2016年4月4日月曜日

エスコバル/楽園の掟(2014)

字幕翻訳:岩辺いずみ


~排除~

〇はじめに
 総じて、パブロ・エスコバルはゴミと。ま~見えないものは無いものと同じですから、彼という人間がどのように見えるかというのはそれぞれで違ってくるわけで・・・

 マリアところどころの仕草が超かわいい。


〇想起する作品
 「ユニコーン・キラー」(1999)
 「ラストキング・オブ・スコットランド」(2006)
 「氷の処刑人」(2012)
 「ブラックスキャンダル」(2015)


〇こんな話
 パブロ・エスコバルの裏表。


〇汚
 パブロは排除とうい方法で自らの富と安全を維持する。


 いきなりだがお掃除関連のお話。綺麗にしたい対象を綺麗にするということを少し考えたい。

 その対象の汚れを何かしらで除去するとする。テッシュでも雑巾でもクイックルワーパーでも激落ちくんでも何でも良い。対象の汚れは取れ、綺麗になる。では、汚れを拭き取ったものはどうだろうか。汚れているのである。

 ではそれをいったいどうするであろうか。捨ててしまうのが一番である。見えないようにするのが一番である。綺麗なものだけが見えればいいのだから。

 仮に再度利用可能なものとして、別な対象を綺麗にする目的でそれを綺麗にするとしよう。雑巾であれば水で洗うことだろう。ある程度綺麗になることだろう。では雑巾を洗った水はどうであろうか。汚れるのである。

 その水は1つの基準とし、飲み水になるまでにどのような工程を踏まねばならないのだろうか。如何様に浄化できるのだろうか。


 これと同じことが行われているわけである。

 一見綺麗な社会を築く、人間を見せる。それはどこかが汚れているに過ぎない、誰かが汚れ役を買っているからに過ぎない。ある者は捨てられる。ある者は使い古されまた捨てられる。綺麗な社会とは言っても、結局一面でしか捉えられていないのである。綺麗にするとは即ち何かしらを汚すということなのである。



 「綺麗」とは何なのだろうか。どうやって判断されるのか。

 「汚れ」があってこそなのである。なぜなら、綺麗とは何に対して何よりも「綺麗」であるという比較により持ち出される事象であるからだ。

 ま~他の全てのことにも適用されるわけであるが。これがほんとに小さな比較からどんどんどんどん積み重なっていくわけだ。知識や経験として。優劣を決め、序列化し、大きくは種として、個人として適応してきたのである。しかしこれが中々に見えない。物心がつく頃にはほぼ無意識に判断がなされるまでになっているのである。



 総じて誰かの幸福は、誰かしらの不幸によってもたらされているということにつなげたいわけだが・・・

 幸福度という基準がそれぞれ曖昧ではあるわけだが。不幸な者がいるからこそ幸せという定義が定まる。これにより、幸せだと感じる者がいることが不幸な者がいるという逆も然りな状況になる。

 ま~この逆が少し面倒くさかったりする。幸せと自称する者が誰かを指して私より不幸であると判断し、幸せを実感しているのかと。その不幸であるとした対象は、果たして不幸を感じているのか否か。ここの主観的な判断が混じると私のこの理論はすごくぐちゃぐちゃになる。

 また別の機会にしよう。



〇最後に
 原題は「PARADISE LOST」
兄弟が楽園にたどり着いたところが描写され、物語は幕を閉じる。神さえも支配しようとした?パブロ。表向きは教会や診療所を建て、国民の(貧困層?)の支持を得、声高にパブロと名を叫ばれる。 楽園とはいったい何だ? なぜ楽園(で)は無くなったんだ?

 ではでは・・・


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