2017年7月7日金曜日

ギミー・ヘブン(2004)

ギミー・ヘブン


~感覚のズレ~



〇はじめに
 これ貴史が共感覚者だとして描いた方が良かったんじゃないかな。彼の感性に一番ズレを感じる。そして刑事の事件へのアプローチを含めても一番まともに感じるのが江口洋介であり、その江口洋介がラスト共感覚の共有を観せるわけだがそのおかげで唯一保っていた一本の筋が破綻する。



〇想起する作品
 「アンブレイカブル」(2000)

〇こんな話
 世界は孤独。




〇ズレ
 共感覚というモノと俗世間で一般とされるものとでどちらのズレを認識させたいのかという意思が不透明。共感覚というものにズレを感じさせたいのか、いや共感覚というモノから世間一般という常識がズレているのではないかと意識に登らせたいのか。


 刑事同士のやり取りから始まるがここから違和感を覚える。ただの伝聞ではなく現場を自分で見聞する女刑事を描きたいのはわかるが、そのすぐ後に麻里の経歴を言伝だけで鵜呑みにされては矛盾が生じる。

 そして足を拭けという件はなんなのだろう。彼ら2人の経緯含め、自分が質問した内容に関して返答が来るまで同じ文言を口にする事即ち世界の共有という意味を見出させようとしたのだろうか違和感しかない。ならば逆にコンビを組んでいるが故の言葉を口にしないでも伝わる理解を描いた方が良かった。

 タバコ吸おうとしたところで「禁煙だ」と注意するが、これを足を拭けとしつこく注意する場面にてここは禁煙だからと念を押していたとしたら彼ら2人の関係が何か違って見えてこなかっただろうか。



 江口洋介を軸に描いているが、彼の認識のズレにおける困惑は一切見えてこない。見えてくるのは周りの人間からの江口洋介のズレというよりは、周りの人間が一般の感覚からズレているのではないかという疑問である。しかも江口洋介を起点としたズレではなくだ。

 江口洋介を起点としたズレ、周りの人間を起点とした江口洋介のズレ。共感覚から見た一般のズレ、一般から見た共感覚のズレどちらでも構わないのだが、このギャップが描けてこその共感覚の共有というラストのはずだ。このズレという違和感を覚えているからこそ、共感覚者には世界がこう見えていたのかと突きつけられることでその溝が埋められる。いや逆に溝が深くなるかもしれない。これだってどちらでも構わない。問題はいつどのように彼には世界がこの様に見えていたのかという兆しが全く描かれていないことにある。しかも江口洋介が一番まともなんじゃないかと親しませては、ただいきなり宮崎あおいの世界が入り込んでくるとして違和感しか覚えない。

 彼がよく口にしているタバコ。銘柄はコレだというこだわりがあったっていいではないか。周りの人間に勧められたタバコは吸わない。コレが唯一口にあった、いや感覚に合ったものだとすれば。これじゃなければダメなんだという。銘柄指定してパシらせたり、注文と違うものを買ってきたことで注意する姿でも描けば認識の違いが見えてこないだろうか。

 タバコじゃなくったって良いんだよ。加えているのが鉛筆とかでも。鉛筆はよくかじってる人いるか。爪楊枝もオーソドックスだし・・・ そうだな、じゃあクレヨンとか色鉛筆とかさ。含有成分が色によって違うわけだから描きやすいと思うけどな。ガムテープ適当に巻いたモノとかだっていいじゃん。彼にとっての嗜好品として描ければ良いわけだからさ。

 服装はどうだろうか。皆がダサイと思っている服装でも彼にとってはキマッテルんだぜと見せては・・・?? 逆に色合い重視ではなく淡白なモノばかりと観せたって構わないだろう。彼らはそれぞれ違う共感覚というモノを有しているのだから。

 極度に触れたがるモノや触れたがらないモノを描いたっていいだろう。PCは問題ないけどTVは観られないとか。〇〇を取ってくれと頼んだ際に別のモノに手を触れたり。部屋の間取りで見せたっていいわけじゃない。普通はそこにあるべきものが無い。無いはずのものがある・・・等々。

 食に関する好き嫌いはどうか。リンゴの丸かじりはよくあるが、バナナを皮ごと食べるとかはどうだろうか。

 要は「こだわり」が見えないのである。「こだわり」というと好んでそちらに流れるという意味合いに感じるかもしれないが、嫌悪感を示すからとそちらに逃れるという意味合いのものでもある。



