2014年9月17日水曜日

イントゥ・ザ・ストーム(2014)

~我々は、飛ばされたいのか~ 

〇はじめに 
 B級SF映画と呼ばれる中の、ディザスターパニックものの安っぽいドラマの部分(人間の関係性)をそのままに、自然災害に関する映像を本気出して作った映画として観ることをオススメする。ありえなそうな自然現象を、鑑賞者という視点でそこまで物語にのめり込むことなく、高みの見物をすることで、より楽しむことができる作品である。 

〇こんな話 
 竜巻 VS 竜巻ハンター、ある家族、YouTuber   
 ・・・というようなお話。

〇人間VS自然 
 人間が自然災害に立ち向かうという構図を考えた場合に、人間の勝利は現象の解明や解消ではなく、生き残ることにあるのだ。我々を楽しませる要素としてある予防策や打開策は、生存のためのただの手段でしかない。そして劇中に起きる矛盾、無理な演出、ご都合主義を味方につけたもの勝ちだ。そんなことを念頭に置くことが、こういったディザスターパニックものを楽しむ上では必要になってくる。無い無いと頭ごなしに否定するのではない。あるかもしれないという思考で鑑賞する。すなわち、かもしれない鑑賞である・・・(適当)。

 さらにその人間VS自然を意識した、生き残るという物語を強調するために、主にPOV方式が用いられている。何が起こっているのかという状況把握をする暇もなく、現象に巻き込まれる。そのため災害に巻き込まれる被災者視点を、とても臨場感溢れる映像で楽しむことができる。携帯機器およびSNSが普及した現在においては、これが何よりリアルに感じるのである。それだけでなく何が起こったのかわからないような災害に対して、主に報道であるが、現象や被害の大きさを人間、建築物などの人工物との対比を用いて、引きで観せるという演出も為される。この辺もすばらしかった。現象に対してのアプローチが主体と客体を用いて演出されるのは「GODZILLA」で書いたものに近いのかなと。映像で観せるという技術は格段に進歩してきているので、これからのこういったジャンルの作品には心躍るものがある。

〇異常気象 
 日本でも騒がれるようになった竜巻。今までに起きたことが無い場所でも発生するようになり、異常気象だと騒がれている。もはや海の向こうの話ではない。 

 ここで少し取り上げたいのは、最後の父親のある言葉だ。タイムカプセルだか卒業制作だかのイベントで、現在から未来の者たちへのメッセージを記録に収めるというようなことをしているのだが、そこで最後父親が「25年後には思い出話さ」というような発言をする。恐ろしい目に会い、やっとこさ生き残ったのにこの発言。いや、別にこの時はいいんですよ。生き残ったことに安堵し、生の喜びを実感したと捉えればそれで何の気がかりもない。自然災害の前後でのインタビューの回答を比較させることもおそらく考えているでしょうし。しかしですね、25年後というようにある程度の時間が経過してしまってからは、どうなのだろう。記録には残っている。しかし記憶からは・・・。失われていないにせよ、薄れているのではなかろうかと。

 今日何かにつけて異常気象と騒がれている。ふと考える。今日では常習化してしまっている気象現象についてはどう考えたらいいのだろうか。それが始まった当初はどうだったのだろうか。異常気象という言葉かはわからないが、やはり同じように騒がれていたのではないだろうか。それが被害に見舞われるという経験を経て、防災対策などといった共存という道を探ってきて、今に至っているはずである。異常気象と騒がれたところで、人類がその環境下で生きることを選択したのならば、いずれはその現象が生活の一部になるわけで。慣れ、習慣化と言った方が良いのだろうか。いや、生きるための知恵か・・・。

 現状人間が自然を支配・制御するなどとは到底不可能であり、自然の中で人間がどう生きるかというのは結局共存の道を探るしかない。そしてその共存には確実に多少なりとも犠牲が伴うのである。もっと言えば、犠牲を伴うべきなのである。なぜならその犠牲が、自然と言う優しくも厳しくもあるものの記憶を我々に痛烈に刻み付けるからである。最近の自然災害における報道で、想定外、予想以上という言葉を多く耳にしなかっただろうか。我々は予想を上回らない事態には対処できる知恵を身につけている。そしてそれに慣らされた状態にある。その状態が我々に安定をもたらすのであるが、感覚を麻痺させもする(考えることを止めさせる)。そして自然はそんな我々を無視する。逆に考えれば、そもそも我々は自然を意識しているのか。当然かのような資源の無駄遣いを意識したことはあるだろうか。よそで人が死んでいることにも無関心である(だってどうしようもないじゃんと私は吐き捨てるが・・・)。木が一本切り倒されたところで何も感じない。トイレットペーパー、ティッシュペーパーなんてスーパーに行けば買えるじゃん。いくら使おうが私の勝手だろと。感謝の気持ちでそれらのものに接しろとでも言うのか。馬鹿馬鹿しい。と思うわけであるが、それと一緒なのだろう。自然(と大別してしまうが)を別に人間を排除すべく意志のある存在だと言うわけではないが、何ら人類の存在など意識されてはいない。この作品で言えば、竜巻ができちゃうんだもん。そうなるべくしてなっちゃうんだもんというような感じなのであろう。

 話を戻そう。詰まる所、異常気象もいずれは正常ではないにしろ、想定の範囲内の現象となる。それは人間の知恵や慣れによってもたらされ、それを超える異常気象なるものがいずれは現れる。それを繰り返すことが自然と人間とが共存していくということなのだ。
・・・とここではまだ終わらせない。はたして本当にそうなのだろうか。親父の「思い出話さ」という言葉に戻ろう。人間の記憶とは薄れるものである。そして都合の良いように改竄されていくものである。それを考慮に入れると、想定内という範囲が時間の経過とともに小さくなっている、想像力を欠くことに繋がっている、とも考えられるのではないだろうか。歴史的に見て現在よりも被害が出ている現象は数多くあるだろう。究極、人間は何度も同じ過ちを繰り返していると言える。それに対して被害の大きさは、情報量や技術的なものに依存するという人もいるだろうが、それによる対策が必ずしも是として働くわけではない、ということを理解されたい。

 自然災害による犠牲は無いに越したことはない。しかし犠牲が生まれざるを得ないというのが現状だ。常に細心の注意を払い、ビクビク怯えて暮らすわけにもいかない。なんとかならないものか。

〇疑念
 向こうではstormとtornadoという単語はどのように使い分けられているのだろうか?
 題名にはstormが採用されているが、実際にイントゥしたのはtornadoであった。tornadoをもたらすstormということだったのかもしれないが、tornadoの目にイントゥした映像が一番のクライマックスであったはずだ。スケールはEFというtornadoで使われるスケールが使われていたが、異常気象に関しての考察を気象学者が述べるシーンでは、ハリケーン"カトリーナ"を挙げていたりもした。学校はstormシェルターだと言っていたが、最後の報道ではtornadoという単語が使われていた。
 待て、tornadoが発生したことの無い場所で発生するというような状況だから、stormとの混同は良いのか。stormシェルターが安全だという心理に対して、いやあれはtornadoですという混乱をもたらしているわけであるから・・・ふむふむ、勝手に納得。

〇最後に
 はじめにも書きましたが、まとめますと映像はA級、内容はB級の映画ということになります。体感型映画ということで、映像を楽しむ作品です。存分に飛ばされてください。

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