~風習・慣習~
〇はじめに
悪霊もしくは悪魔は実在するとする世界線ね。
〇想起する作品
「ヴァン・ヘルシング」(2004)
「スケルトン・キー」(2005)
「シェルター」(2010)
「ジェサベル」(2014)
「ダークタワー」(2017)
〇こんな話
森ってか村…
いやムラムラ…
〇風習・慣習
両耳にイヤホンを装着し、音楽に酔いしれながら公園内をジョギングをする主人公…
人の往来があるにも関わらず道路を跨いでボールを投げ合っている無神経にも程がある男たちの間を突っ切るわけだが…
ボールが彼女に当たってしまいそうなところを、周囲の言葉を耳にし彼女は見事にボールをキャッチし危険を回避している。
そして投げ返す場面では片耳のイヤホンが外れており、父親との会話をするに当たりもう片方のイヤホンも外している。
これを意図的に描いているものだと解釈する・・・
都会に住みiPodを使いこなす主人公、何もかもが目まぐるしく変化する世界に身を置く人間とでも言おうか、そんな彼女がインターネットも繋がらないコーヒーショップもないドドド田舎に足を運ぶことになり物語は動き出す。
ここに時代の最先端を行く世界と時代に取り残される世界、即ち都会と田舎という対比を見ることになるわけだが、この絶対に相容れないだろう世界の交錯を、どこか違和感を感じながらも親戚だからと無理してでも歩み寄ろうとする主人公の行動を起点とし浮き彫りにする様は見事…かな?
ただこの対比というのはどっちもどっち、どちらが絶対的に正しいというのではなく、一長一短な面があるのだと見えてきたりする。
例えば前者は時代の変化を受け入れることに肯定的で、極論ではあるが常に最先端であることを要求される。つまり築かれた歴史に少なからず耳を閉ざしているわけだ。
対し後者は、自らの信仰こそを絶対視しており、ムラに引きこもり外界との交信をシャットアウトしただひたすらに盲信している。前者とは逆に変化する時代に対し耳を閉ざしていることになる。
今回は両者が別の意志の下、歩み寄りを見せるわけだが、その間に優良な関係性を築く未来は見えたのかどうなのか・・・
そんなところを鑑みて湧き出る疑問…
ドルイドという守護者…歴史を知る(繋ぐ)者が現れなかったらどうなっていたか?
その歴史を悪しき慣習だと見分けられなかったらどうなっていたか?
悪しき慣習を断ち切る勇気及び力がなかったらどうなっていたか?
そしてもしそれが悪しき慣習ではなかったら・・・?
最初のジョギングで描かれたもの、
自分の世界に酔いしれる段階…
周りの声に耳を傾けようとする段階…
会話(双方向の意思共有)を成立させようとする段階…
…として劇中の人間の衝突に当てはめることができる様に思う。
両世界の両人間の絶対的な隔たりを感じさせながらも、家族という括りで歩み寄ろうとする者、部外者であり客観視する者、そして歴史の守護者(ドルイド)という多方面からのアプローチを見つめるに、避けることのできない時代の変化の中に見る歴史の重要性や、その是非を問おうとする意図が少なからずあったのではなかろうか。
〇最後に
う~ん、
でかいな…
なんかそっちばかり気になってしまったけれどもね。もう少しそっち寄りで受け入れ難くも憧れてしまう慣習を描いていただけたら良かったんじゃないでしょうか。
ではでは・・・
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