 宮崎あおいが江口洋介にこれがどのように見えるか(感じるか)と質問をする場面があるが、これを直接口(耳)で聞くということにも疑問を覚える。

 空は青い」とする常識的理解からの共感覚というズレ。同じ世界を共有することができないことが人間の根源的恐怖であるとされており、共感覚者同士の共有は為されないことから共感覚を有する人間は絶対的に孤独であるとしている。仮に共有者が存在した場合その共有者同士は世界で唯一の番いであると。

 共感覚の共有、まぁざっくりとはシンクロニシティ的ななんかテキトウな理解だけど・・・

 その人は世界がどのように見えているのか。世界をどのように捉えているのか。この共通項を探し出すことが人と人との関わりである。自分が捉えているものをそのまま自分の捉えている通りに他人に伝えるというのは人間同士の情報伝達手段には限りがあるが故に困難なものだが、その表現のレパートリーによって自分の捉えている世界をより深く共有しようと試みている。我々は無意識にそれを行っているのである。共感覚者への理解と共感覚の共有とに繋げるためにこれを下地にしなければならなかった。ただ共感覚者が浮いているとするのではなくだ。
 


 しかしこのレパートリーが無かったらどうだろうか。もしくは同じレパートリーを有していたとしてもそもそものレパートリーの認識が違う。

 色の話が出てくるのでそれを例にすれば・・・

 絵具でもなんでもいいが、様々な青色(青系統の色)が存在している中で、青色を取ってくれと他人に頼んだとする。頼んだ人間はどの青をイメージしており、頼まれた側は果たしてどの青色を手に取るだろうか。

 では、空を描きたいという共通の認識があったらどうだろうか。

 では、〇〇ブルーという名称を用いたらどうだろうか。

 いや自分で色選べや作れやってな話になるか・・・

 空を見たまま描いてみるとかの方が良いのかな。あ~そうだどこかでも書いたんだけど、虹の話はどうか。虹はどこでも誰でも7色として認識されるかどうなのか。


 この絶対的に埋められない差異を共感覚の共有の兆しとして描いていったら良い。彼がついいつも口にしてしまうそのモノへの認識。長年連れ添った人間ではなく、ぽっと出の宮崎あおいにそれを認識させる。言い直そうと思った矢先に宮崎あおいがピタリと彼の認識にハマるものを提供する。たったこれだけで宮崎あおいが貴史の対抗馬として頭角を現すことにならなかっただろうか。そして恋人との。

 最初の刑事たちの件もここへの兆しだったはずなんだ・・・ 銃を本物だと認識できない、人の生死の判別がつかないというのも・・・



 レパートリー(語彙)というところの特殊な表現は確かに存在していた。江口洋介ではなくだが。

 「目がビー玉みたい」・・・

 この表現のおかげで一般人とされる貴史という人間にズレを感じる。むしろ江口洋介の方がまともなんじゃないかと思うくらいに。

 昔一番気に入っていたのと似てると言うが、ビー玉というイメージはどのようなものを抱くだろうか。私が気に入っていたのは薄水色のビー玉であるがそれで果たして貴史が抱いているイメージとの共有は為されただろうか・・・

 ではビー玉ではなくエー玉だったらどうだろうか。ラムネの中に入っているビー玉らしきもの。これであればよりイメージが定まったのではないだろうか。共有の兆しが示せたのではなかろうか。

 イメージの幅を狭めることを嫌ったのであれば、貴史という存在の好みをもっと描いておくべきだっただろう。




 まぁ一番の問題は単に言葉としての表現、字面だけを追う表現ではなく、相手にその伝えたい意志があるかどうかを感じられないことにある。私の語彙能力や感性の問題は少なからずあろうが、彼らの表現を聞いていて全くその情景が思い浮かばないのは作品として致命的である。





 





〇最後に
 長年連れ添った貴史と、唯一の共感覚の共有者である宮崎あおいと。この2者で揺れ動く江口洋介ってよりは、共有者でも貴史という人間の認識が異なったってな話がオチなわけでしょ。ならもっとシンプルに作ればいいのにな。題材がおもしろいだけに勿体無いと感じる。


 ではでは・・・

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