち出していない。

 「〇〇しなければならない」

ではない、

 「〇〇したい」

なのである。だからこそ淡い青春ネタが活きてくる。




 これで私が何を解消しようとしているのかというと、瀧と三葉のリンクの部分である。なぜ2人がリンクしたのかということは上記の理由で即座に無視できるのだが、解消できないのが2人だった理由である。2016年瀧と2013年三葉がリンクしたわけだが、これの起点をどこに設けるのかというのが疑問として湧き起こる。

 2013年三葉が2013年瀧と接触したことが1つに起点として捉えることができるが、この接触故にこの段階ですでに彗星衝突によって三葉が死ぬことが確定しているルートに乗っている。これは後の結果として判断できることなのだが、リンク先の真相が発覚することで歴史は改変していない。3年という一定間隔の時差が開いた状態で同じルートを歩んでいたわけであるが、入れ替わりが起きなくなった事即ち三葉死亡エンド到達という解釈でこれはあの場面までの確定事項である。となるとあの湖でスマホの日記が消失することの説明がつかない。

 ではなぜあの場面で?となるのだが・・・

 ここは辻褄合わせよりも三葉が死亡したのかどうかというところに絞ったのだろう。瀧にとって三葉の死亡が確定したのは彗星衝突の事実を繋ぎ合わせた場面ではなく、犠牲者名簿に三葉の名前を確認した時である。つまりここで言うタイムパラドクスは、世間的な歴史認識との照らし合わせではなく、瀧という個人の歴史認識で左右されているということになる。ここに都合の良さが見えてしまうわけであるが、これは世間的な記憶(記録としておくか?)というものを個人の認識に落としていることに目を向けるべきなのだろう。

 以前にも彗星(隕石だったか?)衝突の事実があったようだ。しかしそれが忘れ去られている。その痕跡が湖として(いや御神体の方だったか?)残っているにも関わらずだ。それを荒唐無稽としてあしらうのである。我々は住んでいる街の歴史を知らない。以前その地ではいったいどんなことがあったのか。不可抗力として火事による歴史文書の焼失が描かれていたわけだが、大きくは後世に残す方法を先人たちが築いてこなかった訳ではなく、我々がそれに目を向けようとしなかったことにある。つい最近そんな事があったのは記憶に新しいだろう。

 我々はどうしても自らの寿命、世代(いや世界としておくか)以上のスパンでの現象理解が不得手である。まぁこれを究極突き詰めると何もできなくなってしまうのだが。確率的なところがたった一瞬だけに適用される。確かにその一瞬では起こり得ない、かもしれない。しかし次の一瞬には? まぁこれも一瞬という定義によるわけだが。このスパンを意識させるための彗星という現象なのである。1200年周期ということが言われていたと思う。1200年という具体的な数字が出されいったいその間にはどのようなことが起こったのだろうか?

 この作品においてタイムパラドクスの理屈をこねくり回したいのはよ~くわかる。しかし落とすべきはそこではなく、映画の中だけの事象で小さく突き詰めるのではなく、この映画の外のそれぞれの人間の、その個人の認識というところなのである。



 何か調子が良いのでもう少々脱線する・・・



 2人が惹かれ合う理由がわからないというレビューが散漫しているので補足・・・ 入れ替わり作品にはありきたりなわけだが・・・


 入れ替わったことで見えてくるその個人ってところが重要なんだよね、堪らないんだよね。人生ってのは分岐点はいくらでもあれど結局辿れる道は1つ。1通りしか歩めない。要はレールがあるわけなんだけど、この入れ替わりという現象でそれの脱線と復帰が見えるのよ。レールの上の景色ではなく、そのレールの周りからその個人にアプローチができるのよ。


 日々の生活で習慣づいているものがある。この習慣という道筋に復帰するのがまず入れ替わりにおいては前提となる。これにより今まで当たり前だったことが、今まで省略されていた事象が見えてくる。そして比較されるのである。中身(精神)が、である。

 たまにありませんか? 同じ工程のはずが良くも悪くも全く異なるクオリティを出してこられたりすることが。なぜこんなことが起こり得るのだろうかと。まぁ簡潔に見えている世界が違うわけなんだが。正確には捉えている世界か。ここにほろにがほろあまの恋愛要素よ。ほんとよく考えてるよ。


 関係性からアプローチしておくと、2人は当初同い年設定なのだが実際には3歳違いになる。最終的には三葉が先輩になる。2016年基準と2013年基準で経過時間も違う。これの対抗馬としての奥寺先輩なんだよ。三葉は奥寺先輩と同じ年頃なんだよ実は。だからこそ通じ合うものがあったのかもしれない。



少々戻って・・・

 学校の校庭に避難する件。3・11の時に津波が来るとしてここではダメだと高台に避難することを家族に訴えた子どもの話が頭を過ぎる。その個人という日常へのレール外からのアプローチをひたすらに観せられ、彼ら各々の行動を我々はどう受け止めるのか。何を胸に留めるのか。







 それでは彗星(衝突)が起点になるのか。しかし2013年の三葉と接触したことで瀧はリンクに関与する。つまり瀧の関与は彗星衝突前日からということになる。現在をどこに置くのかということでまた見え方が変わってくるのだが、2013年の三葉、2013年瀧(彗星衝突前日)、2016年瀧、と堂々巡りなのである。

 これの解消として糸(結び)という概念が提唱されている。それっぽく言うなればパラレルワールド的なノリである。
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 ここで感じたのはひも理論の解釈よね。結びということが成立しうるのは点ではなく線だよね。見えない引き合う力はどこから来るのかと。この辺は科学ではなく浪漫なんだよな~。
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 運命ってことで割り切れれば全く問題無いんですけどね。このファンタジー要素をどう受け止められるか。


 でね、時間の感覚というものをね、名前でも浸透させてるのよね。三葉、四葉・・・ 名前に順番をつける。時間が一方的に未来へと流れるというところでね。でもまたそれは繰り返されていくのよね。瀧も同じ理由でしょう。落ちた水は元には戻らない。覆水盆に返らず。もっと大きな括りで見れば循環している。


 何よりその心意気を感じたのがアニメーションよね。最近では「風立ちぬ」で感じた事なのだが、画の中で必ず何かしらが動いているのよ。あの作品は風ってなところがテーマだったわけだが、これはそのまま時間よね。時の経過を画で感じさせたのは本当に感動した。ジブリの後継者という声が上がるのも頷ける。


・・・。



 結局着地点がわからなくなってしまった。そもそもどこから飛び立ったんだったか・・・



 おもしろかったな~(しみじみ)。



〇最後に
 「夢番地」には大変お世話になったがそれ以来RADWIMPSには出会わなかった。また当分お世話になりそうだ。

 ではでは・・・





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