2014年9月14日日曜日

グレート デイズ -夢に挑んだ父と子-(2014)

~区別・差別~

〇はじめに 
 ホイト親子が基になっている。いや、ホイト親子に影響を受けた人たちの話になっている・・・か。 

〇こんな話 
 ある父と子がトライアスロンに挑戦し、その過程や結果でいろんな人々が成長するお話。

〇区別・差別 
 父親が自転車を漕いでる最中に前に座っている息子が眠っていたかで、「寝るな、起きろ」と叱咤激励するシーンがある(水ぶっかけたんだったか)。これが障害者を扱った作品に対する少なからずの皮肉に思えてならない。 

 健常者と障害者でそれぞれ基準が違うことはわかる。しかしそれは健常者の障害者に対する偏見や、逆に障害者が健常者に対して求める最低ラインが存在することを意味する。そういう基準といった決めつけが差別に繋がっているのが現状である。事実障害者は生きる上で身体的に制限される。なにせほとんどのものの仕様が健常者を意識して作られているからだ。人工的なものでそれだ。自然界においてはそれがより顕著になることだろう。その格差を是正し、障害者に対しての道を広げているのは人工的なものでもあるわけだが。その技術革新が何をもたらしたのか。障害者に挑戦する機会を与えた、夢に一歩近づけたなどという見方をすれば聞こえはいい。父親が息子の友達に説得されるシーンは感動を呼ぶことと思う。

 しかし少し視点を変えてこの二人の挑戦を見つめてみると、この映画はトライアスロン(アイアンマンレース)に親子二人で臨むわけであるが、スイム、バイク、ランにおいて身体的負担を担っているのはどう見ても父親が大きい。息子はただ座っているだけではないかと。父親が踏ん張っているのに寝るとは何事だと。レース中に過酷な環境に晒されることになるぞという父親から息子への忠告や、息子のレース中の怪我もそんな鑑賞者の引っかかりを配慮してなのではないだろうか、と勘繰ってしまう。寝ていたとされる部分は、過酷な環境ゆえに具合が悪くなり意識が朦朧としていたのかもしれない。怪我に関しては、我慢して父親に黙っていたりしたことから、二人での挑戦に関しての父親への配慮や思いやりともとれるかもしれないがだ

 健常者を主体でこの映画を観るからそのような感情が湧きおこってしまうのかもしれない。実際のところこのお話は、障害者、健常者がどうのというのではなく、この話の親子とそれを取り巻く者の関係性の成長や改善を、トライアスロンに臨むという行為を通じて描いている。トライアスロンの訓練・練習ではバイクとランは息子と行うのだが、スイムはボートをけん引する練習はするものの息子は乗せていない。それを見守り、迎え入れるのは母親になっているのである。17年間連れ添い、世話をした母親と息子の関係。その歴史を途中から掻っ攫われる形にも見えるトライアスロンを通じた父親と息子の関係。それに揺れる夫婦間、親子間。それを支える(方向性を確かなものとする)姉、知人・友人との関係。最後のレースにおけるスタッフの補助の演出も見事だったと思う。父母、父子、母子、姉弟、にはじまりそれぞれの関係性に焦点を当てていたのも、そういった引っかかりを意識してのことではなかろうか。これは父と子の物語ではない。親子の物語なのである。いや、もっと広いな。  

〇最後に
 障害者、健常者と区別(いや、差別か)したときに、その両者は互いに広義な意味をもつわけであるが、健常者が障害者を支えるという構図がいち早く思いつくことだろう。この映画にもそれがひたすらに纏わりついている。前の項で述べた引っかかりの部分だ。先ほどは親子とそれを取り巻く者の成長物語であったということで完結させてしまったが、トライアスロンの前に父と子との会話を思い起こしてみる。二人でトライアスロンに挑むことを提案したのは息子の方であった。しかし、直前になってみて息子が「完走できなくてもいい」という、スタート地点に立てたことに満足するような発言を受けて、最初はトライアスロンへの挑戦に対して引き気味だった父親が「絶対に完走するんだ」と意気込むまでに至る。この会話に至るまでは息子が父親に寄り添っていくということで、障害者が健常者を支えているようなかたちだったわけだが、トライアスロン本番を迎えるにあたりそれが逆転する。父親が息子を引っ張っていくかたちになる。この関係性は非常におもしろくあるのだが、やはり最大の目標とされるトライアスロンで、結局健常者が障害者をけん引していくしかないというので感動を訴えるのはどうもしっくりこなかった。・・・と観ていたところ、やはりそんな人たちがいると危惧したのだろうか、しっかりと関係性の変遷を意識したのだろうか、最後のランの部分でタイムリミットと父親の身体の限界が迫る中、息子が自ら車いすを漕ぐに至る。挑戦することに意味があるというスタンスであった者がだ。身体的部分において父親に頼りきっていた者がだ。ここでやっと二人の関係性が一瞬かもしれないが対等になった、二人の進むべき方向が同じになったと感じることができた。。トライアスロンに至るまでのすれ違いや、スタート前夜の二人の会話のほんの少しの食い違いから、トライアスロンという過酷なレースを通じて、今まで見えてこなかった世界が開けたのではなかろうかと。一人ではできなかった、二人だからこそ、互いがいたからこそ、いや家族、知人、その他の関係者がいたからこそ成し遂げられたアイアンマンレースの完走。それが彼らに何をもたらすのか、もたらしたのかと少し感傷に浸ってみたりする。

 私は単純にこの手の映画には感動してしまうわけであるが、今回は少しひねくれた目で鑑賞してみた次第である。悪しからず。

0 件のコメント:

コメントを投稿

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...